第13話「妖のちから」
銀の体が見えない縄によってきつく縛られる。洸哉の組み上げた強力な束縛の術式が、妖狐の体を固定する。半人半妖の姿をした美しい花魁が、その表情を醜く歪める。だがその直後、彼女は圧倒的不利にも関わらず不敵に笑った。
「ああ、なかなか面白いものが見れたわぁ。騒がしくてしゃーなかったけど、まあ、ええやろ」
「何を――」
洸哉が怪訝に眉を上げたその時。艶やかな花魁の体がどろりと溶けた。火を翳した蝋燭のようにぐにゃりと形を失い、地面へと広がる。それは瞬く間に土へと染み込み、消えてしまった。
あまりのできごとに洸哉は唖然としていた。あまりにもこれまで対峙してきた妖の力を遥かに凌駕している。周囲を見渡し警戒する彼に、どこからかクスクスと女の笑い声が響く。だがその姿は見えない。
「今夜は楽しませてもろたし、お礼に今日は食わんとおきましょ。――これから、もっと楽しませてくれるやろしなぁ」
「出てこい。銀!」
クスクス、と嘲笑が響く。それはいくつも重なるようにして輪郭を曖昧にしていき、やがて楼閣の燃え落ちる轟音によって掻き消された。
「くっ。金橋、離脱するぞ」
洸哉は銀を追うことよりも、後輩を助けることを優先した。血を流し蹲っている金橋の肩に腕を回し、その体を背負うようにして火の手から逃れる。もはや花街を包み込む炎を食い止めることは、できそうもなかった。それどころか、あらゆる所に火が回り、逃げることすら困難だ。
「にゃぁんっ」
金橋を背負ったまま逃げ道を探していた洸哉は、どこか聞き覚えのある猫の鳴き声が聞こえたような気がした。はっとして周囲を見渡すも、それらしい影は見当たらない。だが、代わりに体格のいいイタチが一匹、ぶっきらぼうな目付きを向けている。
「さっきは、お前が助けてくれたのか」
洸哉が術を練る時間を、どこからか現れた大蛇が銀の注意を引くことで稼いだ。あれの正体が何なのかは分からなかったが、力強い風を纏っていたように思う。であれば、このイタチ――。
「もしかして、鎌鼬か?」
そのイタチは複雑な表情をする。半分合っているが、半分間違っている。そう言いたげな。しかし、人の言葉は話さない。イタチは洸哉の目を一瞬覗き込んだ後、勢いよく走り出した。彼の周囲に風が吹き抜け、炎を押し抜ける。風の道を見て、洸哉も彼の意図に気がついた。
「ありがとう、鎌鼬」
妖に感謝するのは初めてのことだった。洸哉は自分の発した言葉に驚きながらも、燃え盛る町の隙間を駆け抜ける。大路には人が溢れかえり、女郎を庇って逃げるもの、火を押し止めようと向かうものが入り乱れている。イタチはそんな人々の足元をするりと駆け抜けていく。金橋を背負った洸哉は、それを見失わないように追いかけるのが精一杯だった。
そして、彼らは花街と街を隔てる門までやって来る。悲鳴を上げながら逃げ惑っていた人々も、大きな堀を越えれば一安心といった様子で後ろを振り返り、天にまで届きそうな大火を見上げている。
洸哉もまた、安全なところまで逃げおおせたことにふっと力が抜け、道端に座り込みそうになる。だが、その時。
「洸哉さん!」
「っ! 葵、さん」
今度こそ、耳に馴染みのある声がする。不思議と活力が湧き出し、疲弊した体が立ち上がる。人混みをかき分けるようにして現れたのは、着物も乱れた婚約者――冷泉葵の姿だった。
「どうしてここへ」
「えっ、あー。その、洸哉さんが怪我をなさっているような気がして。あ、そうだ金橋さん! 今すぐ手当をしないと」
驚く洸哉に葵はぎこちない笑みを返しながら、ぐったりとしている金橋の手当を始める。なぜか包帯や薬といった必要なものを全て持って来ており、すぐに金橋の応急手当ては完了する。この後、すぐに医者に見せなければならないが、ともかく血は止まったはずだ。
一仕事終えて満足げに額の汗を拭う葵を、洸哉は目を開いて見ていた。
「まるで、俺たちの状況を知っていたようだな。今回の件は極秘だったはずだが――」
「そ、それは、ええと――」
どきりとする葵。だが、彼女が何かを言う前に、人混みの奥から洸哉の名前を呼ぶ声がいくつも聞こえてきた。
「坊ちゃん! ご無事でしたか」
「洸哉様!」
葵の後を追いかけて屋敷から飛び出してきた女中たちである。彼女たちはボロボロの主人の姿を見て、悲鳴を上げる。
「葵様は坊ちゃんが戻らないので、一心不乱にお祈りをなさっていたのですよ。ああ、ご無事でなにより……」
ミヨがその実在を確かめるかのように洸哉の腕を掴む。
「そ、そう。私にできることなんてお祈りするくらいで。そしたらなんというか、天啓? みたいな?」
「そうだったのか……」
焦り顔の葵の言葉を、洸哉は受け入れる。彼女も妖のひとりなのだ。神通力のようなものがあるのかもしれない。いつのまにか姿を消してしまった鎌鼬も、変化の力を持っていたのだ。やはり妖というのは、まだまだ人間の理解の及ばない存在である。
「洸哉さんは怪我してない? 服の下とか。火傷は大丈夫?」
葵は立ち尽くす洸哉の体をぺたぺたと触って、異常がないか確かめる。そんな彼女の動きに気がついた洸哉は、驚いて機敏に飛び上がった。
「っ!? だ、大丈夫だ。問題ない」
「洸哉さんってそんなに動けるんだ……」
一瞬で遠くへと離れてしまった青年に、葵は目を丸くする。いつも静かで落ち着いている彼にしては意外な反応だった。
しかし、洸哉は額に手を当て、小さくため息をつく。
「こ、婚約しているとはいえ、まだ俺たちは夫婦となったわけじゃない。あまり触るな」
「……もしかして照れてます?」
色白な肌に赤みが帯びているのは、炎の影ではないだろう。ぴこん、と葵は頭のうえから猫の耳を出しそうになり、ぎりぎり我慢する。しかしその瞳は人の弱点を知った猫のように丸くなっている。
「違う。……ここも危ない。早く屋敷へ戻るんだ」
にやにやと笑う葵の背中を押して、ミヨに預ける。その青く澄んだ瞳に覗かれると、心の奥まで見透かされそうでむず痒かった。彼女を前にすると、言葉がうまく出てこなくなる。
ただ、洸哉はひとつ確信していた。
人と妖の歩み寄りとか、長い対立の歴史の終結とか、そんなことは関係ない。自分はただ、彼女のそんな瞳に心を奪われたのだ。
ミヨに連れられて屋敷へ戻る少女の背中を見送って、青年は湧き上がる力を術へと変えた。
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