第3話「冷たい暮らし」
そんなわけで、化け猫の妖たる葵と、調伏師の次期当主である洸哉の同棲生活が始まった。結納はまだ先の事となるが、生まれも育ちも山の中である葵が町中での生活に慣れるため、という意味合いもある。
「葵様、お食事の用意ができました」
「ありがとう」
私室の大きな窓からは、麗らかな陽光降り注ぐ庭園が望める。
窓の横木に寄りかかるようにしてそれを眺めていた葵は、ミヨの声に応じて立ち上がる。
「お待たせしました」
「ん」
居間に入れば、そこに食事の用意がされている。奥で構えているのは相変わらず表情の消えた冷泉洸哉である。
膳に並ぶのは炊き立てでツヤの立った白米、葱と豆腐の味噌汁、焼き鯵、鰹節をたっぷりと添えたほうれん草のお浸し。今日もまた、華美に過ぎるとまでは言わないが、隅々まで心の籠った丁寧な献立だ。
葵が膳の前に座れば、自然と食事が始まる。
「いただきます」
箸を手に取り、鯵の身をほぐす。早速口に運ぶと塩味の効いたふっくらとした魚の旨みが染み渡る。思わず葵は耳と尻尾を覗かせて、忙しなく前後左右に揺らしていた。
葵がこの屋敷へ移り住んで数日。食事に出てきた焼き魚を葵が気に入ったことが察知されたのか、その後は頻繁に色々な魚が出てくるようになった。実家ではなかなか出ることのない海の幸ということで、彼女はいつも楽しみにしている。
「……どうだ」
「ふふあ?」
脂の乗った鯵に舌鼓を打っていると、いつもは物静かな洸哉が何やら呟いた。意識が魚に向いていて主語を聞き逃したと思った葵が首を傾げると、彼はいつもの鉄面皮のままじっと彼女を見返す。
「え、えっと?」
「……屋敷の暮らしは、どうだ」
少しはしたなかったかしら、と不安が胸をよぎった葵だが、直後に洸哉が言いなおす。彼の聞きたいことを察した葵は内心で胸を撫で下ろしながら応えた。
「ミヨたちは申し訳なるくらいに尽くしてくれてるし、不自由はしてないわ。何もさせて貰えないから、ちょっと戸惑うくらい」
「そうか」
再び沈黙。食器がかすかに擦る音だけが居間に響く。
実際、冷泉家での生活は葵が抱いていた当初の予想よりもはるかに快適なものだった。部屋からはいつでも広い庭が眺められるし、頼めば町で売られているという本や珍しい菓子まで出てくる。常に部屋のそばに誰かが控えていて、軽く声を上げるだけですぐに御用聞に現れるのだ。
かなり甘やかされていたと自覚している実家でも、ここまでの厚遇はなかった。葵の方が恐縮してもう少し任せてほしいと言っても、ミヨたちはむしろ悲しげに目を伏せるのだから困ったものだった。
屋敷の主である洸哉自身は、早朝に出掛けて夜に帰ってくるため、日中は不在だ。彼が外で何をしているのか、葵は全く知らない。なにせ、こうした食事中も彼は全くと言っていいほど会話をしないのだ。
「……少し退屈ではあるかも」
洸哉には聞こえない程度の小さな声で、葵はそう一人ごちる。
ミヨたちの手厚い奉仕はありがたいものの、蝶よ花よともてなされ、箸より重いものは持たせて貰えないという生活は正直息が詰まる。外に出られれば息抜きにもなるのだろうが、それだけは許して貰えなかった。
曰く、「町は悪漢などもいるやもしれません。葵様をお守りするよう命じられておりますので」とのことだ。要は大事な
葵はもともと悪漢どころか熊やら不届きものの魑魅魍魎が闊歩する山奥で駆け回っていたのだ。今更町の大男程度どうにでもなるだろうと思っているのだが、なかなか外出は許されない。
「書庫に流行りのものを入れておいた。暇なら、そちらに行ってみるといい」
「えっ?」
愚痴は聞こえていないと思っていた葵は驚いて顔を上げる。洸哉の黒い瞳が、彼女をまっすぐに見つめていた。
外に出るのはまずいが、暇つぶしの物は与える。そういうことなのだろう、と彼女は解釈した。しかし実際のところ、本というのはなかなか面白い。妖の中で全くなかったわけではないが、やはり人の町には面白い物語が多くあるようで、葵もそれなりに楽しんではいた。
「ごちそうさま」
「えっ? 早っ!? あ、ありがとうございます」
葵が呆然としているうちに洸哉はそそくさと食事を掻き込んで立ち上がる。葵も慌てて食事を片付け、準備を整えた洸哉を見送るため玄関に立つ。望んでなった関係ではないが、これくらいはやらなければ流石に非礼に過ぎるだろう。そう考えて、彼女は毎朝毎回、洸哉の出掛けるのを見送り、帰宅するのを迎えていた。
仕事に赴く際の洸哉は、動きやすいズボンにシャツという洋装だ。更に黒髪の上に帽子を載せて、見た目は有力な調伏師とは思えない。それでも滲み出す美人の雰囲気だけは隠しきれないのだから、罪な男だ。
「行ってらっしゃいませ」
「……行ってくる」
相変わらず抑揚のない声。洸哉は口を一文字に締めたまま、ミヨからカバンを受け取り外へ出る。門の方へと向かう彼の背中を見送った後、葵は今日は何をしようかと思案する。
「ミヨ、書庫に案内してくれる?」
「かしこまりました」
結局、彼女は洸哉が用意した書籍の品揃えに興味が湧いて、屋敷の奥にあるという書庫へ足を向けるのだった。
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