第4話「見知らぬ顔」
冷泉家の書庫は新築ということもあり、埃が厚く積もった陰気臭い場所という葵の予想は大きく外れた。むしろ木の爽やかな香りが風に乗って通り抜け、天窓からも豊富に光が差し込む、なかなか開放的で過ごしやすい場所だ。
「へぇ。なかなか良いじゃない」
背の高い本棚には年季の入った和綴じの本から物々しい洋書まで、さまざまな本が収められている。小難しい図鑑や怪しげな術の解説書らしきものもあるが、ほとんどは物語だ。どうやら葵のために用意したというのは真実らしく、詩歌や恋物語といった種類が多い。
たしかにこれだけ大量の本があればしばらくはここに引きこもっていられるだろう。本も高いだろうに、妖ひとりを押し込めるためだけに随分と奮発したものだ。
なんとしてでも自分を留めておきたいという洸哉の意思を感じ取った葵は、ふんと笑う。しかし、彼女の意識はすでに目の前の本には向けられていなかった。葵の丸い目が見るのは――大きな天窓である。
「結界の気配もないし、ちょっと化け猫のこと舐めてるんじゃないの?」
ぺろり、と葵は唇を舐める。いつも側にいる女中たちも、書庫の中までは入ってこない。葵がゆっくりと書に耽るための気遣いだろう。つまり、自分が外に出るまでは邪魔も入らない。
天窓の高さはちょうど葵の背丈の三倍程度。人であれば到底無理な高さだが、猫であれば……。
「はっ!」
葵は腹のあたりに力を込めて、勢いよく息を吐き出す。くるりと視界が翻り、次の瞬間には少女がひとり消えて、崩れた着物の中に小さな三毛猫が現れた。
「にゃぁん」
不敵な笑みを浮かべてひと鳴きした三毛猫は、そのまま軽やかに走る。爪を壁に突き立て、脚を弾くように蹴り出して跳躍。垂直の板壁を駆け上り、一直線に天窓へと向かい、その縁に手をかけた。
「にゃふんっ」
注ぎ込む陽光が眩しい。しかし三毛猫に変化した葵は怯むことなく外に飛び出した。
空中でくるりと一回転する余裕すら見せ、音もなく着地。彼女はぴんと尻尾を伸ばして、羽が生えたように軽い足取りで駆ける。屋敷をぐるりと囲む塀も化け猫の身体能力にかかれば無いも同然だ。
「にゃうっ!」
書庫に足を踏み入れてものの十秒もしないうちに、葵は冷泉家からの脱出を果たした。
(さてさて、どこに行こうかしら!)
冷泉家へ移ってきて初めての解放。生まれて初めての人の町だ。葵の興奮は否応なく高まる。塀の外へと一歩出れば、そこは帝都のど真ん中。多くの人が行き交う大通りは、くらくらするほどの賑わいだ。
少し探検して、不審に思われない程度で帰宅すればいい。葵は軽やかな足取りで歩き出す。
「あらあら! 可愛い三毛猫ちゃんじゃないの!」
「にゃうっ!?」
だが、歩き出して三秒で出鼻をくじかれた。
突然頭上から突き抜けるような大声が放たれて、葵は思わず飛び上がる。振り返れば、通りに面した乾物屋の軒先に恰幅のいい女性が立っていた。
「この辺じゃ見かけない子だねぇ。毛並みもいいし、どこかの家の子かい?」
一瞬警戒する葵だったが、女将はしゃがみ込んで猫撫で声を出す。更には売り物らしきスルメイカを手に取って葵の鼻先で揺らしてみせた。
どうやら悪い人ではないらしい、と判断した葵は、そのまま女将へと近づく。それだけで彼女は嬉しそうな声をあげた。ころんと寝転がって見せれば、もう有頂天である。
「ちょっと待っててねぇ。何かあったと思うんだけど……」
葵が顔を洗っているうちに、女将は店の奥へ引っ込んで、しばらくして戻ってきた。その手には小魚の煮干しが一掴み握られている。ふんわりと香るいい匂いに葵は思わず立ち上がり、銀色の小魚に目が釘付けになる。如実な反応を示した三毛猫を見て、女将は更に相貌を崩した。
煮干しが地面に置かれるが、葵としてはあまり土のついたものは食べたくない。彼女は女将の手に残っているものへ鼻先を突っ込んだ。
「あらあら〜〜! 可愛い猫ちゃんねぇ。人懐こいし、お行儀もいいし。ウチの子になるかい?」
「おい、イト。何を言ってんだよお前は」
葵が煮干しを齧っていると、頭上で新たな声がする。今度はしわがれた男の声だ。ちらりと顔を上げると、店の奥から前掛けをした細身のおやじが出てくる。この乾物屋の主人のようだった。
「アンタが犬猫嫌いなのは知ってるよ。ちょっと冗談言っただけじゃないか」
イトとは女将の名前なのだろう。そのお互いに気心知れたやりとりから、男とは夫婦の仲であることがすぐに分かる。どうやら旦那は動物が嫌いらしい。
(まあ、流石に他所の家の飼い猫になるのはごめんだし)
葵は化け猫であって、ただの猫ではない。冷泉家に戻らなければならない身の上でもあるし、イトの下で可愛がられる暮らしは選択肢にすらない。
「にゃあん」
「あら、もう行っちゃうのかい?」
煮干しを食べ終えた葵は、イトに向かって一度鳴く。軽く尻尾を振ってから背中を向ければ、彼女も葵の言いたい事を察したようだ。残念そうに眉尻を下げながらも、口元を緩めて見送る。
「また来なさいね!」
「来なくていいよ。ウチは乾物屋だぞ?」
細身の旦那と恰幅のいい女将。凸凹ながらも仲の良さそうな夫婦であった。
人間の町で暮らす分には食いっぱぐれることはなさそうだ。葵はまだ煮干しの香りの残る口元をぺろりと舐めながら足取り軽く町を往く。腹もいっぱいで上機嫌だった彼女は、街角を曲がろうとしたその時、奥からやってくる人の気配に気付くのが遅れた。
「ふにゃっ!?」
突然目の前に現れた人の足に反応しきれず顔からぶつかる。猫とは思えない鈍臭さに恥ずかしくなってつい顔を洗っていると、頭上から声がした。
「おや、三毛猫は珍しいな」
「……にゃぁ?」
それを聞いて葵はつい耳を疑う。その声に聞き覚えがあったからだ。
まさかと思って顔を上げようとして、それよりも早く葵の喉元に手が滑り込んできた。
(なぁっ!? な、なにを――)
不意を突かれて固まる葵。その指がさりさりと喉元の柔らかい白い毛を撫でる。困惑のまま、彼女は猫の本能からゴロゴロと声を出してしまった。それほどまでに力加減も完璧な、気持ちのいい撫で方だったのだ。
「ゴロゴ――ゴッ!?」
そのまま快楽に身を委ねかけた葵だったが、閉じかけた目が間際に捉えた顔を見て思わず咳き込む。
「ほらほら、可愛いなぁお前は。よしよし、ここが良いのか? よーしよしよし」
(な、な――)
甘くとろけるような猫撫で声は、男ながら先ほどのイトに張り合えるほど。目を細くして、頬も崩れきっている。わさわさと葵自慢の毛並みを撫でまわし、まるで幼い少年のような屈託のない笑顔を浮かべている。
(何やってるのよ、コイツ!!!)
――あまりにもイメージと合わないそのだらけた表情。だが、見間違えるはずもない。葵の喉を撫でていたのは、鉄面皮の調伏師こと冷泉洸哉その人だったのだ。
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