報告9 狂戦士①
カシオンの街には大陸でもっとも大きな闘技場がある。国王が市民の娯楽に供するため建設したもので、10万人の観客を収容することができる。闘技場では剣闘士による闘いのほか、運動競技、歌劇などが連日催されており、大陸中から観客を集めている。
闘技場でもっとも人気のある催しは、もちろん剣闘士が戦う興行で、年に2回、四ヶ月間にわたって行われるトーナメントのほか、生け捕りにした魔物同士を戦わせたり、剣闘士が魔物と戦ったりする興行の人気が高い。
いまこの闘技場でもっとも人気のある剣闘士のひとりが、トーナメント優勝3回を誇る“狂戦士”ウィン・イカリオスだ。
☆☆☆
歓声が聞こえてくる。カルマ・ゾウサは、執務室を出て闘技場の観客席へ向かった。その手に一冊の本がある。「冒険者が綴る異世界報告書」。ソーマ・ルーンスという冒険者の手記をまとめた本だ。この本のなかに彼の闘技場に所属する男が現れる――ウィン・イカリオスだ。
薄暗い廊下を抜けて、いくつもの階段を登り観客席の中程にある貴賓席に足を踏み入れると、観客から発せられる歓声がひときわ大きくなった。すり鉢状になった闘技場の底、
「冒険者の綴る異世界報告書」に収められてるエピソードのいくつかにウィン・イカリオスが登場する。剣闘士らしく、そのいずれもが圧倒的な剣技で敵を倒す役回りだ。それはそうだろう。ウィンの名声はカシオンだけでなく、近隣の街にまで鳴り響いている。
「やあ、支配人。きみがここへやってくるなんて珍しいな」
貴賓席には先客がいた。というよりこの女はいつもここにいる。剣闘士が戦うさまを見るのが大好きなのだ。
「ご機嫌うるわしゅう、市長閣下」
「もちろん麗しいさ。剣闘が行われるのは春のトーナメント以来だからな。しかも、わたし贔屓のウィン・イカリオスが出るとくれば、執務どころじゃないだろ」
この口元に艶やかな笑みを浮かべた黒髪の女性こそ闘技場が隣接するカシオンの市長、ロゼ・ミラージュだ。仕事を持ち込んでいるのだろう。大きな鞄を抱え、うんざりした表情を隠しもしない秘書の男を連れている。自他共に認める剣闘好きで、貴賓席に向かって深々と頭を下げるウィン・イカリオスへ熱烈な拍手を送って惜しまない。
「きみもウィンを応援しにきたんだろう」
「ええ……まあ、そんなところです」
「相変わらずの仏頂面だな。いまから今日一番の見どころなんだ。仮にも
頭を上げたウィンと目が合った。ここにカルマ・ゾウサのいることに驚いているようだ。長剣を頭上に捧げると、貴賓席に向かって手を振った。隣りで歓声を上げながら市長が手を振り返している。
「ウィンはやる気満々だぞ」
「そうですね。……がんばってほしいです」
滅多に剣闘を見ないカルマ・ゾウサがここへやってきたのは、ウィン・イカリオスの奴隷契約解除要求がなされたからだ。要求したのはソーマ・ルーンス。「異世界報告書」の作者である。
――奴隷契約か。
観客席からため息とも悲鳴ともとれる声が響いてきた。舞台の一部が迫り上がって地下から1頭の野獣が姿を現したからだ。鋭い牙、輝く瞳、金色に揺れるたてがみ。南の大陸にある大平原から連れてこられたマンティコアという人面獣身の魔獣だ。2年前に闘技場へ連れてこられて以来、8人の剣闘士をその胃袋に収めている。いま闘技場で飼っているもっとも危険な魔獣のうちの1頭だ。
「まさか、マンティコアが相手だなんて……。闘技場は花形剣闘士をひとり失うかもしれないぞ」
よりにもよってそれがウィンだなんてと市長が非難の視線を送ってくる。観客の望む
「ウィンなら勝ちますよ」
たしかにマンティコアは強敵だ。しかし、カルマ・ゾウサははじめてウィンと出会った20年前から彼の抱える困難と非凡な力そして強運を信じていた。今日はそれを確かめにきたのだ。
ウィン・イカリオスは奴隷である。命のある限り戦い続けるという契約を闘技場との間で結んでいる。いまから20年前のことだ。
大戦乱時代の末期、カシオンのはるか西にある国を“災厄”が襲った。世にいう【さいごの戦い】だ。世界のこちら側とあちら側が繋がって、魔物たちがこちら側へ溢れ出したのである。大陸中の冒険者が、平和を取り戻すため災厄の地を訪れ、戦いに身を投じた。
激しく残酷な戦いが何度も繰り返された。多くの街が焼かれ、土地も荒れ果てた。大勢の人びとがわが家を捨て、国を離れて街道を西に東にとさすらった。
カルマ・ゾウサが、まだ子どもだったウィン・イカリオスと出会ったのは、そんな街道のはずれにできたいくつかの難民居留地のうちのひとつだった。居留地には狭い土地に掘立て小屋がひしめき合い、国を追われた人びとが混乱と絶望を抱えて暮らしていた。
しかし、居留地に住める人びとはまだましで、かわいそうだったのは戦いで親や家族をなくした子どもたちだった。住む家も家族もなく、子ども同士肩を寄せ合って、居留地の周りで物乞いをして暮らしていた。ウィン・イカリオスはそんな物乞いをした子どものひとりで、カルマ・ゾウサはそんな子どもたちを連れ去って、冒険者ギルドに売り払う“奴隷狩り”だった。
「あぶない!」
市長の悲鳴にカルマ・ゾウサが我にかえると、舞台ではもう戦いが始まっていた。人の何倍もある巨体を踊らせてマンティコアがウィンに飛びかかり、ウィンがそれを右へ左へとかわしている。それでもキメラの長い爪が革の肩当てを切り裂いた。
「やめさせて! カルマ・ゾウサ」
「大丈夫です。ウィンには見えています」
「勝手なことを!」
心配ない。野獣の動きは、その毛皮の下でうごめく筋肉の動きで予測できる。マンティコアの動きは想定どおりだろう。防具を切らせたのは、ウィンが観客を盛り上げるために仕掛けた演出だ。この程度のけれんは剣闘士ならだれでも使う。ただし、相手がマンティコアでなければ。
《イヤア、ア、アアアア……!!》
十数人の女が一斉に悲鳴をあげたような鳴き声がマンティコアの口から放たれた。涙を流し、体をよじって魔獣が泣く。聞く者の体の芯を溶かしてしまう悲しげな叫び声だ。南の大陸では、深夜、この鳴き声に足を止める旅人がマンティコアに襲われるという。
「なんなんだこれ?」
「耳を塞いで、魅入られます!」
カルマ・ゾウサを含めた観客全員が耳を覆うなか、ウィン・イカリオスだけが長剣を振りかざすとマンティコアに斬りつけた。
《イタイ、イ、イイイイイ……》
マンティコアの前脚が切り裂かれ、ゾッとするような叫び声が続いた。
「マンティコアが痛がっている?」
「ちがいます。人の声真似をしているだけで、やつに言葉を操る
「でも……」
「すべては人を欺いて喰らうためです」
雨や霧あるいは夕刻、未明に原野で泣いてみせ、笑ってみせ、呼びかけては人をおびき寄せ、喰らうのがこの魔獣の習性だ。しかし、ウィン・イカリオスはそのことを織り込み済みで戦っている。
“泣き声”が通用しないと気づいたときのマンティコアがどうするか。敵わないと気づいて戦意をなくすか、それとも、さらに秘められた
《ウソダ、ウソダ、ウソダウソダウソダ……》
それだけでなく踏み込んで斬りつける。さらに踏み込んで斬りつける。マンティコアの体は鮮血に染まり、たてがみを振り乱した人面は苦悶の表情を浮かべる。そして、ついに……
「やった!」
長剣の切先がマンティコアの頭部を捉えた。金色のたてがみをなびかせて、悲鳴をあげ続ける頭部が宙に舞った。
《ア、ア……ア……ア……》
どうと音を立ててマンティコアの巨体が崩れ落ちた。観客席から大きな歓声と拍手が湧き起こって、舞台に立つウィン・イカリオスへと降り注ぐ。
「やった! マンティコアを倒したぞ。しかし、……少しあっけなかったな」
そのとおり。
「まだです」
つぎの瞬間。胴体から切り離されたマンティコアの頭部が舞台の上を滑るようにウィンに近づいたかと思うと、その長剣を握った右腕を咥え込んだ。堪らず無敗の剣闘士ががっくりと膝をついた。
闘技場を包んでいた歓声が悲鳴変わる。ウィンは、切り落とされてもなお戦う意志をなくさないマンティコアの頭部を腕から引き剥がそうとするが、うまくいかずにもがいている。そうしているうちに、舞台の一部が落ち込んだかと思うと、もう1頭の魔獣が地下から舞台の上に姿を現した。巨大な亜人だった。
「サイクロプス!? あなた、ウィンを殺す気!」
サイクロプスは、見上げるような巨体を持ったひとつ目の巨人だ。闘技場が養っている魔獣のなかでドラゴンのつぎに手強い。剣闘に使用するためには国王の許可が必要で、剣闘に現れたのは数年振りだ。
「観客の求めるものを提供する。それがわたしの仕事ですから」
ウィン・イカリオスが生き延びるにしろ死んでしまうにしろ、観客が求める娯楽は残酷な
(狂戦士②へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます