報告5 異世界

 人は皆、一度くらいは、自分が住むこの世界とは別の世界がどこかにあるのではないかと想像したことがあるはずだ。


 いまから120年前、だれもが、子どものためのおとぎ話と思っていた――こうした異世界が実際に存在すると証明してみせたのが“災厄”ヤナニドプスだ。街の眼鏡屋だったヤナニドプスは、偶然、この世界と異世界とのあいだに“裂け目”を作る道具を手に入れてしまう。


 ヤナニドプスは、ただ星空の観測をするのが趣味であるだけの人畜無害な人物で、その道具――ヤナニドプスの遠眼鏡――も、ここではない異世界を観察するためのものとしか考えていなかったが、彼以外の人間はそうでもなかった。


 ☆


 朝7時、街を東西に貫く高架軌道を電車がゆく音がする。ベランダに面した窓のカーテン越しには、朝の光が部屋に差し込んでくる寝室は柔らかさ光に包まれようとしている。まだ、眠っているのだろう。妻の寝息が聞こえる。リビングから小さくテレビの音が聞こえてくる。小学生の息子が録りためたビデオを観てるのだろうか。今日は学校もない会社もない、日曜日だ。ベッドから出るのは、あと1時間たってからにしよう。もうひと眠り――。




 目が覚めると、いつものように陰鬱な1日がおれを待っていた。狭い路地から見える暗い空はいまにも雨を降らせそうだったし、死者の棺を引いた陰気な行列は、いつもより長く、数も多かった。


「なんだ。夢だったのか」


 死臭を紛らせるための香の煙が、いつまでも寝ぐらにまとわりついて離れない、そんな錯覚にとらわれそうな朝だった。今朝見た夢とは大違いだった。おれの寝ぐらは墓場の裏の狭くて暗い路地の突き当りにある。妻はいないし、息子もいない。家族がいたところで、食わせていく自信もない。おれは薄汚い冒険者だから。


 午後になって細かい雨が降りはじめた。葬儀の参列者が散り散りになり、街を白い霧が覆いはじめるころになって、巡査がひとりおれの寝ぐらを訪ねてきた。プーギウギ警部からの呼び出しだった。


 若い巡査によると、警部からの指示は窃盗犯を逮捕しろとのことだった。窃盗犯というのは警察用語で、平たくいうと盗賊、泥棒のことだ。詳しいことは使いの巡査も聞かされていないようだったが、手配中の盗賊がカシオンに潜伏していることが分かったようだ。


「おまえは下水道を探索するんだ」


 なるほど……。狭くて不潔な下水道の探索はだれだって嫌がる。警察官も例外でない。しかし、おれなら街ホビットを使って下水道を探索させることができる。普段は回ってこない警察の捕り物が、おれのところに回ってきた理由が分かった。


 すぐにゴルコーンに連絡をとると、顔なじみの街ホビットたちとカシオンの下水道に潜り込んだ。地上で雨が降っているため、地下の水量は多い。どうどうと音を立て、水しぶきを上げている地下道を手分けして探ってゆく。


 警察から下水道の探索を命じられたものの、おれは盗賊が地下道に潜伏している可能性は低いと考えていた。下水道を修繕・整備するため街の地下に張り巡らされた地下道は、100年にわたって増設・延長が繰り返された結果、地図のない迷路のようになっており、その深部は魔物が棲みつく危険な場所となっている。


 だから、日も落ちきらないうちに、ゴルコーンたちが「みつけた」と汚水にまみれた女を連れてきたときは驚いた。


「女か」


 そう。警察が追っていた盗賊は女だったのだ。まだ若く、整った顔立ちの華奢な女で、根っからの盗人には見えない。街ホビットに取り囲まれた女は、捕まったことに怯えているというよりは、魔物の棲みつく下水道から地上へ出られる安心感に体を震わせていた。


 知らせを受けたカシオン警察は、大勢で下水道まで押し寄せてきて、たったひとりの女を腫物を扱うように連れ去っていった。いったいなんなんだ? おれたちには「ご苦労」の一言もなかった。ま、それはいつものことなのだが。


 その夜、寝ぐらに帰る気もなくて下町の安酒場で飲んでいると、ゴルコーンがやってきてテーブルの上に小さな金属製の筒を置いていった。下水道で捕まえた女の持ち物だという。身柄を抑えるときに取り上げたが、さっさと引き上げてしまった警察に渡しそびれたというのだ。


 見たところ望遠鏡のようだった。

 手首から肘までほどの大きさで子どものおもちゃにみえる。


「ヤナニドプスの遠眼鏡?」

「そうだ。それはヤナニドプスの遠眼鏡だろう」


 小さな望遠鏡をもって訪ねた情報屋で、ケッツア・ケルンは言った。


「まさか。ヤナニドプスの遠眼鏡といや、いわくつきのだぜ。王都の地下で厳重に保管されてるって噂だ」


 ヤナニドプスの遠眼鏡は、この世界に『魔』をもたらした呪物だという伝説がある。遠眼鏡の作った“裂け目”を通って、異世界からこの世界へ魔物が入り込んできたというのだ。


 この“伝説”が、真実なのか確かめる方法はないが、証拠のひとつとしてよく挙げられるのが、、ガブスリナが現れた時期と遠眼鏡が作られた時期との近接性だ。120年前、ヤナニドプスが遠眼鏡を発明した直後に、どこからともなく最初の魔王が現れ、古王国の都は滅ぼされている。


 ヤナニドプス自身が、この混乱のさなかに命を落としていて、魔王によって殺されたと言われている。彼の死後、行方不明になっていた遠眼鏡は、、クタニによって探し出され、王立科学院の地下金庫で厳重に保管されている。二度と“災厄”を招かぬように。


「こんなところにあるわけがない」

「レプリカは王家にコレクションされているらしい。ここを見ろ。鏡体に8という刻印がある」


 王立科学院の地下にされた遠眼鏡だが、勇者クタニによって見つけ出されるまでの間に、いくつかの模造品レプリカが作られたことが知られている。一番から十番までの通し番号が刻印された遠眼鏡の模造品は『◯番眼鏡』と呼ばれ、本物同様、異世界への“裂け目”を作る力があるとされている。


 いま、おれの手元にある遠眼鏡に刻まれた番号は「8」――「八番眼鏡」ということになる。これに裂け目を作り出す力があるなら、接眼レンズから向こうを覗いたその瞬間に、こちらの世界とあちらの世界が繋がって、よこしまなるモノがこちらの世界へ溢れ出してくるはずだ。もちろん、遠眼鏡を覗いた者がどうなるかは、姿を消してしまったヤナニドプスの例からも明らかだ。


「本当に?」

「警察がを追ってたのだとしたら。王家から盗みだされた遠眼鏡の模造品レプリカに違いないね。どうだ、いまなら1万Gで引き取るぜ」

「冗談だろ。これがヤナニドプスの遠眼鏡だったら、10万、いや100万だって買い手はつくだろ」

「でも、お前じゃブツを捌けないだろ」

「そんときゃ――」


 そのときは、おれ自身がヤナニドプスの遠眼鏡を使ってみるさ。このままここで生きていたところで、薄汚れた街に住むうだつの上がらないフリーの冒険者だ。これを使って異世界へ行き、人生をやり直すってのもアリじゃないか。


 そんなことしたら、異世界との“裂け目”から魔物があふれ出すんじゃないかって?

 

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