記憶の柩と片翼の悪魔

月待ツユリ

記憶の柩と片翼の悪魔

人は過去に[思い出]と名付けて脳髄にしまう。

どんどん溜まっていく[思い出]はいつしか美化された形で想起される。自分にとって都合のいい解釈になり、胸の内に溶けるのだ。


そして人は思い出すことと同じように物事を忘れていく。

しまい込んだ記憶、[思い出]の数々は脳裏の柩に葬り去ることとなるのだ。


僕はいくつの思い出を葬り去ったのだろうか。名前は?家族は?どうしてここにいるの?

常になにかを忘れているような感覚。 


確か名前はオリバーだった気がする。……いやノアだったか。

まぁ、もう僕の名を呼ぶものはいないだろう。なんの問題もない。


あぁそうだ記憶とは別に、わかっていることといえば日が昇り朝が来る。日が沈み夜闇に星が瞬く。それでいい。それだけで。


良かったのに。



それは突然のことだった。


ふとお腹が減ったのだ。そういえばここに来てから何も食べていない。

もう何日ここにいるのかわからない。昨日来たのかもしれないし、そのずっと前からいるのかも。


……でも食べたいものもなければ、食べられるものだってここにはない。


ここは刑務所近くの墓地。受刑者が死んだ際に粗雑に葬られる。

夜中なら、誰も来やしないだろう。


僕は一つの墓の前に座り込む。


何を思ったのだろうな、今自分は墓を掘り起こそうとしている―。


水気の多い土に触れる感触。爪の間に土に入るのは不快だ。


昨夜木の上で仮眠をとっていた時、墓泥棒の男が数人がかりで墓を掘り起こしていた。

なんでも、ここ数年各地の墓場で墓荒らしが頻発しているらしい。


貴族の墓では高価な埋葬品を狙う。その盗品を売り飛ばし生活の足しにする。

ここの墓場や庶民の墓からは、遺体を盗み医療関係の実験に使っているらしい。

またそういう医者などに高く売り付けて金にするものもいる。……それだけ生きるのは大変なんだろう。今の僕にそんな人たちを非難する資格なんてなかった。


すでに掘られていたその墓は柔らかくて手でも掘りやすかった。


手を進める先に露になるソレ。


この土地に眠る男のシャツが見える。歳は二十歳そこそこあたりだろう。しかしあまりにも痩せていて肋骨のあたりが浮き出ていた。この青年は細すぎる上に腐敗も進み始めていた。

だからか。

彼らは解剖などの検体に向かないとし、この男を埋め直して他をあたったのだ。


この空腹が収まるなら細くてもいい。

この空腹が収まるなら腐っていても構わない。


まず手始めに喉笛あたりの肉を喰らう。皮が薄くすぐに鉄錆の匂いが口に広がる。

骨から解ける肉片。

少々水分が抜けて繊維質ではあるが歯ごたえがあってたまらない。

そのうち首もとから、二の腕、腹部、太腿、臀部。

肉のある部を貪った。

手や洋服についた泥や血液なんて気にならない。もう目の前のヒトとも骨ともとれぬ、甘美なるご馳走に釘付けだった。


美味しい。とても。


そう思った時、僕のなにかが壊れたらしい。……もうすでに壊れていたが。


「美味しい?」


突然、暗闇の墓地で血肉を喰らう僕の頭上を鈴音が横切る。


「私はレーテ。驚いたわ!!貴方ってば死んだ人を食べてしまうんですもの!きっと悪魔か魔物に魅入られてしまったわよ。聞いたことない?悪魔は人肉を好むって。だからその人肉を食べている貴方も気に入られてしまうかも……。お腹が減ってるの?」


聞いたことない。それにいきなりなんだ。

僕も大概だがこの少女だっておかしかった。


ここは深夜の墓地。しかも刑務所の近くの。……普通の人間なはずがない。


レーテと名乗るこの少女と話すことは躊躇われたが、僕は顔を上げずに答えた。


「……知らない、聞いたこともない。お腹は減ってる。けど僕、他の食べ物食べられないから。なんでかわからないけど。昔は食べられた気がするんだけど」


昔?僕に昔なんてあったかな?

眼前の少女と話しているが脳内では過去が回想される。


僕の家庭は裕福だった。

優しい母と厳格な父と、絵に描いたような両親のもとで育った。


そして、確か。


姉がいたんだ。姉はいつも笑顔で心優しい人だった。人のためになんだってやる人だった。そしてそんな姉がとても大好きだった。


それなのに。

なぜ姉の存在を忘れていたのだ?

家族のことだって。


……今姉はどこにいるの?僕はなぜここにいるのだ?


「ふふ、なんだか混乱していない?大丈夫?……ねぇ私ね、その、悪魔なの。なり損ないだけどね。貴方のこと、気に入っちゃった!!私と契約しましょう!」


僕は明らかに驚駭した。

突拍子のないことを言うもんだから、瞠目してようやく彼女のかんばせを拝んだ。


暗闇の中清風になびく長い髪。血の気のない氷肌。呈色の異なる諸目。

そして背に生える紫黒色の片翼。……なり損ないの悪魔。


月に照らされた隻眼が鋭利に光る。



「嫌だ、怖いよ」


口から飛び出した本音は彼女の科白にか、容貌にか判然としない。


怯える僕に、繊月を描くように口角を上げて話す。


「あら、まぁそうよね。でもね、契約すれば願い事が叶うの。なんでもよ、なんでも!私の願いだって叶ったの」


願い、か。揺籃のごとく振れる心。空腹も紛れた今の僕の願いは。


「お姉ちゃんに会いたい!!僕には姉がいたはずなんだ。家族だって」

間髪いれずに答えていた。


「……それが、君の願い?その願い、叶えてあげる。……ごめんね、うまくいくといいのだけれど」


何故か彼女は悄然たる面持ちになっていた。なにか軫憂しているようで最後の方の言葉は震えていて聞き取れなかった。


彼女の紅口が歪む。


その瞬間。


僕の背中に紫黒色の羽が羽ばたいた。

しかも片方だけ。


「ごめんね、やっぱり私は悪魔だけどなり損ないだから私とおんなじ片翼になっちゃった」


申し訳なさそうに萎縮している。

僕は自分に生えた羽を見ようと頭を左右に振る。

本当に片翼の悪魔になってしまったのだと周章しそうになる。


「片方だけだとうまく飛べないんだよね。だから羽はできるだけ小さくして歩くの。まぁ私の姿なんてほとんどの人が見えないけれど」


まだ理解していない僕に、ため息混じりに声を発する。その姿はもう第一声のときの笑顔を取り戻していた。


「僕の姿も、もう?」


僕の姿ももう見えないのかな。

でも、思えばここに来人なんてほとんどいない。


日があるうちはたまに埋葬される遺体と運搬する人が訪れるだけ。

月夜の晩は盗人たちが忍び足でやって来る。

僕はただひたすら大木の上から眺めていただけだった。


「うん、そうだね。ほとんどの人に見えないかも」


ほとんど、というのは霊感のある人には希に見えてしまうかららしい。


「そっか、まぁいいんだ。今までだって誰にも見つからなかったし」


昼は墓地の木の上で休み、夜は血肉を喰らう。これからもそういう生活をすればいいのだ。


「ところで願いはいつ叶うの?」


僕は彼女の瞳を見据えた。

レーテは少し思案する仕草をして口を開く。面様は計り知れなくて何を考えているかはわからない。


「何か感じない?光指す方向とか、道しるべとか」


僕は暗澹たる視線の先に目を凝らす。

乱雑に置かれた墓石。その大半は文字が読めない。

この地に誰が眠っていようが、誰にも関係ないのだ。


木の陰、遠方に燦然たる光。

……あった。

広大な土地に目映く光る、一つの墓。


「あ、あった!」


声に出した時気がついてしまった。

この墓地が光るということは……。


姉は死んでいるかもしれない。しかも罪人に成り果てて。

後ろで何か言っているレーテを尻目に飛び出すように馳せる。


「お姉ちゃんがっ!お姉ちゃんがっ!」


僕は必死に掘り起こす。

悪魔なんて名ばかりで魔法や力なんてない。なり損ないと契約したのだ。

焦燥感から複雑な気持ちの原因をレーテに向けていた。今レーテを嫌忌しても意味はない。


石が指に刺さり血が滲む。それでも掘り続けなければ。


やっとお目見えした相貌。


その姿は、姉ではなくて


僕だった。


僕自身が固く目を閉じ不帰の客となっていた。


「なん、で……僕が?」


驚愕、それ以外に何があるだろうか。

目眩がしてたたらを踏んだ。


「大丈夫?」


背を支えられて我に返る。彼女の指先は氷のように冷たくて凝りそうだった。


「ああ、やっぱり君は死んでたんだね」


知っていたような口振り。

彼女は姿勢を正しながら、僕の眠る墓穴を見る。


僕はもう言葉を紡げなかった。自身の身体から目をそらしつま先を見つめて欷泣していたしていた。


「……ねえ、家族ってどんな人だったの?」


憂戚を含んだ声が聞こえる。

彼女は墓穴に眠る僕に手を合わせる。


「いい人だったと、思うよ」


僕はかろうじてそう答えたけど。

耳に届かないぐらい小さくて震えていた。


「……そっか」


彼女の相づちで会話の暗幕は下ろされた。

鼻をすする音だけが響く。


「……私の家族の話してもいい?」


僕が返事をしないことを了承ととったのか思い出を紡ぎ始めた。


「私ね、弟がいたの。双子なんだけどね、私達が生まれる前に母が大きな事故に巻き込まれたの。お腹の中で出生の時を待っていた私達にはその衝撃というのはあまりにも弱すぎた。私は必死に願った、弟だけでもこの世に生まれますようにって。……胎内記憶だと思って聞いて。信じろとは、いわないから」


レーテの花唇から綴られる話は信じられなかった。思わず駭然して、崩れた顔をさらに破顔させる。

しかし嘘とはどうしても思えなくて、黙って耳を傾けていた。


「弟は無事生まれたわ。でも、私は。」


言葉につまる。

形容しがたい表情をしていた。悲哀にみちているような、それでいて敬虔しているような。


「母の胎内で強く心願した私は神様と契約したの。……今思えば悪魔だったのね。事故の衝撃も相まって弟と融合した形で生まれたの。感情や思考なす魂は悪魔に、肉体は弟の半身となったのよ。生まれることが弟の幸せだと思っていたのに……」


レーテは涕涙しつつ一息つく。

僕の脳髄の奥底にしまわれた記憶の棺。それが……少しずつ開かれていく気がした。


「結果として、弟は不幸になった。母は女の子が欲しかったようで弟の意思なんて聞かずに着飾っていたわ。父はそんな母と弟に嫌気がさしたみたいで乱暴するようになったの。まさか、まさかね。そんな人達だと、思わなかった」


手で涙を拭う。


彼女の話を聞きながら僕は謎の痛みに襲われていた。

頬を叩かれる痛み、腕や足を引っ張られる苦痛。

飛び交う罵声に怒声。


もしかして。

この家族の話は『僕たち』の話で、今目の前にいるのはおねえ、ちゃん……?


「……弟の名前はフルークっていうの。父がまぐれで生まれたからフルークって。まぐれじゃないのに。奇跡、なのに」


フルーク。

その名を聞いたとき一つの記憶の棺が音を立てて開いた。


僕は生まれた時、男と女の体を持っていた。医者からは気味悪がられ、母は嘆き、父は蔑んだ。


そして投げやりに『お前はまぐれで生まれたんだ。フルークって名前をつけてやる。全く、死ぬのなら二人とも……』そう吐き捨てて僕を睨むのだった。


僕が描いていた裕福な家族、そして仲良しの姉は全て美化された記憶だった。

書き換えられた、思い出。


そうだ、そんな父と母が嫌になってあの日、刺殺したのだ。

自身にかかる血煙。

鼻腔に纏繞する血なまぐさい匂い。

鈍い、手を伝う肉を切り裂く感覚。


そしてこの刑務所に来たけど、首をつった。すべてを思い出してしまった。


……もう生きている意味なんて、ないと思ったから。


「最低な姉だったわ。ごめんなさいね、フルーク。一緒に、天国に連れていけばよかったのに……」


彼女は僕の脳内を知ってか知らずか固く抱きしめた。


「レーテ……おねえ、ちゃん……」


僕は力強く抱きしめ返した。再び眦を流れ落ちる雫は温かかった。


抱き合う二人を登り始めた日が照らす。

僕の遺体は光を受けて、浮き彫りになっていく。

目元が泣いているように見えた。


「私達、そっくりなのよ」


今度こそ嬉々を包含した笑みを浮かべる。

彼女の瞳はオッドアイ。右が苅安色で左が紫鳶。

僕とは逆の配色。暗闇では月のように光る苅安色しか色味がわからなかったから驚いた。


「本当に、姉弟なんだね。僕たち」


声にならなかったけど、姉には届いたようだった。

やっと思い出せた、お姉ちゃん。


朝が来る、そんな中僕たちは穴を埋めもう一度手を合わせた。


「これからは二人で一つよ」


なり損ないの一つしか持たない羽。

二人ならば一対になれる。


僕たちは比翼の鳥さながら互いに寄り添い、これからは傍にいよう。

紡げたはずの思い出を、絡まった過去を取り戻すように。


人は過去に[思い出]と名付けて脳髄にしまう。

どんどん溜まっていく[思い出]はいつしか美化された形で想起される。自分にとって都合のいい解釈になり、胸の内に溶けるのだ。


そして人は思い出すことと同じように物事を忘れていく。

しまい込んだ記憶、[思い出]の数々は脳裏の柩に葬り去ることとなるのだ。


それでも。

[いい思い出]だけはそのまま残せるように。

柩ではなく宝箱にしまうように。

何度忘れても思い出せるように。


二人は鬱蒼とした木々に縁取られたこの壮大な天空へ羽ばたいた。

心地の良い清籟が二人を包む。


僕は姉との邂逅を記憶の宝箱にそっとしまった。


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