幻夜の誓い⑤
満天の星空を眺めることは叶わなかったが、憧れの女の子とこうして距離を縮めることができたのは大いなる進歩だ。その結果だけでガゼルの心は十分満たされていた。
だから、腕の中でフーリエがうつらうつらと船を漕ぎ出したのを見て、潔く諦めの決断を下すことも難しくなかった。
ガゼルが軽く肩を揺さぶると、フーリエは薄目を開けた。そして意識を取り戻すなり空に目を遣って――月明かりが朧気に滲んでいる以外、相変わらずの暗幕だ――横顔に失望の色を灯した。
「ごめん。ちょっと寝ちゃってた」
まだ眠たそうに目を擦っているフーリエに、ガゼルは首を振って微笑みかけた。
「もう夜も遅いし、無理もないよ。でも、そろそろ戻らないと、みんなに心配をかけるかもしれない。残念だけど、今日のところはこの辺で切り上げようか」
フーリエは不服そうに唇を尖らせた。しかし、自分の思い通りに事が進まないからといって駄々をこねるほど幼稚な彼女ではない。名残惜しそうに空を見上げていたが、やがて観念したようにため息をついて言った。
「しょうがないわね」
「また来よう。今度は天気がいい日に」
前向きな言葉をかけて、ガゼルは立ち上がる。
うんと伸びをすると、体中の凝り固まった節々から気持ちのいい悲鳴が鳴り響いた。
松明の棒を拾って火炎魔法で着火すると、一帯は煌々とした明かりに包まれた。闇に慣れた網膜にその光は刺激が強くて、咄嗟に目を
明るさに慣れてきた頃、フーリエはいまだにその場に三角座りしたままだった。どういうわけか、中空の何もない一点を見つめるばかりで動こうとしない。
端整な顔立ちの中にどこか神妙な雰囲気が湛えられている。松明に照らされて揺らめく陰影がその印象を濃くしていた。
パチパチと炎の爆ぜる音を耳にしながら、ガゼルは言い知れぬ緊張を胸にする。
「フーリエ?」
声をかけるが、返事がない。
どうしたの、と立て続けに尋ねても同様の反応だった。
肩を揺すってみようかとも思ったが、直感的に今の彼女に触れるのは危うい気がして自重した。
「ねえ、ガゼル」
しばらくの間があってようやく、フーリエの口が開かれた。聞くものの心を張り詰めさせる、深刻な声音だった。
「さっき私、夢をみたわ。今日まで旅立っていった仲間たちの一人ひとりと面と向かって会話する夢。それがおかしな内容でね、みんな自分が死んでることを自覚してるのに、笑ってるの。泣いてるのは私だけ。それも今よりうんと幼い姿なの。みんな、幼い私をあやすように優しい言葉をかけてきてくれる。言葉はそれぞれ違うけど、内容は大体一緒で、私の将来にエールを送るようなものばかりだった。自分たちの分までしっかり生きてくれ、とか、麗しくてたくましくい大人の女性に成長するんだぞ、とかね。でも、そんな励ましの言葉をもらって、幼い私はますます泣き叫ぶの。だってそんな明るい未来、全く想像できないから」
不意に突風が駆け抜ける。底冷えする夜の風だ。
フーリエは寒さに堪えるように背中を丸くして、表情を歪めた。
「私、明日も生きていられるかな」
端的ながら返答の難しい問いだった。
大丈夫、と口で言うのは簡単だ。だけど、それでお茶を濁すのは誠意が欠けている気がした。今、彼女が求めているのは口先だけの慰めの言葉ではない。その心を巣食う闇に寄り添い、深い理解と共感を示すことだ。
不安という名の荷物を共に抱えて、その重さをふたりで分かち合えば、いくらか彼女の心の負担を軽くすることもできるだろう。
そうわかっていたが、悲しいかな、人生経験の浅いガゼルの引き出しには、こういった場面に相応しい気の利いた言葉は収蔵されていなかった。
「ここまで一気に家族がいなくなるのって、なかなか珍しいことじゃない。このところ平和な日々が続いてたからつい忘れてたけど……この『監獄島』にいる限り、死は常に隣り合わせにあるんだってこと、思い出したの」
ガゼルが黙っていても意に返すことなくフーリエは口を動かし続ける。まるで樹木の虚に吐き捨てるかのように、淡々と。
「昨日の一件で、門番も衛兵も大勢死んだ。今、村の戦力は大きく傾いてる。明日にでもまた『大斧』みたいな怪物がやって来たら、きっとひとたまりもない」
「し、心配ないよ。この村には先生がいる。どんな悪党が来たって簡単に返り討ちにしてくれるさ」
今は彼女の不安に寄り添うことが肝要だとわかっていても、つい反論が口を衝いてしまう。そうしないと自分自身も不安のブラックホールに引きずり込まれてしまいそうな気がしたからだ。
「先生だって、いつまでも村にいてくれるわけじゃない。人間、寿命には勝てないんだから、私たちより倍以上長く生きている先生の方が先に逝くのは明白よ。それは近い将来のことかもしれないし、数年先の遠い未来の話かもしれない。この命が先生に生かされているのだとしたら、つまりその時が私の終わりってことでしょ? ……私、自分の将来像をまともに思い描けないことが、未来に夢も希望も持てないことが、ずっと不安で不安で仕方ないの」
台詞の後半に差し掛かるにつれて、段々と声は震えはじめていた。やがて彼女の目尻からひと欠片、感情の粒が零れ落ちて頰を伝った。
「私ね、いつも自分の運命を呪ってる。生まれた場所が、こんなところじゃなければどんなに良かっただろうって。前世でよっぽど酷い悪行を働いたのかしらね。そう思わないと、やってられないわ。……ねえ、知ってる? この前先生に教えてもらったんだけど、海を越えた向こう側の世界には、美味しい食べ物が余るほどあって、いつでも好きな時に好きなものを食べていいんだって。衣装も種類豊富で、その日に着たい服を個人が自由に選ぶのだそうよ。服だけじゃない、髪型やアクセサリーなんかも個人の好きにしてよくって、子供も大人もみーんなオシャレさんなんだから。それから、外の世界の住人たちはみんな石やレンガでできた頑丈なおうちに住んでて、造りがしっかりしてるから雨漏りや隙間風に悩まされることもないんだって。毎日おうちのお風呂に入れて、夜は暖かい毛布にくるまりながら眠れて、それはそれは健康で快適な暮らしが送れるのだそうよ。あと、ちょっとやそっとの病気じゃあ簡単に死なないくらい医療技術も発達してるんだって。今や人間の平均寿命は100歳を超えてるらしいわ。この島で生まれ育った私たちにはどれも信じられない話よね? ただ、生まれた場所が違うってだけで……こんな不公平なこと、ある?」
さめざめと涙を流しながら、まくし立てるように胸中の
ガゼルは彼女が密かに抱えていた闇の底深さに触れて、当惑とやるせない気持ちでいっぱいになった。
フーリエはかねてからの憧れの存在だ。まだ物心もついていなかった幼少期以来の付き合いで、その歳月の深さに裏打ちされた関係値を拠り所に、彼女のことなら何でも知っているつもりでいた。
酷い慢心だ。非業な現実に憤りを募らせていたことも、いつ終わりが訪れるかもしれない不確実な未来に怯えていたことも、見果てぬ世界への憧憬に身を焦がしていたことも。本人にこうして明かされるまで、全く気づくことができなかった。
己の思い上がりを恥じると同時に、ずっと近くにいながらここまで彼女の心の闇が成長するのを食い止められなかった自身の無力さに打ちのめされる。
フーリエが抱える心の闇は決して対岸の火事ではない。ガゼルとて境遇は同じだ。屈折したその思いは手に取るように理解できる。
だが、今のフーリエを前にして、彼女以上に現実や未来に絶望しているかと問われれば、そうだと頷ける自信もない。
それはガゼルが彼女より現実を直視できていないせいかもしれないし、生来の悲観的思考の導きによってすでに未来への期待を手放していることが所以かもしれない。
あるいは――
ガゼルは夜の湿り気を含んだ空気を肺いっぱいに溜め込んで、一気に闇夜に向かって吐き出した。どうにもならない現実のように立ちはだかる暗雲を睨み付けながら、
「くそくらえだな」
と柄にもなく口汚い言葉を発した。
――自分が現実に絶望しないでいられたのは、何よりフーリエの存在があったからだ。
常に死と隣り合わせにある極限状態の生活の中で、フーリエは荒野に咲いた一輪の花のごとき希望の象徴だった。
これまで彼女への恋心に何度励まされたことだろう。
彼女と会話するだけで無性に勇気がみなぎり、彼女のことを考えるだけで幸せな気分に浸ることができた。
彼女の笑顔が、言葉が、温かみが、殺伐とした日常に潤いと張りを与えてくれた。
フーリエはプルートと並ぶ生涯の恩人だ。
そんな彼女を悲しませ、絶望の淵に陥れる現実にこの上ない怒りの念が湧いた。
「決めたよ。フーリエ」
ガゼルはおもむろに、懐から杖を取り出す。
「このふざけた現実を、僕はぶち壊す。そして必ず君を、外の世界に連れ出してみせる」
宣言し、そして杖を天高く掲げる。
エニガミ、と呟いた瞬間、ぱっと視界が開けた。黒一色だった夜空が華々しい煌めきに包まれたのだ。
咄嗟にフーリエが息を呑んだのがわかった。絶望に取り憑かれていたその顔が、すっかり驚愕の色に変貌している。
「えっ、うそ。なにこれ?」
一面の空を覆うは、満天の星々に、形の綺麗な三日月。
赤、青、黄、緑、紫。大小様々な光が思い思いに明滅し、地上に七色の光の雨を降らせている。
右から左へ飛び交っているのは無数の流星群だ。
絵に描いたような幻想的な光景を、フーリエはつかの間、恍惚とした表情で見つめていた。
「ガゼルがやったのね」
フーリエはガゼルに視線を移ろわせて言った。口元は綻び、頬は朱に染まっている。大きな興奮に
「まずひとつ、現実を壊してみせたよ」
「信じられない……。これ、なんていう魔法なの?」
幻影魔法『エニガミ』――先の死闘を経て習得した禁術だ。
プルートが言っていた。禁術とは、現実を意のままに操る力、奇跡の力だと。
ガゼルは思い人のとびっきりの笑顔を前にして、恩師の言葉に説得力を感じた。
「恐怖に竦む足を一歩前に踏み出させる魔法だよ」
「なにそれ」
吹き出す彼女に、ガゼルは真摯な眼差しを預けた。
「フーリエ。僕は君が好きだ」
虚をつかれたとばかりに、フーリエの目が少しだけ丸みを帯びる。控えめな驚きがそこに表れている。
「うん。知ってる」
「……まあ、そうだよね。さすがに隠し通せてるとは思ってなかったけど」
「でも、びっくり。まさか貴方の口から、そんなストレートな告白が飛び出るなんて」
「決めてたんだ。空が晴れたら、君に好きだと伝えようって」
フーリエは照れ臭そうに頬を赤くして笑った。それから潤んだ瞳でガゼルの顔をまじまじと見つめてくる。
「ありがと、ガゼル。落ち込んでたけど、元気復活した。また貴方に助けられちゃった」
「買い被りすぎだよ。君を元気づけたのは僕じゃなくて、この星空さ」
落ち着き払った返しをするガゼルに、フーリエはますます感心したように目を見張った。
「ほんと、人が変わったみたい」
色めきの気配が入り混じったため息がその口からこぼれ落ちる。そして、何か迷うような素振りを見せてから、彼女は続けた。
「……ねえ、さっきの告白の返事するから、ちょっとの間だけ、目、閉じててもらえない?」
上目遣いで懇願され、ガゼルは途端に心臓が早鐘を打つのを感じた。
人生経験の乏しい彼でも、さすがに次の展開は想像がつく。
大きな期待に抱かれながら、ガゼルは瞼を下ろした。
程なくして唇にそっと柔らかいものが触れた。
目を開かずともそれが何かはわかる。
やがて名残惜しそうにそれが離れたのを機に、ガゼルは瞼を持ち上げた。
フーリエの曖昧な眼差しがすぐ目の前にあった。熱気を帯びた吐息が鼻先に触れて、心が掻き乱される。
しばらく言葉無しに見つめ合ったのち、今度はガゼルの方からフーリエに歩み寄り、肩に手を載せて顔を近づけた。
自然な流れでフーリエは瞼を下ろし、少しだけ顎を持ち上げた。
また唇が重なる。
さっきと同じ感触と温度。ああ、自分は今、憧れの女の子とキスをしているのだなという実感が今さらながらに湧いてくる。
ずっとこのまま繋がっていたい、と心の中で切実に祈る。
この甘美な時間を終わらせたくなくて、ガゼルは足掻くように舌を伸ばした。
ガゼルの舌がフーリエの唇をノックした瞬間、驚きからか彼女の肩に力が込められた。だが、ことさら抵抗を示されることなく、扉はすんなり開かれた。
彼女の中に入った瞬間、淡い達成感がガゼルの男心をくすぐった。
肩に置いた手を背中に回して抱き寄せるのに、もはや勇気は必要なかった。
間もなく彼女の腕もガゼルの胴体に巻き付いてきて、一体感が増した。
つかの間、ガゼルは星空もそっちのけで、フーリエの熱を堪能することに躍起になっていた。
次第に脳の中心にじんわりと痺れるような感覚が生まれた。理性が摩耗して今にも爆発しそうな状態にあることの兆候だった。
(そのまま押し倒してしまいなさい!)
不意にメルトの声が聞こえた。
フーリエとふたりきりの世界に水を差されたようで多少興が削がれたが、そんな悪感情とは裏腹に、意識は否応なく声の続きに傾倒していた。
(今その子はたくさんの仲間を失った悲しみと見通しのつかない将来への不安に囚われてる。その心を病ませている負の感情を肉体的な快楽によって一時でも忘れさせてあげるのよ!)
悪魔の囁きに耳を貸したが最後、瞬く間に邪な考えが頭の中を埋め尽くした。
ガゼルはフーリエから唇を離した。
まだ欲し足りないと言わんばかりの熱を帯びた眼差しが中空で絡み合う。
抱擁を解かないまま、ガゼルはフーリエの方に重心を傾けた。
突然前方から加わった力に抗う術もなく、フーリエは仰向けに転倒する。瞬間、彼女の口から小さな悲鳴が上がった。
ガゼルはフーリエの身体に覆い被さるように四つん這いの体勢となった。
フーリエの目の中に怯えの色が滲んでいるのを見下ろしながら、ガゼルはまた彼女の艶めく唇に自身のそれを重ねた。舌を動かして、また彼女の口腔内を弄ぶ。
程なく緊張の気配が和らいだのを確認して、ガゼルは左手を動かした。
その手を彼女の発達途上の胸の膨らみに伸ばした、次の瞬間だった。
「やめて!」
閑静な夜の空気をフーリエの絶叫が引き裂いた。
気づいた時、ガゼルは彼女の隣に倒れていた。彼女に押し返されてバランスを保てなくなった結果、無様に横転したのだった。
身体を丸めて震えるフーリエを目の当たりにして、ガゼルは頭に上った血がさーっと引くのを感じた。
「ごめん。僕、どうかしてたよ」
またしても思い上がっていた。彼女を救えるのは自分しかいない、だから何をやっても許されるのだと。
冷静になって、自分が犯そうとした行為の愚かさを思い知る。
「違うの。ガゼルが嫌とかじゃないから。誤解しないでね」
フーリエが頭を振りながら必死に弁解してくる。
「私、もう自分みたいな不幸な子を増やしたくないの。だから、男の子とキスより先のことはしないって決めてる。……自分勝手で、本当にごめんなさい」
話を聞くに、どうやら嫌われたわけではないらしい。ガゼルは少しだけ胸を撫で下ろした。同時に、思慮深く心根の優しい彼女らしい考えだなと納得もした。
そういうことなら無理強いはできない。
「君が謝ることはないよ。合意も無しにそういうことに臨もうとした僕が悪いんだ」
ガゼルはちょっとだけ無理をしてフーリエに微笑みかけた。
フーリエは
ごめんなさい、と繰り返す彼女の背中をガゼルはあやすようにさすった。
夜空には彼女の傷ついた心を癒やすこともできない張りぼての星たちが、今も無意味に輝き続けている。
虚無感の高波にさらわれながらも、ガゼルの中にはこの世界に対する怒りが沸々と再燃していた。
好きな人を愛することさえ許されない、冷徹な世界。
艱難辛苦に満ちた現実、そのあまりの理不尽さと非情さに反吐が出る。
――いつか絶対に、この腐った世界からフーリエを連れ出してみせる。
ガゼルは改めて心の中で誓った。
そして煌めく星空に刺すような眼差しを送った。そこには、この世界の運命を司る『見えざる力』への憎悪と敵対の意思が込められていた。
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