幻夜の誓い④
フーリエに連れてこられたのは、裾野を雑木林が取り囲む丘陵の頂だった。
ひとけが無いのは時間帯のせいだけでなく、そこが村人たちの生活区域から離れた位置にあることも関係しているだろう。
ガゼルは道中にもぎ取った面積の広い一葉を地べたに敷いて、その上にフーリエを座らせた。彼女から、ありがと、と謝意を伝えられたことに舞い上がりながら、ガゼル自身はその隣の土が剥き出しになっている箇所に直に腰を下ろす。
ここまで来るのに一役買ってくれた松明の火を消すと、辺り一帯を濃度の深い暗闇が覆った。
フクロウやキリギリスの鳴き声が遠くに聞こえる。それらに紛れて風のそよぐ音が柔らかく耳朶を打つ。
平地よりも心なし程度に空が近く、なるほど星空を眺めるのにこの上なく相応しい場所だなとガゼルは納得した。しかし、いまだに空模様は芳しくないのか、一面を墨汁に塗り潰されたかのような黒が支配していた。
夜目の利いてきた頃、フーリエの横顔は歯痒そうに歪んでいた。
「風が心地いいね」
ガゼルが気遣うようにそう言うと、フーリエは微苦笑して、そうね、と肩を竦めた。
「でもせっかくなら星も見えてて欲しかったな。本当に信じられないくらい綺麗なのよ。あれを見てる間はどんなに辛い現実だって忘れられるんだから」
「君がそこまで言うからには、よっぽど壮観なんだろうな。まあ、もう少し待ってみようよ。そのうち晴れることに期待してさ」
努めて明るく言うが、内心は仄暗い感情が忍び入っていた。
直前の発言は、これまでにも忘れたいと願うほどの苛烈な出来事が彼女の身辺で起きたことを暗示している。
此度の『大斧』の一件もそれに該当するだろうし、その他にもいくつか悲愴なエピソードがガゼルの頭に思い浮かんでいる。
悲しいことが起きるたび、フーリエはここを訪れて、心に負った傷を満天の星空に慰めてもらっていたのだと思う。
きっとフーリエはその間、ひとりきりだったに違いない。だって彼女は、物静かで、開放的で、美しい星々が見渡せるここを「とっておきの場所」と言って紹介したのだから。察するに、ここはフーリエにとって秘密の場所なのだ。
フーリエが単身でここを訪れるのは、おそらく彼女自身の意思だろう。
そうわかっていても、絶望に打ちひしがれる人間が誰の目にも留まることなくひっそりと荒野の片隅にうずくまっている絵は、思い描けば描くほどに切なさが増して胸が苦しくなる。
どうか今だけでも晴れてくれ。それだけが彼女の心の救いになるのだから。
漆黒のベールと対峙しながら切に願う。
だが、半刻、また半刻と時が過ぎても、曇天の空模様が改善される兆しはなかった。
身を焦がすような焦燥感が募り行くのに反して、気温は段々と低下の一途を辿っていく。
やがて一陣の風が駆け抜けた時、それが運んできた冷気にフーリエは肩を震わせてくしゃみした。
「少し身体が冷えちゃったかも」
上腕を擦りながら若干の鼻声で呟くフーリエ。
ガゼルも先刻から皮膚が粟立つのを感じていた。
心残りはあるが、このまま夜風に晒されていては体調を崩すだけだ。
そろそろ帰ろうか、という台詞が頭に浮かんだが、それを発する前にメルトの鋭い叱責が意識下に雪崩込んできた。
(このおばか! こういう時は優しく抱きしめてあげるものでしょうが!)
ガゼルはぎょっとして身を強張らせた。
今までの彼なら絶対に思いつかない類の選択肢だ。
魅惑的な提案だが、それを行うには
うぶなガゼルはその声に従うべきか咄嗟に判断できなかった。
フーリエの華奢な肩の輪郭を目でなぞって唾を飲み込む。
懊悩している間に、思いがけないことが起きた。
なんとフーリエの方からガゼルの肩に寄りかかってきたのだ。
驚きのあまり、ガゼルはつい変な声が出そうになった。
俄に心臓が爆音をかき鳴らし、沸騰したような血液が体中の脈を疾走する。
間近に彼女の頭があり、その髪に浸透した花の香りが彼の脳幹をくらくらと揺さぶった。
明かりが乏しいのではっきり視認できないが、俯く彼女の横顔は耳の先まで真っ赤に染まっている気がした。
ここまでお膳立てされてなお尻込みしているようでは男が廃る。
意を決してガゼルはフーリエの肩に手を回した。そのままそっと身体を引き寄せて、彼女の側へ遠慮がちに頭部の重心を傾ける。
腕の中に収まった後もフーリエから抵抗の意思は感じられなかった。
そのことがガゼルを安堵と喜びの境地に導いたことは言うまでもない。
ひゅう、とメルトのひやかすような声が聞こえたが、溢れんばかりの多幸感が精神を寛容にしているのか、全く気にならなかった。
「あったかい」
しみじみとフーリエが呟く。
それにガゼルは同調した。服の中はじんわり汗ばんでいて、むしろ熱いとさえ感じるほどだった。
おかげでもう少しこの場に留まることができそうだ。
ガゼルとフーリエは身体を密着させたまま真っ暗な夜空を一心に見上げ続けた。
――もし奇跡的に空が晴れたなら、彼女に想いを伝えよう。
フーリエの体温と息遣いを近くに感じながら、ガゼルは密かにそう決心した。非現実の中を生きているかのような高揚感が彼の性格をいつもより少し大胆なものに変えていた。
しかしその後も、待てど暮らせど自然は空気を読んでくれず、夜空が瞬きに彩られる瞬間は訪れなかった。
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