禁忌との邂逅③

 ――あれを使うしかない。


 ガゼルは身震いしながら覚悟を決めた。

 この事態を打開するには、禁断の呪文を唱えるしかない、と。


 それは数ある魔法の中でもハイレベルの制御技術が求められる高難度の術だ。魔法の才を見出されたガゼルも師に唆される形で何度か実践してみたことがあったが、成功した試しは一度としてない。


 発動しないだけならまだいい方で、発動できたとしても術を上手くコントロールすることができず、村の建物を破壊してしまったことがあった。幸い死傷者は出なかったものの、その一件はガゼルを激しく気落ちさせ、もう二度とこの術を使うまいと心に誓わせたのだった。


 だが、あの破壊力をもってすれば、この怪物の動きを封じることができるかもしれない。

 一縷の希望を胸に、ガゼルは杖を構え、瞼を閉じた。


 深呼吸を繰り返しながら術を放った後の映像をイメージする。それと並行して、自分の中を不規則に胎動する魔力の波動をトレースして捕縛する。


 正面に目を向けると、ノヴァが、フーリエの結界魔法とマステラの回復魔法に支えられながら、身を張って敵に立ち向かっていた。


 勝機はないが、時間の問題を無視するなら守りの布陣は万全といえる。

 ガゼルは仲間たちの奮闘する姿を見て、いっそう勇気をみなぎらせた。

 これだけお膳立てされて失敗するわけにはいかない。


 次第にゴロゴロと、灰色の雲が上空を覆いはじめた。


「ノヴァ、今すぐその場を離れて!」


 いちはやく状況を察知して、フーリエが叫んだ。

 言葉にする暇はなかったが、その咄嗟の判断に感謝せずにはいられなかった。ただでさえ対象先のコントロールが難しく、『大斧』の近くでウロチョロされていては巻き添えにしてしまう可能性も大いにあったからだ。


 ノヴァが小刀を『大斧』に投げつけて、前戦から退く。

 そうして『大斧』と十分に距離が離れたのを確認してから、ガゼルは天を仰いだ。


「雲ようごめけ! 爆ぜろ雷!」


 詠唱し、そして、杖の先端を怪物に向ける。


「消し飛べ――フルテンド!」


 唱えるなり、雷雲から青白い閃光が瞬いた。

 ビリビリと帯電する雲の中から数本の霹靂が姿を覗かせ、目にも留まらぬ速さで地上に降り注ぐ。そのうちの一本が『大斧』の脳天に直撃した。


 雷鳴の轟きが怪物の悲鳴と重なる。

 さすがの『大斧』も生身で雷を浴びて、ただで済むはずがない。毛髪はチリチリと乱れ、地肌は焼き焦げ、白目を剥きかけて、煙を吐いている。


 そうしてついに、怪物の膝が折れた。

 気絶こそしていないが、致命的なダメージを与えられたことは確かなようだ。


 初めての雷撃魔法の成功を、しかし今は喜んでいる暇はない。


「ノヴァ、今だ! そいつの首を落とせっ」


 ガゼルから指示されるまでもなく、すでにノヴァは駆け出していた。先ほど投擲した小刀を回収して『大斧』に接近する。


 チェックメイトだと誰しもが思った、その時、


「おおおおおおおおおおおおおお!」


 不意に『大斧』が立ち上り、天をもつんざかんほどの咆哮を放った。

 空気が震撼し、大地がみしみしと軋んだ。


 ガゼルの身体をたちまち緊張が駆け巡った。本能が恐怖を思い出すのに時間は要らなかった。そして自分の決死の一撃が、どうやら怪物の中に眠る狂気を呼び覚ましたらしいと悟った。


 怪物の赤く血走った目が、正面で佇んでいるノヴァを捉える。

 その拳が振り上げられたと認識した次の瞬間、ノヴァの肉体がさながら紙くずのようにふわりと宙を舞った。

 一瞬の出来事がガゼルの目にはストップモーションのように映った。


「え?」


 何が起こったのか咄嗟に理解が追いつかず、そんな間の抜けた声が漏れていた。

 ノヴァの身体はくるくる回転しながら地面を滑走して、ガゼルら後方支援組の手前で止まった。仰向けに伏したまま、起き上がる気配がない。


 彼の名を呼びかけて駆け寄ろうとしたが、その前にまた怪物の咆哮が空気を震撼させた。


 正面をみれば『大斧』がこちらに向かって突進してきていた。目を赤黒く充血させ、口からはだらだらと涎が垂れている。その姿は興奮状態にある肉食獣を彷彿とさせた。


『大斧』は攻撃の矛先をマステラに向けた。

 マステラは恐怖のあまり腰が抜けてしまっているらしく、地べたにぺたりと座り込んで真っ青な表情を浮かべていた。


 すかさずフーリエが、マステラと『大斧』の間に飛び込み、『大斧』の重たい拳が放つ一撃を光の結界で防ぐ。

 だが、理性という名のリミッターが外れた『大斧』の一撃は先ほどとは比にならないくらい重たく、容易にフーリエの結界を打ち砕いた。


 その勢いのまま拳はフーリエとマステラを薙ぎ払う。

 ふたつの身体が無惨に後方に吹き飛び、そのままノヴァと同じように動かなくなっった。意識は飛んでいないようだが、今ので骨の何本かは砕けたに違いない。精神的ではなく、物理的に動けない状態なのだ。


 残すはガゼル、ただひとり。


 怪物の目に射竦められ、ガゼルはその場にくずおれた。

 今度こそ、本当にお終いだ。

 潔く目を閉じて、最期の瞬間を覚悟する。


 諦めないで、とフーリエの声が聞こえた気もしたが、その台詞の意味するところを頭で理解するだけの余裕が今の彼には欠けていた。


 あっけない人生だった、と諦念がよぎる。


 愉しいことがひとつもなかったとは言わない。

 ノヴァ、フーリエ、マステラ。そんな心許せる仲間たちと出会えたこと。彼らと苦楽を共にしながら生きてきた時間はかけがえのない財産であり、それらを否定したくはない。


 だが、自分の生まれ育った境遇を振り返ると、胸を張って幸せだと言い切ることもできなかった。


 法も秩序もない、弱肉強食が絶対的掟のこの地で生まれ落ち、親の顔さえ知らぬまま今日まで必死に生き永らえてきた。常に死と隣り合わせの、間違っても衛生的とはいえない暮らしの中、着るものにも食べるものにもたびたび苦労してきたものだ。


 時に村全体が飢饉に見舞われ、次々と仲間たちが息絶えていくこともあった。その際、ガゼルは雑草やどぶねずみなどを食してなんとか飢えをしのいだ。


 不衛生が祟って体調を崩せば、そのまま帰らぬ命となることもここでは日常茶飯事だ。ガゼル自身、高熱にうなされて生死の境をさまよったことは一度や二度ではない。


 とにかく生きることに必死だった。

 それが不意に訪れた『大斧』という天災ひとつで、こうもあっけなく終わらされようとしている。


 ――ふざけんなよ。こんな救いのない人生、ありかよ。


 胸中を覆う諦念の雲間にひと筋の光が差す。

 それは赤黒い色をした、憤怒の光だ。


 ガゼルはその光をつかみ取ろうと必死で手を伸ばした。さながら本能に操られるかのように。一秒でも長く生き延びるため、できるだけ死から遠ざかるため、本能が生に繋がる選択を強いるのだ。


 その光に指先が触れた瞬間、ガゼルの中に記憶の奔流が怒涛のごとく流れ込んできた。それは遠い昔のものではない。つい先刻、プルートの私室で『禁術目録』と題された書物と向き合っていた時の記憶だ。


 頭の中で流れていた映像がある一点に差し掛かった時、ぴたっと停止した。

 見開きのページ。読めない文字の羅列――否、一行だけ読める箇所がある。


 ガゼルがすっかり思考世界に耽溺するさなか、『大斧』が狂気の悦に染まった声を発しながら迫ってくる。

 しかし、ガゼルは意に介すことなく、記憶の中で存在感を放つ一行と対峙を続けた。


 心の中でそらんじる。読めはするが、意味まではわからない。


 ふいに気配を感じた。何か良からぬものが、すぐ近くにまで忍び寄る気配が。


 どこからか、それを唱えろ、と囁く声が聞こえた気がした。はじめは気のせいだろうと思ったが、徐々に声量が大きくなっていく。やがて耳鳴りを覚えるほど強大な規模になって空耳ではないことを確信する。


 ガゼルは現実世界に意識を戻した。

 怪物が迫り来る。

 刹那、恐怖が別の対象に移った。

 手を出してはいけない。だけど、抗わないで壊されるのは真っ平ご免だ。


「エニガミ」


 自然とガゼルの口は動いていた。


 次の瞬間。


『大斧』の進撃が止まった。

 目の前に、突如として巨大な何かが現れたからだ。


 それは『大斧』の巨体を遙かに上回る、聳え立つ山のごとき大巨人であった。

 土くれ色の地肌に、一糸纏わぬ裸体。毛髪もなく、出っ張った目がギョロリと『大斧』を見下ろしている。


 さすがの『大斧』も面食らった様子でそそくさと後方に退いた。

 同様にガゼルも狼狽に取り憑かれていた。


 この巨人は何者なのか?

 敵か、味方か?

 唯一推定できるのは、自分の唱えた謎の呪文がこの巨人を召喚したらしいということだけだ。


 不意に巨人の身体が揺らめき、その口が威嚇するように吠えた。

『大斧』がまた怯んだような顔付きとなって身構える。


 ガゼル自身も状況が飲み込めず呆けていると、またどこからか声が聞こえた。


(ぼさっとしてないでさっさと攻撃しなさいよ。あのでかぶつの目が幻影・・に惹き付けられてる間に)


 ガゼルは咄嗟に周りを見回すが、その声の正体は認められない。

 幻影、と聞いてはっとする。

 巨人の足元をみると、そこにあるはずのもの――影がなかった。


 ――そうか、あれは幻か。


 理解すると同時に我に返り、ガゼルは立ち上がって杖を構えた。

 先ほど聞いた声の言う通りだ。またとない攻撃のチャンスを逃すわけにはいかない。


 深呼吸して集中を研ぎ澄まし、先程の手順を思い出しながら上空に雷雲を集める。


「フルテンド」


 呪文を唱えるなり、地上に何本もの雷が降り出す。その内のひとつがまた運良く『大斧』の脳天を貫いた。


 怪物の絶叫。そののち丸焦げの巨体が後ろに倒れるのを見届けてから、ガゼルもばたりと倒れ伏した。

 魔力が底を尽きたらしい、身体に力が入らなくなっていた。


 雷撃魔法も魔力の消耗が激しい部類の術だが、たった2発打っただけでここまでの疲労感に見舞われることはない。するとあの幻影魔法が、自分から途轍もない量の魔力を奪っていったということか。それが証拠に、巨人の幻もいつの間にかどこかに消え去っていた。


 ガゼルは『大斧』を睨みながら、ひたすら祈っていた。脱力した身体では、祈ることしかできない。


 ――頼む。もう立ち上がってくれるなよ。


 静寂が荒野を占める。


 間もなく、ガゼルが呼んだ雷雲が雨を地上に落としはじめた。


 雫が束になって『大斧』の身体を叩く。それが刺激となってか、ぴくりと足裏が動いた。

 ガゼルの内心を絶望の影が差したのと同時に、『大斧』はのっそりと上体を起こして、また何食わぬ顔で立ち上がった。


 怪物の雄叫びを耳にしながら、ガゼルは瞼を閉じた。

 絶望の暗雲が瞬く間に内心を覆い尽くすが、その絶望も先ほど胸に居座っていたものとは少し趣を異にしていた。


 もう十分、やれるだけのことはやった。心残りがないとは言えないが、やはり運命は変えられないのだ。

 そんなふうに悟りの境地に至っていた。


 再び『大斧』が臨戦状態に移行したことが耳朶を打つ喚き声から察せられたが、恐怖はなかった。早く楽にしてくれとさえ思った。


 様子がおかしいことに気づいたのは、予期していた『終わり』が一向に訪れる気配がなかったからだ。


 ガゼルはゆっくりと瞼を開いた。

 すると、まず火柱が視界に飛び込んできた。

 その火柱の中に人影があった。それが今の今まで対峙していた『大斧』の影と重なり、目を見張った。


 その隣にも人の姿をみた。憶えがあるその佇まいは、まさしく恩師であるプルートに相違なかった。


 幻覚だ、とガゼルは思った。死への恐怖が自分に都合のいい幻覚をみせているのだ、と。

 心地のいい夢をみながら、ガゼルはそっと意識を手放した。

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