幻夜の誓い②

「言いつけを破って私の部屋に忍び込んだことについて、多少ものいいたいことがないわけでもないですが、まあ今回は特別に不問にしておきましょう。それよりも、ガゼル。君が『大斧』との戦闘で解放した魔術。あれは、禁術目録に掲載されていたもので相違ありませんね?」


 ガゼルはつかの間、真実を語るべきか逡巡した。しかし、どの道言い逃れもできないだろうという結論に達して、やむなく白状することにした。


「実際に本を読みながら唱えたわけじゃないから、確証はないですけど……」


「絶体絶命の窮地に追い詰められた時、ひとりでに呪文が頭に浮かび上がってきたのではないでしょうか。そして、直ちにそれを詠まなくてはという切迫感にも駆られたのではないかと。そのように推測していますが、違いますか?」


 ガゼルはまた驚いて恩師の顔を見返した。我が身に生じた現象を寸分の狂いもなく言い当てられたからだ。


「あの本には『禁術』と称される魔術の一覧が収録されています。ただし、中は特殊な術式によるロックが施されているため、一読しただけでは理解が及びません。そのロックは術が必要とされる場面に立ち会うことによって解除される仕組みとなっています。その時が来てはじめて呪文が解読できるようになると同時に、魂に取り憑いた『本の呪い』が術を放てと強く訴えかけてくるのです」


 一聞しただけではその内容の全てを腹落ちさせることは困難だったが、『呪い』といういかにもおぞましげな単語がいたずらにガゼルの憂いを助長した。


 一方で、すっかり置いてけぼりを食らっているノヴァは怪訝そうな表情を浮かべているが、今は深刻な雰囲気が漂っていることを嗅ぎ取ってか、静観の姿勢を決め込んでいる様子だった。


「反応をみた限りだと、本に目を通したのはガゼルだけのようですね。それは不幸中の幸いでした」


「不幸?」


 聞き捨てならない単語がまたしても登場する。

 すかさずガゼルが反応すると、プルートは険しさの増した顔を彼に向けて、


「禁術とは言うなれば人智を超えた奥義です。その効力は、普通の魔術がもたらすそれとは比にならないくらい絶大であり、意のままに現実を操れることから奇跡の力とも言われています。しかし、その大きすぎる力の代償として、術者に未来永劫解けることのない枷を強いるのです。つまり、ガゼル。君は今、禁術を唱えた代償として、その身に重篤なペナルティが課せられています」


 ペナルティ、とガゼルは心の中で反芻する。それは一般的に、ルールを逸脱した時に強いられる罰のことだ。自分が犯した罪は、立入禁止とされていた先生の部屋に忍び込んだことだけだと思っていたが、どうやらもうひとつ、無自覚のうちに犯した罪があったらしい。


 ノヴァがガゼルの顔を心配そうに覗き込み、その後すがるような視線をプルートに向けた。


「なんだよそれ、もっとわかるように言ってくれよ。今、ガゼルの身に何が起きてるんだ」


「ペナルティの内容は術によって様々です。ガゼルが唱えた術――幻影魔法『エニガミ』の代償は、術者に幻覚・幻聴の作用を引き起こすこと。おそらく今のガゼルには、我々には知覚できない何かが見えているか聴こえているんじゃないかと思うのですが」


 プルートとノヴァ、ふたりの視線がガゼルに集中する。言葉無しに、どうなんだ、とその目が尋ねていた。その問いに、ガゼルは迷うことなく首肯した。


「やはり……。それで、それはどういった類の幻覚なのでしょう?」


 ガゼルは中空を浮遊するそれ・・を目で追いながら感じたままに答えた。


「たぶん……妖精、ですかね。今も僕の周りをくるくる飛び回っています」


「見えるだけ? 声や感触は?」


「声はたまに。感触は、ないです」


 プルートは顎に手を添えて唇を結んだ。眼鏡の奥の眼球が小刻みに微動しており、裏で思考を働かせている様が見て取れる。


「なあ先生。ガゼルは大丈夫なのかよ」


「……わかりません。話を聞く限り、命の危機に直結するような最悪の事態にはなっていないように思われますが」


 プルートの回答は歯切れが悪い。

 ノヴァはもどかしそうに拳で膝を叩いた。


 しばらくの間、空間を居心地の悪い沈黙が満たした。

 プルートは腕組みし何らかの思索に耽っているようで、ノヴァは異常事態に見舞われている親友に何と声を掛ければよいのか考えあぐねている様子だった。


 そんな中、ガゼルだけは静けさとは無縁の世界にいた。

 幻聴の囁きがしきりに脳内に響いていたのだ。それが狂気的な声であるなら無視を決め込んでいればいい。だが、たちの悪いことに、そいつはしっかり自我を持っていて、意外に論理的な意見を述べたりする。


 幻聴のくせにオブザーバーを気取るなと言いたい気持ちをガゼルは眉を顰めることで主張する。しかし、そんなことをしても声は一向に鳴り止む気配がないので、仕方なくその声の言う通りに動いてみた。


「先生」


 とガゼルは沈黙を破る。軽く挙手してしまうのは、普段の授業の癖だ。


「あの本が『大斧』たちに狙われたのはなぜですか?」


 プルートは思考世界から脱却するように腕組みを解き、


「それについてはまだ証言が得られていないので、確かなことは言えませんが」


 そう前置きしてから推論を開示した。


「禁術目録は世界にふたつとない希少な代物です。どこぞの闇市では『秘宝』なんて呼び方もされていると聞きます。君たちもどこからか聞きつけた噂を頼りに私の部屋を訪ねたのだと想像しますが、おそらく、かの賊たちも同じ口だったのでしょう」


「そんな貴重なものが、どうしてこんなところにあるんだ」


 ノヴァから投じられた至極順当な質問に対し、プルートは少し考え込むように口をつぐんだ。

 ややあって右手が眼鏡のブリッジに伸びたのを機に、また雄弁な口が開かれた。


「少し授業をしましょうか。この世界の歴史についての授業です」


 唐突な話題転換に戸惑いつつも、ガゼルたちは素直に耳を傾ける。


「君たちが暮らすこの村は、海上に浮かぶ島の中にあります。以前の講義でも話しましたが、島の外の海を越えたその先にもまた別の大陸があり、そこでも多くの人々が生活を営んでいます。以後、島の外のことは便宜上、外界と呼びますね。イメージしがたいことだと思いますが、外界では殺戮や飢餓は滅多に起こりえません。さて、それはなぜでしょう?」


 不慮の問いかけに、ガゼルはノヴァと顔を見合わせる。ノヴァが目顔で、お前が答えろ、と促すので、ガゼルは過去に受けた授業の内容を思い返しながら言った。


「外界には法律という掟があって、それを破った人間はみんなこの島に送られてくるから。それで、外界は悪い人間がいないから平和が保たれていると。そう先生に教えてもらいました」


 プルートは、その通り、と微笑みかけて頷く。


「よく学習してますね。この村にもいくつか掟はありますが、法律もそれと同じ役割を担っていて、人々の生活の秩序を守るために存在します。たとえば、法律には『人を殺してはならない』というものがあります。もしそれに逆らって殺人を犯してしまった場合は、罰としてこの監獄島に送り込まれることとなります。そうしてこの無法の地で、生命の危機に脅かされながら生涯を全うする命運を強いられるのです」


 話を聞いて、ガゼルの頭にひとつの疑問が首をもたげた。


 プルートが外界の出身であることは既知の事実だ。だが、なぜ彼がこの島を訪れることとなったのか、その経緯までは広く知られていない。


 今まで疑問に思わないこともなかったが、尋ねてもはぐらかされるのが常だったので、すっかり追及することを諦めていたが……いい機会だと思い、ガゼルは唇を舐めてから質問を投じてみた。


「先生も、誰かを殺めてしまったことが原因でこの島に送られてきたんですか?」


 プルートは顔色ひとつ変えることなくかぶりを振る。


「私は誰の命も奪っていません。でも、法律を侵したのは事実です」


 続けて、今日まで答えを出し渋っていたのが嘘のように、あっさり口を割った。


「私は外界で禁術の研究をしていました」


 禁術――なるほど、とガゼルは恩師の口が軽くなった理由を悟った。

 どおりで真相をひた隠しにするはずだ。それを明かしてしまえば、自ずと次なる疑問が芽生える。無論「禁術とは何か?」という疑問だ。


 人の好奇心は際限ない。木陰からちらりと尾が覗いただけでその全容を見納めたいと欲するのが、人間のさがだ。

 プルートは大事な生徒たちが不用意に禁忌に近づくことを避けたかったのだろう。だから自分の名誉が揺らぐことも顧みることなく頑なに口をつぐんでいたのだ。


「禁術は使用すれば強大な効力を発揮することができる反面、社会的なモラルをも容易く覆してしまいかねない負の側面も持ち合わせています。故に、外界の統治者は法律を定め、禁術の行使、及びそれに関する研究の全てを反社会的な行為とみなし、厳しく取り締まるようになったのです。青かった頃の私は、そんなことはお構いなしとばかりに研究に没頭していました。自然の摂理すらも無視して世界に干渉することができる禁術の全能性に取り憑かれていたのでしょう、殺人までは犯さずとも、人道的とはとても言えない人体実験に加担したことは何度もありました。それが公的機関の関知するところとなり、こうして島流しになったというわけです」


 プルートはそこで一旦言葉を区切り、ふう、と息継ぎした。


「余談が過ぎましたが、ノヴァの質問に答えましょう。どうして禁術目録がここにあるのか。それは私がこの島に持ち込んだからです」


 ガゼルとノヴァは揃っておもてに不可解の色を滲ませた。


「なぜ、と理由を訊きたそうですね。無論、平和を願ってのことです。外界の平穏が崩れる可能性を少しでも排除するべく、禁術は闇に葬られるべきと判断しました。だから罪滅ぼしというわけではないですが、私という存在もろとも、外界からはお暇いただいた次第です」


「そんな面倒なことしなくたって、焼くなり裂くなりして処分しちまえばいいじゃねえか」


 ノヴァがもっともな疑問を呈するが、それに対してプルートは弱ったように口を曲げた。


「それができれば苦労しません。現代の解読術では到底太刀打ちできないほどに複雑なコーティング術が施されているため、並の物理攻撃や魔法は受け付けないのです」


「いったいどこの誰がそんな本を作ったんですか?」


「詳細は不明ですが、いにしえの文明がもたらした遺産ではないかというのがその道の研究者たちが導き出した見解です。おそらく禁術が世に蔓延ったことが原因で、いにしえの文明は滅亡の末路を辿ったのでしょう」


 研究者としての血が騒いでいるのか、プルートの声はいつになく明るい。だが、おもてにはいまだに深刻そうな色が張り付いたままだ。


「さて、授業は以上です。他に訊きたいことはありますか?」


 その呼びかけに対する反応は無し。ふたりとも今は膨大な情報を処理するのに精一杯で、そこに潜在する疑問の種を掘り起こす余裕までは持ち合わせていなかった。


 続いてプルートはガゼルの方に向き直り、ここからが本題だとばかりに咳払いして告げた。


「ガゼル。私からのお願いです。もう二度と、禁術は唱えないでください。繰り返しになりますが、禁術は絶大な効力を発揮する一方で、術者の生命をも破壊に導く、諸刃の剣です。この先、何があっても発動させてはなりません。私は余命幾ばくもないこの身を、禁術の封印に捧げる所存です。そして君にかかったペナルティの解除を目指します」


 だから、どうかお願いします――と最後は頭まで下げてくる。

 尊敬する恩師からそんな風に懇願されてしまえば、ガゼルとしては、わかりました、と答えるしかなかった。


 が、正直なところ、普段であれば全幅の信頼を寄せられるプルートの言葉が、少しだけ心許ないものに聞こえたことは否めなかった。

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