第六章①
第六章:「やっつけちゃえ!」
1
クーロ・サンチェスが潜んでいるのは、標的が通るであろうルートを睨んだ、およそ100メートルほど距離を置く地点だ。
朝尾山は麓から中腹にかけてまでは杉林が広がるが、頂上付近には広葉樹が生い茂る濃密な森になっている。頂上付近だけが独自の生態系を持ち、季節によってその顔を変えるようになっているのは、ハイキングや登山に来る観光客の目を楽しませる為だ。商業目的に捻じ曲げられた痛々しい自然の姿だが、今はその環境は、クーロにとって非常に心地いい空間であった。
茂る下草、広がる木の葉、濃密な緑の匂い。それらが全て、潜伏する者の気配を消してくれる。狙撃手にとって、これ程ありがたい場所は無い。
アルゼンチン出身のスナイパー、クーロ・サンチェス。裏の世界では名の知れた暗殺者であり、太陽の街ブエノスアイレスの郊外に生まれた彼を、人は『エル・リフレ』と呼ぶ。その名の通り、彼はライフル一挺でこの地位まで上り詰めた男なのだ。
そんなクーロの今回の標的は、朝尾山に侵入した年端も行かない少年一人。だが連絡班から入った情報によると、その少年が『ハインドの悪魔』の異名を取る凄腕工作員の可能性が高いと分かった。
(ラッキーだ……!)
クーロはそれを聞いて、ほくそ笑んだ物だ。ハインドの悪魔の噂は、裏社会に生きるものなら誰もが知っている。2年前のウラジオストク、たった一回の襲撃で伝説を残した存在。その男を仕留められるなら、自らもまた、伝説となり得るのである。
「おい、下からの連絡はまだか?」
クーロは隣の観測兵に尋ねた。長年の部下であり相棒の、フリオだ。
「いえ。この時点で通信が取れないとなると、もう全滅したものと考えられます」
フリオの言葉に、そうか、と考える。狙撃部隊は3チーム、全員がクーロの部下だが、すでに2チームは任務に失敗したということになる。
「そうか」
クーロの感想は、それだけだ。歴戦の部下を失ったのは痛いが、それ以上に安心している。ハインドの悪魔はやはり、自分で仕留めておきたいのである。
「隊長、そろそろ目標が来ますよ」
フリオがモバイル端末の画面に視線を落として、そう呟いた。ロテンから支給されたその端末には、本部の回線を通して、振動探知機や光学探知機の情報が随時、送られてくるのだ。それによると標的は、一直線に頂上へと向かっている。となると、クーロたちの視線の先を必ず通ることになるのである。
クーロは硬質プラスチック製のフォア・ハンド部分から伸びる二脚――バイ・ポットで固定してある愛銃のグリップを持ち上げた。オーストリアのステアー社が開発したボルト・アクション・ライフルSSG69。ぐっ、と肩のポケットにストックを押し当て、左目を軽く閉じて、スコープの視界に全神経を集中させる。
体勢はうつ伏せ。気配を出さないように注意して、右肘で上半身の体重を支える。
フリオも自分の単眼鏡を覗き込んだ。スナイパーは一人で行動するわけではない。近代戦争において、狙撃手は観測兵とペアを組み、最高の仕事のために実力を引き出しあう。
「距離……96メートル」
相棒の声に、スコープのピントを修正した。慎重に距離に合わせてメモリを操作し、寸分の狂いも無いことを確認してから、ゆっくりと手を離す。
「風……北西より3メートル弱」
スコープの視界から、木の葉の揺れや土の舞い方、鳥の飛び立ち。なんでも良いから風の流れを感知し、その強さを計測する。自分の理想とする弾道を決して逸らしてはならない。例えそよ風であっても、鉛弾の軌道を変化させることはある。想定され得る全ての障害を排除する為に、クーロは左右のメモリも合わせて、目標地点への狙撃を完璧なものへと変えていく。
「目標と着弾点の距離、50メートル。……40、30、20」
どんな仕事であろうと、この撃つ直前の緊張感に、胸の早鐘は全身を打つかのように大きくなる。視界が絞れて焦点が凝縮され、グリップを持つ手が汗ばみじっとりと湿る。フォア・ハンドに回された左手をグッと押さえ込み、その集中力をドンドンと高めていく。
「撃て、撃て、撃て――」
フリオの声が、スゥッ、と頭の中に吸い込まれて、消えた。緊張が次々と昇華されて、昂揚感が徐々に沸き立つのを感じた瞬間、クーロの人差し指がトリガーを引き絞っている。
ダ――――…ン!
銃声。焦点が黒い影を捉えた瞬間、7.62×51ミリの308ウィンチェスター弾が空気を焼いて、この空間を飛翔する。発砲の軌跡をゆっくりと目で追いながら、快楽にも似た興奮は、いつも射出後にやって来るのだ。
が――
ヒュッ
「っ!」
消えた。弾丸が虚しく空を切り、何かの木の幹に体を埋める。スコープ内の狭い視界に、飛び散るはずの血液も、倒れるはずの身体さえも無く、ただそこには静寂が戻るだけ。
くっ……、と呻いて、素早くボルトを手前に引いた。コッキング・レバーを押し込んで再装填。命中精度と頑丈さが売りの単発式ライフル、一発で仕留めねば意味はない。
「どこだ!?」
激昂が声を押し出していた。答えるべき仲間は、失敗、とだけ呟いて首を左右に回している。こいつも見失っているんだ、と気付いて、焦燥に火が付いた。
ザッ
身体を持ち上げようとした時に、耳元で木の葉が揺れて、下草が踏みしめられた。なんだ、と思った瞬間には、もうクーロにはそれ以上、分からなかったのだ。
痛みも何も、感じなかった。ただ最後に、金属の擦れる甲高い音が空気を裂いて、それで視界が暗転した。
手前の小銃を持った男は片付けた。聖杜は即座に刃を翻し、もう一人の男へとそれを振り上げる。
「あ、ひゃ……!」
悲鳴は途中で切れた。首の付け根に食い込んだ刀が男の胸へと下りて、そのまま腋までを斬り裂いている。
宙に踊った赤い血が、ビシャ、と地に落ちて、葉っぱや草を暗く染めた。倒れ伏した死体を前に、ふぅ、と一つ、息を吐く。
「また、スナイパー、か……」
ここに来るまでにもう二組、似たような奴らが狙ってきた。全員が一流の狙撃手で、気配を消して確実に目標地点を撃ち抜いてくる。空気に流れる微弱な気が、彼らの殺気を知らせてくれなければ、聖杜は確実に死んでいただろう。
(なんなんだよ、チクショウ!)
ここまでの人員と、ここまでの装備。ロテンという組織がこんな極東の島国に持ち込んだものは、途方も無いほど強大だ。反政府組織だのテログループだの、そういう範疇を完全に超えている。
焦りの心。ここまで巨大な存在が、これからどんなことをして行くのか。里の技術を掴んで、それを何に使おうというのか。
そして、あの大切な二人の女の子は、どんな風に利用されてしまうのだろうか。
「………………っ!」
ギュッ、と拳を握り締め、奥歯を噛んで、想像に耐える。急がなければ、という使命感が聖杜を焦がす。
額に浮いた大粒の汗を拭い、大きく上下する肩を、無理矢理にでも押さえ込む。キッ、と前方を見据え、聖杜は頂上を目指し、道なき道を走り始めた。
もう何時間も走り通しで、疲労はピークを超えている。だがそれでも向かわねばならない。この身が壊れようと、護らねばならない存在が、そこにいる。
目的の場所までは、もう、すぐそこなのだ。
2
ふらふらと、まるで何かに導かれるようにして。スズキ・アンズが 朝尾山頂上から入り込んでいったのは、小さく細い裏道のような場所だった。
未整備で土が剥き出しの、人がなんとか二人ほど並んで通れるくらいの道。だが不思議なことに、人の出入りの少なそうなこの道は、下草の茂り方が不自然なほど短い。周囲の木や植物も侵食せず、まるでこの道は神聖な力により形作られているかのような印象さえ受ける。
(こんな怪しい道……なんで気付かなかった?)
マルコ・シモーネ・チェーザレは、淡い光を放つアンズから、シェーファーと護衛の数人分の距離を空けた殿の位置にいながらも、疑問に眼光を鋭くする。
アンズがこの道を進み始めた時点で、先遣隊の何人かが斥候として先を見てきているはずだ。十人ほどのこの一隊は、保険のためにアンズを前に置いてゆっくりと歩んでいるのである。彼の目の前にいる少女はアンズと一緒にいた、ユリカという名の娘だ。彼女は緊張した面持ちで足を進めながら、時々、警戒するように周囲を窺っている。脱出の機会を見定めているのだろう、今までも抵抗の痕跡がある。なかなか見所のある少女だが、アンズと離されたこの状況ではどうしようもないと考えているのだろう。
それに先程から様子が変だ。なにか落ち着かないというか、思考に縛られているようでもある。『ハインドの悪魔』の映像を見てからだろうか、その前までの生気が消えているのだ。
(ま、どうでも良いこったけどな)
マルコは頭を掻きつつも、もうかなりの距離を歩んだ道の、その先を見据える。そこには、狭い通路から見れば多少は開けたようになっている空間が見通せた。
「おおっ!」
先程から焦れたようにアンズを急かしていたシェーファーが、喜びの声を上げた。その様子に苦笑しつつ、来た道を少しだけ、振り返る。
緩やかに下った途中から、少しだけ登りの傾斜へと移行した細い通路。ここを戻った朝尾山の頂上には、ライアン・ウィルソンがいるはずだ。彼が侵入者、ハインドの悪魔を仕留める為の最後の砦となるはずである。
残念ではある。伝説の『悪魔』と戦ってみたい気持ちは、マルコにもあるのだ。だがウィルソンは世界最高峰の暗殺者。その実力は、マルコも一目置いている。心配は無い。
細道を抜けた。そこは、急勾配の山肌を目の前に望む場所だった。右横には、なにかを祀った祠があるが、その先は崖。左側には勾配を上に登る細い道があり、この坂をまた進むのか、とげんなりした。
だが実際は、違った。一向は全員、ここで止まっているのだ。光を纏った不思議な少女は、緑の茂るこの坂を見詰めるだけ。
ここで待っていたであろう先遣隊の人間が駆け寄ってきて、シェーファーに声をかけた。
「報告します。この先の道には二つの進路があり、登りはハイキングコースへと繋がり、下りは麓の村へと合流するようでして……他に何も見当たりません」
困ったような顔でそう言う兵士に、唖然として口を開けるシェーファーのマヌケ面が、なんだか可笑しかった。だが次の瞬間、言葉を理解した中年の男は、スキンヘッドにした頭皮まで真っ赤にして怒鳴り散らす。
「ふ、ふざけるな! こんな所まで連れて来て、何もありませんでした、だと!? そんな事が許されるか! ――小娘、謀りおったか!」
怒りの矛先がアンズに向かう。しかし少女はシェーファーの激昂など聞こえていなかった。ただ、じっ、と目の前を見据える。マルコはそこで初めて、山肌の中に、石で組まれた歪な四角の、まるで扉のような何かが埋め込まれていることを知った。
『来た、よ――』
声が、響いた。美しく澄んだ声音が。唐突に、静かに、しかし確実に聞こえた声は、シェーファーの喚き散らす怒号すらも苦にせず、全員の耳に届いたのだ。
それがアンズの口から発せられた物だとは――、マルコには数瞬、理解できなかった。
『開け、て――』
もう一度、その神秘的な音色を口ずさむ。その時には全員が口を閉じていた。シェーファーも神妙な顔で、不思議な少女に見入っていた。
アンズの身体を包んでいた光が突然、その力を強めた。それと同時に、山肌に浮いた四角いレリーフが輝きを放ち、マルコたちの瞳を焼いた。
ゴ、ゴゴゴォォ……ン
四角の中の土砂が崩れる。自生していた木も植物も滑り落ち、中から石組みの壁が現れた。だが次の瞬間には、振動が増したかと思えば地響きのような重い音を響かせて、その石壁すらも開いていく。
(本当に……扉だったのか!)
腕で光から目を庇いながら、マルコはそう、驚嘆していた。
強烈な光が止むと、扉の先はポッカリと空いた洞窟だった。暗闇で先が見通せないその通路を見て、全員が息を呑み、言葉すらも発せられない。
だが。歓喜に震えたシェーファーが、その激情を爆発させる。
「これが! この先に! 我々の未来があるのか! 素晴らしい、実に素晴らしい秘境じゃないか! ハハハハハハッ!」
興奮に表情筋の全部を使って笑顔を浮かべるシェーファーに、徐々に周囲も自我を取り戻し始める。しかしその中で一人、アンズだけはフラフラと、何も気にせず扉の中へと入って行ってしまった。
ハッ、としたシェーファーが慌ててアンズの後を追う。その後ろを兵士たちが続き、マルコも足を踏み入れようとした時だ。
「マルコ! お前はその娘と一緒に、そこで入り口を見張っとれ!」
シェーファーの怒鳴り声が、エコーを引き連れてこちらに届く。
「なにいっ?」
「万が一の為じゃ。ウィルソンが突破されたら、そこで侵入者を始末しろ!」
「んなこと言っても、ベントに任せときゃ大丈夫だって」
「心配するな、理想郷の中身は後でお前にも見せてやる! だから暫く、娘と一緒にそこにいろ!」
言いたいことだけ言い終えると、再び足音が遠のいていった。雇い主のそんな態度に頭を掻きつつ、しょうがねぇな、と苦笑を浮かべた。
「だとよ、お嬢ちゃん。俺たちはここでお留守番だ」
分かり易く日本語で、俯いたままの少女にそう語りかける。彼女は何も答えない。無愛想な様子に、やれやれ、と頭を振ると、二人ほど残った兵士に入り口を警戒するよう命令する。
「よぉ、嬢ちゃん。俺たちゃ居残り組だ。先公はいねぇから、ゆっくりと休んでようや」
手近な岩に腰を下ろして、ユリカにそう語りかける。彼女はこちらを見ずに、反対の岩に座り込んだ。隣に来る気はないらしい。
俯いたままの覇気の無い少女を前にしながらも、マルコは不敵な笑みを崩さぬまま、退屈そうに足を組むだけだ。
広々とした草原。一本だけ、枝葉を広げた巨木が鎮座するその中で、さわさわと風に揺れる草花が湿気を含んで、元気に輝いている。そう、ここはまるで、広々とした草原のような印象すら受ける場所だった。
月明かりの中で、雲の近くにある朝尾山の山頂。外縁に生い茂る木々の合間に小さく、街の灯を望む。高所の眺めを楽しむ為にベンチやトイレなどの公園施設が設置され、快適なハイキングを約束してくれる場所だ。だが今の時刻、この場所にはもう、誰も居ない。先程までデータ処理や通信作業などに追われていたロテンのメンバーも、今は指令所の機能を一つ下にある休憩所や駐車場に移している。
だからここにはもう、誰も居ない。――彼を除いて。
ゆったりとベンチに腰掛けて、じっ、と一点を見詰めたまま動かない。ライアン・ウィルソンだけが、その場所に留まり、ここの空気を吸っている。
これからここに来るであろう敵、『ハインドの悪魔』と呼ばれる特殊工作員との戦闘に向けて、彼だけがここに残っているのだ。
くくっ、と喉が鳴った。
(ハインドの悪魔、か……)
それは苦笑だったろうか。
(皮肉なものだな、和杜。ここに来てお前の信頼する人間と対峙することになろうとは)
彼は思いを馳せる。中村 和杜――かつて共に戦い、時には刃を交え、また互いに笑い合い、語り合った仲間のことを。ライアンが絶大な信頼を寄せる戦友であり、戦慄を抱く好敵手であり、10以上も歳の離れた良き理解者のことを。
今からもう、10年以上は前だろうか。かつてイギリス諜報部に所属していたライアンが和杜と出会ったのは。彼は現代最高の忍者だった。ともすればライアンをも凌ぐほどの、驚くべき手練であったのだ。
和杜は、ライアンが知る限りでは最高峰の『フープス』である。
フープス――欧米では輪技使いの事をこう呼ぶ。元は違う名称だったというが、日本の『輪技』という思想に感化されて、輪を刻むものという意味からこう名付けられた。
(この忌むべき仕事の中で、和杜の親類と戦わねばならないとは……。不思議な気分だ)
ロテンからのオファーは、憎むべき依頼であったのだ。一人の少女を誘拐し、その子を利用して、地上のあらゆる軍隊をも凌ぐ強大な軍事力を手に入れる。邪魔するものは全て、抹殺せよ。――この内容に嫌悪感を抱いていることは、自分の正義を持っているライアンにとっては、当然であった。
(だが、俺は止まれない。この仕事を完遂せねば、そうせねばならない理由がある)
決意は固い。自分の信念を曲げてでも引き受けた仕事だ。ここで頓挫するわけには行かない。
迷いはある。だが、それ以上に必要なのは、充分な結果だった。
(遠慮はせん。この迷いを飲み込んででも、倒させてもらう)
ライアンはスーツの上から左胸に触れた。その下にあるポケットの中には、彼の大切なものがある。彼のかけがえのない、護るべき存在が。
(お前も護るべき者のために戦うのだろう? ならば全力で来い。その果てにはきっと、気持ちの勝負が待っている)
そっ、と視線を左に向けた。彼の力は感知している。その方向から、物凄い速さでこちらへと近づいてくる、強大な敵を。ライアンの認めるライバルの一人、中村 和杜が実力を押す、その存在を。
(お前は和杜の親類だろう。ならばその屈強な信念をぶつけて来い。私も全力でそれに答えよう。――なぁ、中村 聖杜よ)
ぎゅっ、と左胸を握り締め。自分の心を奮い立たせて、ライアンは立ち上がった。
その姿はまさに、悲壮な覚悟を背負った戦士そのものだったのである。
3
ザッ
広葉樹の生い茂る山林の中、最後の急斜面を抜け、柵を乗り越えると、緩やかな傾斜の場所に出る。頂上からここまでが、家族連れやハイキング客なんかが足を伸ばせる範囲と言うことだろう。先程の柵は転落防止用なのだな、と納得した。
さっ、と視線を左右に投げるが、そこに人の影は無い。頂上に拠点を置いて、防衛線の指揮所機能をそこに集めているのだと思っていた聖杜には、ここに見張りの一人も居ない状況に不信感を抱いた。聖杜の行動は監視装置によって全て把握されているのである、疑問は尚更だ。
どうなっているのか、と考えながらも、警戒は解かない。だが頂上にあるであろう喧騒が聞こえてこないことから、指令所はここではないのだろうか、と考えてしまった。
(ウダウダと怪しんでもしょうがないよな……。とっとと行くしかない)
覚悟を決めた。元より、銃火器のない聖杜の武装では、コソコソとしても意味が無いのだから。彼は瞳を細めると、一呼吸で緊張を沈め、その身を頂上へと躍らせる。
一瞬で開けた視界。近くなった空、漂う雲と星の輝き、煌々とした月明かり。それらが上空に広がる光景は幻想的だが、それを気にする余裕は無かった。
広々とした朝尾山の山頂、テントも車両も兵士も存在しない、さわさわと風に揺られる寂しい景色。一瞬、誰も居ないのか、と錯覚すらしてしまう。
気付いた。男が立ち上がったのだ。背の高い、背広を着込んだスマートな白人だった。その男がこちらを振り向き、鋭い眼光を、聖杜に向ける。
ゴクリ、と生唾を飲み込んだ。
「待っていたぞ。中村 聖杜、だな」
流暢な日本語が男の口から飛び出した。名前まで言い当てられたことに面食らって、聖杜は思わず眉を顰める。
「あんたは?」
「私は、ライアン・ウィルソン。君の従兄弟と知り合いだ」
「………………っ!」
ライアン・ウィルソン。
知っている。その名も、また彼の顔も。
「『ベント』――!」
聖杜の声は硬かった。
だがその様子に、ウィルソンは柔和な笑みで答える。
「知ってるのか。和杜から聞いているようだな」
コクリ。聖杜は頷いた。
彼の言った通りだ。聖杜は和杜からウィルソンの話を聞いているのだ、しかも写真付きで。和杜をして、「世界最高の諜報員であり、世界最高の暗殺者の一人」と太鼓判を押す、戦友なのだ、と。
ウィルソンはイギリス情報局の元エージェントだ。和杜が諜報員として始めて参加した、旧ユーゴスラヴィア紛争の時からの付き合いだと聞いている。
「私も君の事を聞いているよ、和杜からな。近接戦闘のスペシャリストで、潜在能力は何者をも寄せ付けない、と言っていた」
その言葉に嘘は無い様だな、と笑うウィルソン。その様子に聖杜は、喉がカラカラに渇いていくのを感じていた。
「なぜ、貴方が、ここに?」
思わずついて出た疑問。こんなことを言うのは間抜けなのかもしれない。しかし、人格者としても通っているこの男が、なぜこの様な卑劣な作戦に参加しているのかが、聖杜には理解できなかった。
「ふむ。確かに、理由がある。そして依頼を引き受けることに決めたんだ」
ウィルソンの瞳の威圧感が増した。
「君は我々を止めたいのだろう? ならば残念だが、私と敵対せねばならない」
スッ、とウィルソンの肩が力を抜く。自然体で立つその姿に、異様な迫力が宿っていた。
「あの娘たちは君にとって、とても大切な存在なのだろうな。ならば全力で戦おう」
眼光が細められ、ウィルソンの全身に殺気が漲る。その姿に圧倒されて、聖杜は意識外に、後ろ足を退いてしまう。
恐い。そう、思った。
(戦う? この男と? 現代最高峰の、暗殺者と?)
勝てるのか、と自問した。しかし答えは、背中を伝った冷たい汗のみ。
聖杜の逡巡が、状況判断を鈍らせている。だから攻撃がきた時に、咄嗟に対処ができなかった。
ゴッ!
右側から来た、唐突な圧力。物理的な接触が聖杜を弾き飛ばし、驚愕に固まったまま、受身も取れずに草原に転がってしまう。
「っ、!?」
カ、ハッ、と肺から空気が漏れた。
「集中力が切れているようだな。悪いが先に攻撃させてもらったよ」
首だけ動かしたウィルソンが、冷徹な瞳で、それだけを口にする。彼は先程の位置から動いていない。聖杜は起き上がりながら、不可視の力が直撃した右脇腹を押さえ、奥歯を噛んだ。
『ベント』、という通り名。ライアン・ウィルソンへの畏怖を込めて付けられたその言葉の意味は、ポルトガル語で、風。
風使い。それがライアン・ウィルソンの輪技である。そして、ウィルソンの実力は、世界トップクラスである。それが、和杜から授けられた情報であった。
クソッ、と思う。
「ちくしょう……!」
立ち上がる。脇腹を押さえながら、キッ、とウィルソンを睨み付けた。しかし心は折れているのだ、この震える脚がそれを証明している。
先程の一撃を避けられなかった時点で、自分にはもう、勝ち目が無い。そう、考えてしまったのだ。
(でも……)
刀の柄に手をかける。腰を軸に斜めに下ろして、聖杜は足に力を込めて、駆け出した。
「負ける訳には、……行かないんだよおぉぉ!」
咆哮。全速力で距離を詰め、鯉口を切り、刃を晒す。鞘から抜き放った銀線を、精一杯の速度で、ウィルソンへと叩き付けようとした。
敵の笑みが見えた。
ゴッ、ゴガゴ!
見えない殴打が聖杜を襲う。ウィルソンの身体に辿り着く前に、周囲から去来した風に三ヶ所を殴られて、聖杜の勢いが完全に削がれた。
「――――――、!」
堪える。攻撃は重くない。タン、右に跳躍すると、空間を足場にして、今度は死角から襲おうとする。
ヒュウ、と風が頬を撫で、次の瞬間には煽られていた。
うわっ、と発して、崩れたバランスに慌ててしまう。ヤバイと感じて空間を固め、再び跳躍しようとした時、足場まで届かないことに気付いた。
浮いている。
風が聖杜を、離さない。
(――動けない!)
ミシリ、と肋骨が撓んだ。空気圧が一気に増したのだ。空中に磔にされたまま、風が胸を圧迫してくる。肺から空気が搾り出され、カハッ、と苦しげに息を吐き出して、吸う事ができないことにもがいてしまう。
「……、ぐぅ、――あぁっ!」
ギシギシと骨格を軋ませて、無理矢理、圧力を振り払う。力任せに開放されて、下草に埋もれるように倒れ伏し、それでも気力で顔を上げた。
ハァ、ハァ、ハァ。激しく背中が上下して、疲労に筋肉が痺れてくる。額の脂汗を腕で拭い、視線の先は、こちらを見下ろすウィルソンの方へ。
「こんな物か?」
男の視線は、蔑みの感情に彩られ、冷たかった。
「期待外れだな。和杜の評価も、身内贔屓が過ぎるというものだ」
「うるさい!」
皮肉な笑みがウィルソンの口元に浮く。それが耐えられなくて、聖杜は大声を上げて彼の声を掻き消したが、その時点で心理的に負けていた。
勝てない、と思ってしまったのだ。
(くそっ……くそ! ちきしょう!)
よろよろと立ち上がり、再び刀を抜いて、鞘を投げた。柄を両手で保持して、ウィルソンを睨みつけるように、その瞳を細くする。
「まだ負けてない! 俺は、ここで負けてなんか、いられないんだ!」
胸に去来するものがある。杏子を利用なんかさせない。親友が大事にしてきたあの子を渡すことなどできない。それに聖杜には、大切な女の子を、義妹を護らなければいけないのだ。
心に仕舞った想いがある。それは誓いだ。由梨花を護り続けたい。義兄妹になってしまったその時から、彼は大切に秘めた思いを封印し、代わりに誓った思いを刻み込んだのだ。
それが聖杜を奮い立たせる。気圧された気持ちをむりやり押し出し、誓いを守れと、全身に叫び続けるのだ。
「っだらあぁぁぁぁっ!」
それは悲鳴に近かっただろう。悲壮な咆哮で自らを鼓舞し、敵への一歩を踏み出そうとして、フッ、と違和感に気付いた。
息ができない。
酸素が無いのだ。
唐突なことにパニック状態に陥った聖杜に、ウィルソンがゆっくり、語りかける。
「いい表情だよ。そういう顔付きができる奴は、やはり殺すのが惜しい」
スッ、とウィルソンが左腕を胸の前まで持ってきて、それを斜め下に振ると、その瞬間、膨大な危機感が聖杜を襲った。
「ただ……これで死ぬなら、それは運命に負けたものだと考えるのが、妥当だろうな」
殺気が軌跡を引く。聖杜の全身が総毛立ち、ほぼ混乱した頭で、反射的に横に飛んでいた。足りない、と感じて、思いっきり踏み出して、空中を駆ける。後ろで木が幹ごと倒れた音を聞いて、切れたのか、と戦慄した。
(………………っ!)
全力疾走だった。空気が保たずに足が震え、空間を蹴った勢いだけで倒れ込んだ瞬間、聖杜の周囲に再び酸素が出現し、その濃厚な味に肺を満たす。
「――っう、ハア!」
ハ、ハ、ハ、と心臓が早鐘のように動いた。呼吸が苦しい。胸を押さえて自分を落ち着けようと努力しつつ、汗に塗れた血色の悪い顔を上げて、落としていた刀を引っ掴んだ。
ある一定の範囲だけ酸素を除去したのだ、と気付いたのは、無酸素状態から開放された脳がようやく働きだしてくれたからだ。同時に、そんな大仕事は一瞬で実行できるものではない、とも考えている。罠にはめられた、その事実に歯噛みした。
「よく避けた。やはりお前は、素晴らしい才能だ」
ウィルソンの口角が上がっている。まるで試されているような、遊ばれているような、そんな印象が拭えないことに、聖杜の焦りは募っていった。握り締めた拳は爪が食い込んで血が滲む。悔しい。それでも、諦めては、いけない。
震える脚を叱咤して、左手に握った刀を地面に突き立て、それを支えに立ち上がろうとした。足腰がガクガクとしているが、それが疲労から来るものなのか、それとも恐怖がそうさせるのかは、聖杜にも分からなかった。
パンッ!
空気が弾ける音がして。
左肩が血飛沫を上げた。
「う、ぐあっ!?」
杖代わりの刀から手を離して、足がガックリと力を抜き、地面に膝を突いてしまう。激痛に呻き声を噛み殺し、傷口を必死に押さえて、その場に再び蹲った。
「、うぅぅぅぅぅぅ……!」
生温かい感触が掌に広がって、零れ落ちた血が二の腕を伝う。その感覚が脳を強烈に焼き、しかしまるで現実感が無いことに、聖杜自身が戸惑ってしまった。だがそんな彼の様子にお構いなく、ウィルソンの声が、降ってくる。
「『インヴィンシブル・ガナー』という名前を聞いたことがあるか? あまり有名じゃないが、私のもう一つの通り名らしい。『見えない銃手』という意味でね。そのまま、この技の名前にさせてもらったよ」
空気を極限まで凝縮し、その後ろの圧縮空気を破裂させることで、凝縮した風を撃ち出す技。小さく固めるから巨大な破壊力は生み出せないが、NATO軍の正式採用する二十二口径のライフル弾と同じくらいの威力で敵を撃ち抜くことが可能だと、ウィルソンは続けた。高速で飛来する風の弾丸は弾体を残さず、しかも支配した大気の範囲ならばどこからでも射撃できる、まさに見えない狙撃手だ。
「私の持っている技は全て見せた。これが、親友の肉親に対する礼儀だと考えている。伸び盛りの、お前のような若者を手にかけるのは忍びないが、残念だがお別れにしよう」
ウィルソンの声は冷静だった。その声音は、本当に悲哀を含んでいるのだ。彼の心情にあるのは恐らく、同情と、諦観。
しかし聖杜は、彼のその言葉をも、聞いてはいなかった。自分の中で、焦燥だけが溢れていたその心が、変わっていっているのを感じたのだ。
諦め、ではない。
それは、無意識の中にある、理解だっただろう。
ただ、俯けた視線に、赤く溜まった自分の血の池だけが、映っていた。
「楽しかったよ、聖杜。お前は立派に戦っていた。……安心しろ、2人の少女は私の名誉にかけて、無事に帰そう」
ウィルソンの腕が振られる。その軌跡に合わせるように、真空が生み出されたのが、分かった。それは聖杜へと進む過程で空気を取り込み、かまいたちの刃が、肉体を両断するだろう。
聖杜はその刃を、見た。
視てみせたのだ。顔を上げた瞬間、紫の淡い光が、一本の線になっている。
それはウィルソンの気の発する色だった。この大気を支配する輪技、ウィルソンの能力は、紫の色を帯びている。
高速で飛来する風の刃を、一挙動で避け、接地した時には視線を前へ。躱したことに軽く眼を見開くウィルソンへ、細められた鋭い殺気を、集中させる。
頭の中が異常にクリアだった。雑念の無い、整然とした、本能の支配するような感覚。生存への欲求とでも言うべきだろう、聖杜の精神は、シンプルな感情が、張り巡らされていた。
生きる。
そして、由梨花を、杏子を、助けてみせる。
先程までのグチャグチャとした不安や恐怖を一掃したのだ。それは皮肉なことに、自らの血を見たことで、ようやく吹っ切ることができたと言うことである。
「ボクは、死なないよ」
そっ、と呟いて、半身に構える。刀を右手に提げて、引き絞った決意の気合を、静かに纏う。
「ライアン・ウィルソン。貴方がボクを殺そうとするなら、ボクは貴方を、全力で、殺す」
自分の身体から立ち上るのは、薄い緑の光だろうか。自分の気だ。能力の根源である生命力が、この世界と、完全に同調している、輪を描いている。世界に満ちる気を視ることこそが、輪技使いの究極の奥義だろう、そう思えた。
「ボクは彼女たちを、何があっても護らなきゃ、いけないんだ!」
「――よく言った!」
聖杜の裂帛に、ウィルソンの目付きが変わった。本気で挑む者を本気で迎え撃つ。同時に聖杜の変化も見抜いたのだろう、彼の放つ気がより洗練されたものに研ぎ澄まされていく。
駆ける。同時に大気が揺れ動き、前方から複数の風の拳打が降り注ぐのを感じた。ウィルソンの力は大気支配だが、全体を一気に動かすようなことはできない。しかも能力の内容は空気の操作に比重を置いている。大気を刃にするには過程が必要だ。
そう見抜いたからこそ、聖杜は冷静に、空間を凝結させた。風を空間で受け止め、自らはその間隙を通ってウィルソンへと肉薄する。
ウィルソンが目の前に来た。彼も輪技が見えている。だから聖杜の先手を取っていたのだろう。
刀を振るう。だが腕を左手でガードされ、刃は敵に届かない。懐に飛び込まれて、肘が顎へと強襲してきた。首を反らして避け、体重移動の過程で右膝を叩き込もうとする。
トッ、掌で弾かれた。強烈な拳打を左手で逸らすと、左肩が激痛を発し、痛覚神経が悲鳴を上げた。
耐えて、蹴る。避けられる。殴る。ガード、そして逆襲。肩の傷口に掌低を打ち込まれるも、奥歯を食いしばって痛みを切り離し、身体の表面を滑らせるようにして、刃を薙いだ。
ヒュッ、と風切り音がして、ウィルソンが密着状態から後退した。彼のスーツを切れ目が走ったが、それだけだ。皮膚には達していない。
一瞬だけ、お互いの瞳が合致し、その眼光を交換し合った。
切り裂かれたネクタイの先が、ハラリ、と地面に落ちた時。
再び二人は接近している。
左下から右上に刀を斬り上げるも、ウィルソンの右腕で止められる。彼の腕に沿って濃密な風が展開されているのを見て、即席のトンファーを創りあげたのだ、と分かった。
刃を退いて、身を沈みこませると、頭の上を左拳が通過していく。ヒュッ、と擦過音に続いて、遅れて風の拳打が聖杜の顔面に向かってきた。左回りに身体を回転させることで風を沿わせ、低い軌道での回し蹴りを放つ。左足の踵がウィルソンの脇腹に減り込むも、当たりが浅く、硬い腹筋にダメージは見られない。
ちっ、と舌打ちを一つ。ローキックの反撃を視界に入れつつも地を蹴り、瞬時に後退して間合いを取った。
細く長く、息を吐き出す。汗と血に塗れた自分の身体は異常に重い。疲労に眉を顰めつつ、ウィルソンもまた、顔中を汗だくにして肩で息しているのを見て、戦闘の終盤を知った。
あの短い攻防での、極端な疲労は、互いの精神が極度に研ぎ澄まされた状態であることを指すのだ。それは長くは続かない。否、長引かせてはならない。
タンッ。聖杜が動いた。骨格から悲鳴を上げる全身を抑え込み、全速力で、突撃していく。
高速移動の狭まった視界の中、いくつもの紫色が、聖杜を取り囲むように凝縮していく。
――インヴィンシブル・ガナー!
風の弾丸が自分を狙っている、それも大量に。複数の場所から複数の圧縮空気を生み出すこの力が、この技の本質なのだと悟った。
(仕掛けてきた!)
これで決めるつもりだ。だが、聖杜はここで死ぬつもりなどない。
(いや、――死ねない、死ぬことは、許さない!)
目視できる範囲の全ての弾丸の背後、圧縮空気との僅かな隙間の空間を凝結させる。紫の間に緑色が割って入り、聖杜はそこに向けて、さらに加速した。
圧縮空気の炸裂とほぼ同時に、弾丸の壁に身体をぶつける。弾けた衝撃を空間によって阻害された弾丸が身体に当たり、それが散らばって、消えた。
「っ!」
ウィルソンの表情が緊張した。苦虫を噛み潰したような顔で、半身になって迎撃姿勢を取る。構わず突き進む中、背後の弾丸が襲い掛かり、右足を掠って皮膚が裂け、流れ弾が脇腹に突き刺さって出血する。一瞬だけ体勢を崩すも、まだ致命傷ではない、再び脚に力を込めた。
オッ――――――!
気合の裂帛。聖杜の口から叫び声が飛び出した。無意識の内に腹から飛び出した発声を聞かず、下段に構えた刀の柄を握り締め、目前の敵へと突進する。
ヒュッ!
研ぎ澄まされた一撃。ウィルソンの渾身の貫手が超高速で放たれる。腰を落として体重を乗せた、最小限の振りで破壊力を凝縮させる殺意の一撃。左側から心臓へと正確に突き出された攻撃に、肩の激痛を無視して、左腕を割り込ませた。
弾いたのだ。貫手の軌道、接触直前にウィルソンの右腕を、下から突き上げた聖杜の腕が。そのままベクトルを逸らせて躱すと、ウィルソンの瞳が驚愕に見開かれる。聖杜は、無理に動かした左肩に走る激痛が脳を焼くのを無視し、流れる熱い血液の感触を忘れた。
だが、ウィルソンは異常な速度で重心を入れ替えていた。攻撃を外した瞬間に体重を移動させ、左足の鋭い蹴りが脇下から飛んで来たのを、軌道の空間を固めてガードしようとする。
聖杜は刀を振り上げた。と同時に、能力にかかる信じられない圧力が、凝結空間を破壊する。
「オオォッ!」
「あぁっ!」
咆哮が重なった。聖杜の身体が宙を舞い、刀の切っ先を天に向ける姿は、まるで飛翔しているかのようですらあった。刃先は紅蓮の軌跡を引き、月明かりに照らされた銀線は美しい赤を散らせる。
着地。膝に力が入らず、地面へと倒れ伏す。負傷した肩を打ち、痛みに奥歯を食いしばるが、悲鳴を上げる余裕は無かった。っ、はぁ! と止めていた息を吐き出して、見上げた先に、男はいた。
彼の瞳は優しかった。柔らかい眼光を湛えたまま、笑んで、ふっ、と息を吐き出す。
立ち尽くすライアン・ウィルソンの身体に走る一筋の線。左の脇腹から右肩にかけて引かれた刀傷は、とても鋭利で、とても残酷だった。
聖杜がゆっくりと身を起こした時。
ウィルソンの身体は、ゆらり、と傾いで倒れ伏した。
聖杜がウィルソンの身体を起こして、ベンチへと凭せ掛けたのは、それが彼の望みだったからだ。
「すまないな」
「いや……」
息も絶え絶えに言葉を搾り出す男性に、もう助からないんだな、と言うことだけは確信できた。
細身といえども、鍛え上げられた肉体と背の高さから、体重はかなり有る。担ぎ上げる時に、聖杜の脇腹からは血が噴き出したが、痛覚が麻痺しているのか余り気にならなかった。
木製のベンチに座ったウィルソンは、天を仰ぐように首を逸らすと、背凭れに体重を乗せ、ゆっくりと息を吐いた。細く、長い、その呼気。傷口から下を真っ赤に染めて、彼は血の気の無い顔で笑った。
「行かないのか?」
急いでいるんだろう、と続いた言葉。それが向けられてもなお、聖杜はそこを動けなかった。
疑問だった。ウィルソンの瞳が、未だに優しい輝きを放っていることに。聖杜は彼を斬った。そしてもう、生きることはできないと、言うのに。
自分の唇が震えているのを意識しつつ、聖杜は口を開いた。
「……手加減したのか?」
ウィルソンの笑顔を説明するには、これぐらいしか、思いつかない。
しかし当人は苦笑に似た笑みと共に、首を左右に振るだけ。閉じていた瞼を開き、真っ直ぐに聖杜を見詰めたと思ったら、また笑った。
「殺し合いで手を抜いてどうする? 私だって生きたいんだ、こんな仕事を請けるくらいなんだ、必死だったよ」
「じゃあ、なんで笑ってられるんだよ? わかんないよ、俺……ボクは、貴方を越えられる実力を、持っていなかった」
「そんな事は無い。私は本気で戦った。最後の猛攻を凌ぎきれず、完全な敗北を喫したのだ。君は強かった、私の信念以上に、君の執念が強靭だったのだ」
「そんなこと、ないよ」
悲しい気持ちが湧き出てくる。聖杜は弱々しく首を振り、俯いて、黙ってしまう。
そんな少年に、ウィルソンは変わらず笑みを湛えたまま、言った。
「聖杜よ。お前は、家族のために、私を斬ったのだろう?」
唐突だった。だから言葉が飲み込めず、聖杜は困惑した顔をしたのだ。
「あの二人の少女は、それだけ大切な存在だと、そういうことだろう。だからこんな無茶をして、傷だらけになって、それでもまだ、もがいている」
「そう、だね……」
「私も家族のために戦った。二人の子供がいることは……和杜なら話しているかもな」
「ん、聞いてる」
聖杜が頷いたのを見て、苦笑のような幸せな表情が、ウィルソンの顔に浮かんだ。
「妻は病気で逝ってしまった。――そして、娘もまた、同じ病を発症したんだよ」
「なっ!?」
その言葉は衝撃的だった。
「治療法は存在しない。延命措置にも、相当量の資金が要る。……あの子の苦しみは分かっていた。でも、それでも私は、もっと生きて欲しいと、願ったんだ」
「だから、こんな、仕事に……?」
こくり、と頷きが返ってくる。聖杜の身体が震えた。
その様子を見て、フフッ、とウィルソンが笑う。
「気にしなくていい。これは私のワガママだよ。あの子は助からないと分かってて、自分の運命を受け入れているんだから。それを引き留めようとしている私が、浅ましいのだ」
「そんな! ……そんなの、ワガママじゃないよ! あんたが生きて欲しいと望んだんだろ? きっと娘さんも、生きたいって、思ってるはずなんだ!」
だから。
だから、と聖杜は言った。
「ウィルソンがそんなこと言うなんて、悲しいよ。あんたの思いは自然で、純粋じゃないか……」
涙が溢れたのは何故だろう。同情か、憐憫か。いや、これは悲哀だ。聖杜は彼に、彼らに、ごめんなさいと、言わねばならない。そう思った。
しかしその言葉は、ウィルソン本人が、言わせてくれないのだ。
「ありがとう、聖杜。その言葉だけで充分だよ。私にはもう、どうしようもないんだからな」
「そんな……!」
諦めてしまっているのか、彼は。それは悲しいことだ、でもそれこそが彼の表情の、悲しい笑顔の真実なのかもしれない。
「ライアンと、呼んでくれ、聖杜。私はお前を友と思っている。人生で最後に出会った、友人だ」
聖杜はもう、頷くことしかできなかった。
「ライアン……ありがとう」
戦ってくれて、ありがとう。そう言った。
彼はただただ、微笑を深くしただけだ。
「さようならだ、聖杜。お前は大切な女の子を護るんだろう。二人を取り返しに行くんだろう。なら、もう時間はない」
「うん……さようなら、ライアン」
聖杜は深々と頭を下げた。尊敬すべき男への、感謝の念を振り払うかのように。
「行け。行って、そして、生きるんだ。三人で、これからの人生を、大切に過ごせよ……」
もう掠れてしまったウィルソンの声。目が見えないのか、彼の瞳はすでに焦点が合っていなかった。弱々しい姿だが、それでも誇りに満ちた彼に、聖杜は背を向ける。頭を切り替えて、地を蹴った。
月に近いこの山頂で、息絶えようとするライアン・ウィルソンを手にかけたことへの罪悪感は、聖杜に傷の疼きとは別の涙を誘った。
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