第六章②
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分からない。
何もかもが、分からない。
由梨花は今の状況を何一つ飲み込めず、混乱し続ける思考の中で、その複雑すぎる問題に、呆然としていた。
考えることが多すぎて、逆に何も考えられない状態に陥ってしまったのだ。
(どうして? なんで? こんな、こんな事になっちゃったの?)
信じられないのだ、全てが。武装集団に拉致されたことも、こんな所に連れて来られたことも、人が目の前で死んだことも、山道を歩かされたことも、ここに座らされていることも、目の前にラテン系の男がいることも。
それに――
(お兄ちゃん……あれは、お兄ちゃんなの? 本当に、お兄ちゃんが、たくさんの人を手にかけていたの?)
先程から、渦巻く疑問は同じだった。映像に映った聖杜の姿がフラッシュバックされる。色は無いが鮮明だったその画面は、まるで現実感が無くて、造られた物にしか見えなかった。冗談としか思えなかったのだ。
(お兄ちゃんが人殺し……。平気で誰かの命を、奪って、た)
視界が歪む。頭が痛む。喉がひりつきそうで、涙を堪え、嗚咽を必死に抑えて、ただ地面だけを見詰め続けていた。
「あいつら、そろそろ奥についたかね?」
目の前の男、マルコが口を開いた。日本語を使っていることから、それは由梨花に対しての問いかけなのだろうが、彼女には答えるつもりは無い。
そうだ。と、思った。
由梨花の心配事は聖杜だけではない。山肌に空いた石造りの入り口、この中へと入って行ってしまった義理の妹の存在。不思議な光に導かれ、まるで熱に浮かされたような足取りで、暗黒の先へと歩いていってしまった杏子のことも気がかりだった。
(杏子ちゃん……、せめて、無事でいて!)
これは由梨花の心底からの願いだが、ここから動けない彼女には、祈ることしかできないという歯痒さがある。
しかし、もう由梨花の心は折れているのだ。聖杜のことでショックを受け、杏子の行動で混乱し、神経が疲れ果ててしまっている。もう男たちに反抗する気力は残っていない。
黙りこくる由梨花を見て、マルコは別の話題を振ってきた。
「侵入者――あのガキは、何者だ?」
ビクリ、と肩が震えた。その様子を見て、マルコがさらに言葉を紡いでくる。
「やっぱ知り合いだったか。お前らを助けようとしてるんだろ? よっぽど大切な誰かなんだな」
揶揄するような言葉。皮肉な嘲りを含んで、由梨花の反応を楽しんでいる。
背中に浮く汗の冷たさを堪えて、由梨花はグッ、と瞼を閉じた。
ふん、とマルコが息を吐く。
「お前、さっきのやり取りを完全には理解して無いだろ? いい機会だから教えてやるよ。あの侵入者はな、『ハインドの悪魔』って呼ばれてる、裏の世界では有名な工作員だよ」
「………………」
「そいつが出てきたのは2年前の一回だけだがな、その時にかなりの事をやらかして、すっかり伝説になっちまった。これまで全く姿を見せなかった悪魔がこんな所に現れたって、皆が大騒ぎしてたわけさ」
「…………いたの?」
饒舌に、愉快そうな笑みを湛えて話すマルコとは裏腹に、由梨花の心はどんどんと冷めていく。呟くような小さな声を出した時、マルコが言葉を止めて、眉根を寄せた。
「なに?」
「その人は、これまでも人を、殺していたの?」
顔を上げた。悲しみに揺れる瞳、震える唇。しかし毅然と力を込めて、その疑問を、男にぶつけた。
面食らったようなマルコの表情が、不気味に歪み、唇が吊りあがった。
「ハハ……、いいね! いい表情だ、お嬢ちゃん。そんな顔されると俺、テンション上がっちまうぜ!」
興奮した様子で立ち上がり、早足で由梨花へと近づいてくる異邦人。由梨花が身を避けようとするよりも早く、その男は少女の黒髪を掴み、グイッ、と赤みのさした顔を近づけてきた。
痛い、と思ったが、眉根を寄せるだけで耐えてみせる。ギラギラとした怪しい輝きを放つマルコの瞳を、精一杯に睨み返すと、男はブルリと背筋を震わせて、歓喜に似た表情を浮かべてくる。
「ああ、殺してきたよ。あのガキはな、極東のブラック・マーケットを潰した三人のうちの一人だ。主催者も出席者もその護衛も、一回の仕事で山ほどの人間を殺してみせたのさ」
(ああ、やっぱり……)
由梨花の悲しい気持ちが膨れ上がった。しかしそれはもう、理解していたことなのだ。確認であり、諦めであった。だが、その事実を確認してしまったことが、もっと大きな悲しみをもたらしてしまった。それは心の痛みだ。
気落ちして視線を伏せた時、マルコがつまらなそうにフンッ、と鼻息を吐いて、由梨花の髪から手を離した。数本が千切れた感覚が痛覚を刺激するが、それよりも精神を支配する諦観のほうが、大きい。
「ハッ、なんだよ。嬢ちゃん、『ハインドの悪魔』のこと、ホントに何も知らなかったんだな。この平和な国でどれだけ甘い生活をしてきたのか知らないが、そんなことでショック受けるとはね。あんたにとって悪魔がどれだけ大切な人間なのかは分からんが、裏切られた、なんて思ってるんじゃないだろな?」
信じられない、とでも言うような大仰な仕草で肩を竦めるマルコの、呆れたような言葉が胸に刺さる。確かに、その時に由梨花の頭の中に浮かんだのは、『裏切り』という言葉だったのだから。
続くマルコの言葉には、皮肉の色が濃く反映されていた。
「本当に、そんな風に思ってるんだったら、まぁ安心しなよ。今、ライアン・ウィルソンが山の頂上で当人と戦ってるはずだ。ライアンはトップ・クラスの暗殺者だ、あんたのその気持ち、しっかりとカタキを取ってくれるはずさ」
言って、ハハハッ、と可笑しそうにお腹を抱えたマルコに、キッ、と視線を向けた。聖杜が死ぬ――そんな言葉、どんな状況に陥っても、聞きたくは無い。許せない。
憎しみを込めて睨む由梨花の、その視線にマルコが笑い声を引っ込めた。そしてゆっくりと由梨花との距離を詰めると、睥睨するように彼女を見下ろし、嘲笑を浮かべる。
「いいねぇ。そういう顔もソソるよ。堪んなくなる、今すぐお前を壊したくなってくるよ」
舌なめずり。異常な雰囲気を身に纏ったその男の、その不気味な気配。だが由梨花はそれに気圧されず、一歩も退かず、立ち向かおうとする。
(許せない、私の大切な人を、大切なものを馬鹿にしようとするこの人を、私は許せない!)
その時の彼女に、果たして何ができたのか。それは分からない。
だが、その一触即発の空気は、ハッ、と振り向いたマルコの視線で、終わりを告げた。
この場所に入る時に通った細い山道から、歩哨にいた兵士の悲鳴が聞こえたのだ。続いて銃声が響き、二人目の兵士の断末魔も響いて、一瞬の沈黙が降りる。
「まさか、……ベントが突破されたのか!?」
マルコが呻いた、その直後に山道から影が飛び出してきて、その小柄な少年が、由梨花へと視線を向けた。
由梨花が息を呑んだのは、その少年がやはり、紛れもなく彼女の想像通りの人物だったからだ。
細く未整備のその道を望みつつ、聖杜はその左手側、木々が生い茂る斜面の方を、木の葉の間を縫う様にして駆けた。
足音を最小限に抑えるために空中を疾駆し、出口が見えた付近で、見張りであろう兵士へと直角に進路を変える。相手がこちらを見つける前に、上空から接近した聖杜は、そいつを横合いから刺し貫いていた。
ほぼ落下するような勢いで男を絶命させ、刃を引き抜くと同時に地に足をつける。ぐらりと傾いだ死体の向こうで、もう一人の兵士の呆気にとられたような表情を見たが、その時には聖杜はすでに身を屈めていた。数歩で距離を縮めて刀を振りかぶるのと、男が引き金を絞り込んだのは同時だっただろう。セミ・オートの射撃音が木霊するも、その弾丸は聖杜の遥か後方で土煙を上げ、下段に構えた刀が振り上げられて男の腕を切り裂いた。
「あ、……うわあああああああああああああっ!?」
断末魔。返す刃で胴を裂かれ、声は無残に途切れて消えた。身体を捻った慣性で左腕が大きく振られ、布で無理に塞いだ肩と腹の傷口からは赤が滲む。だが聖杜はそれを無視して、細道を飛び出し、開けた場所へと身を躍らせる。
視界が開けた瞬間に目に入ったのは、こちらに驚いた瞳を向ける、彼の愛しい女の子の姿だったのだ。
(由梨花っ!)
憔悴してこそいるが、見た限りでは傷や痣などが見当たらない、そんな少女の姿に、聖杜は歓喜の叫びを上げそうになった。実際に彼女の名前を口に出さなかったのは、そのすぐ横に立つラテン系の男の存在を警戒したからである。
聖杜が着地の屈伸から直立状態へと移行した時、驚愕に顔を硬直させていたその男もまた、気を取り直してこちらへと身構える。
その男の身体から、気のオーラが色となって立ち上ったのが、見えた。
「よう、よく来たな。お前、ハインドの悪魔だろ」
男の口から発せられたのは、やや訛りがある程度の日本語だった。聖杜が目を細めたのを見て、余裕ある笑みを口角に浮かべる。
こいつには見覚えがあった。筋肉質の体格、彫りの深い顔立ち、人を小馬鹿にしたような光を持った瞳。昼間、駅の構内で聖杜が気絶した時に、目の前に立っていた人物。そして、かつて和杜が教えてくれた要注意人物の中の、一人。
マルコ・シモーネ・チェーザレ。残虐な性格をしたイタリア出身の暗殺者。何者にも容赦なき快楽殺人者だと、同業者すらも敬遠する存在だ。人は彼をビッショーネ、つまり大蛇と呼んで畏怖している。
「変温動物、か」
吐き捨てるように、聖杜は、そう言った。
マルコの瞳が愉快そうに輝く。
「知ってんだな、俺のこと。なら俺の能力も知ってんだろ?」
知っている。彼の輪技は、能力範囲の熱量を自在に操る特殊なもの。昼の聖杜は彼の力によって、極低温状態まで体の熱を奪われ、行動不能になり意識を失ったのだ。そしてマルコの能力は、人を殺傷できるほど強大な威力を持っていると言われている。
聖杜の眼光が鋭くなったことを受けて、マルコが満足そうな表情を見せた。そして隣の由梨花を顎で示し、
「なら話は早い。この嬢ちゃんは人質だ。お前が俺の言う事を聞いたら、この嬢ちゃんには何もしない。だが少しでも逆らう素振りを見せたら、この嬢ちゃんの顔を焼くぞ。だから下手に動くなよ」
何でもないような口振りで、マルコは脅し文句をかけてくる。ビクリ、と由梨花が全身を震わせたのを見て、聖杜は奥歯を強く噛んだ。
フッ、とマルコが侮蔑にも似た鼻息を吐くと、
「この嬢ちゃんはお前にとって大切な存在なんだろ? かけがえのない人間なんだよな、だからここまで追いかけてきたんだ、そうだろ。だったら大人しく言うこと聞けよ。この娘の可愛い顔が、ジワジワと爛れて醜く歪み、見る影もなく変身しちまう姿は、見たくないだろ?」
マルコの気が増幅した。青く立ち上るそれは、しかしマルコに近づくにつれて色を濃く変え、黒となる。それは彼の本質を表しているのだ。冷たく醒めた心の奥に、明確な悪意が沈殿しているのである。性根から狂っている、と感じた。マルコの瞳に宿る興奮は、明らかにこの状況を楽しんでいるからだ。
ガッ、と刀を地面に突き立てる。それは聖杜なりの、降伏のサインだ。だがマルコは一瞬だけ眉根を寄せた。動くなと言ったはずだ! と一喝してくる。
「……すまない」
「次に下手したら、嬢ちゃんから煙が立つぜ。頬が煤けて、香ばしい匂いが辺りに漂うんだ。食欲をソソるステーキの香り。最高だね」
クハハハハッ、と愉快そうに、マルコが笑った。自分の言葉にすらここまで反応するのだ、その姿は箍の外れた狂人そのものだった。
チラと由梨花の顔を見ると、マルコの青と黒の気が纏わり付く中で、彼女は蒼白な顔で、血の気を失った唇を堅く結んでいた。全身を小刻みに震わせながらも、恐怖に懸命に耐える少女に、聖杜は心を痛めた。
「ハハッ……。さぁて、と。んじゃそこを動くなよ」
目尻に浮いた涙を拭う動作をして、マルコが笑いを抑えて背中に手を回す。そしてドイツ製の小型自動拳銃を聖杜に向けて、狙いを定めた。
「安心しろや。お前が死んだら、この嬢ちゃんはまぁ、殺しゃしねぇよ」
「…………!」
男の歪んだ笑みを見た時、聖杜は、自分の怒りが灼熱に変わったことを知る。
マルコが人差し指に力を込めた。
その瞬間に、聖杜は引き金と銃身の間の空間を凝固させる。トリガーが引き切らずに止まったことで、マルコが驚愕に表情を歪めた。
聖杜は右手を動かしていた。地に突き立てていた刀を抜いて、その円運動で投擲。勢いのついた刃が回転しながら軌跡を描き、その刃先が瞬時にマルコの喉元を貫通する。
「……………………ッ!?」
スルリ、と滑り込んだ刀に目を見開いて、マルコの肉体が痙攣し、パクパクと数回だけ口が動いて、そして後ろに倒れこんだ。彼の周囲を取り巻いていた気が消失し、その鼓動が完全に活動を停止して、瞳の色がドロリと濁る。
彼の命が消えたのを確認して、由梨花に取り付くように渦巻いていた青黒の気が晴れていることに安堵し、聖杜は小さく息を吐いた。
(良かった……)
由梨花に異変は無い、と思えた。だから、少しだけ気を抜いて、素早く視線を走らせながら、マルコの遺体に近づく。
男の首から生えた白木の刀。その柄を掴み、マルコの身体を踏みつけてから、刃を引き抜く。ズルリ、と抜き出た刀身と共に、生気を失った頭が少しだけ浮いて、抜け落ちてからまた、小さく地面に跳ねた。コトン、と衝撃がして顔が違う方を向く。
「――――――ッ」
息を呑む音が聞こえた。ハッ、として振り向くと、由梨花が口元を手で覆って、大きく見開いた目でマルコの後頭部を見つめていた。
「由梨花っ!」
様子がおかしい――そう感じた瞬間、弾かれたように少女へと足を向ける。茫然自失としたような表情に、焦燥感が増したのだ。
まさか、何かされたのか――?
不安が全身を貫いて、聖杜は由梨花の肩へと手を伸ばし、掴んだ。その衝撃で、ハッ、と由梨花が聖杜に焦点を合わせ、次の瞬間、
バシッ
肩に置いた聖杜の手が、由梨花によって、弾かれていた。
「ゆ、由梨花……?」
困惑。何が起きたのか分からず、ただ、叩かれた右手が訴える小さな痛みだけ、感知している。
由梨花は酷く悲しい表情をして、何かを言おうとするかのように数回、口を開いてから、堪えきれないように顔を伏せた。彼女の肩が、背中が、小刻みに震えていたが、それを抑え込むようにギュッ、と身体を抱いて、再び顔が上がった。
キッ、と聖杜に向けられた瞳は、今まで見たこともないほど鋭く睨みつけられていた。引き結ばれた唇、凛とした雰囲気、彼女の全てが、何かの決意に彩られている。その姿、美しくも厳しい眼光に、聖杜は、怯えた。
「貴方は……っ、だれ?」
滑り出た言葉。それでも、詰まってしまった、声。震えた声音で響くそれは、悲しみだった。
「あなたは……誰なの?」
涙を湛えた少女の瞳。真っ赤な目が、その視線が訴えるのは、正しく悲しみだろう。由梨花の言葉は、衝撃であり、悲哀であり、そして、寂しさなのだ。なぜなら、聖杜は、その声に動けないのだから。
(な、に――?)
だれ、と、由梨花は言った。
それは、質問、なのだろうか。
聖杜の視界が歪み、撓み、霞む。分からないから。そして、辛いから。聖杜の世界が衝撃に揺さぶられているから。
何のことか、分からない、から――
「…………えっ?」
聖杜の口から出たのは結局、吐息にも似た、そんなマヌケな疑問符だけだった。
だがその瞬間に、由梨花の瞳は震え、潤んだ涙が更に盛り上がり、彼女の興奮を伝えた。その表情は怒りだ。怒りに突き動かされたことで、静かな口調が、俄かに熱を帯びてくる。
「あなたは、……あなたはお兄ちゃんじゃない。優しくて……頼りなくて、でもすごく安心する、私の大好きなお兄ちゃんじゃ、ない!」
ハッキリとした口調だった。決然としたその声音には、彼女の意思が詰まっているのだ。だからこそ聖杜は混乱する。由梨花の言葉が受け止めきれない、いま現在のこの状況が理解できない、頭が全く働いていないから。
「なっ――!」
「だって、だってそうだよ! 私の知ってるお兄ちゃんは、私に優しく笑いかけてくれるもん! 私をゆっくり撫でてくれるもん! 私だけじゃなくて、周りの人みんなの幸せを願ってくれる、穏やかな、繊細な、ホントに優しい人だもん!」
いやいやをするように首を振り、瞼をキュッ、と閉じて、スカートの裾を握り締めた由梨花。零れそうな涙を湛えた瞳が再び聖杜を見据え、クシャ、と歪んだ彼女の表情が、感情が、言葉を吐き出し続けた。
「今の、あなたのような……血に塗れて、人を簡単に殺して、死んだ人をなんとも思ってないような風に――、あの人たちと同じように、そんな険しい顔で、雰囲気で、誰かと戦うような人じゃ、ないよ! お兄ちゃんは。……私の、好きな、人は」
沈黙が、降りた。聖杜は言葉を発せなかった。由梨花の言葉が滑り込んで、頭の中を駆け巡っていたからだ。由梨花は堪え切れなかったようで、頬に伝う涙を隠そうと、泣いた顔を伏せて、ただひたすら、嗚咽が漏れるのを我慢している。それでも時折、うあ、あぁっく、と小さく聞こえてくる声は、聖杜には大鐘のような威力を持った衝撃音に感じられた。
(……由梨花?)
なんで、泣いてるの、と思った。いや声に出そうとした。しかし、カラカラに渇いた喉は、ひり付いて音声を作り出せなかった。だから聖杜は、自分を見下ろして、自分の姿を見詰めなおしたのだ。
――血、
彼の手は、どす黒かった。
――血に、塗れて、いる
由梨花の言ったとおりだ。聖杜の全身には、先程まで手にかけた多くの人間の返り血が、乾いて変色した人間の血液が、所々に付着しているのだ。
(人を……殺、す)
人を簡単に殺して……殺した人を、なんとも思っていない、と。由梨花は言った。聖杜に向けて、そう言った。聖杜は何も考えずに彼らを殺した。その行為に疑問なんてなかった。
グラリ。膝から力が抜けて、視界が急激に揺れてしまう。反射的に刀を地に突き立てて、崩れたバランスを補った。身体を支えた刀に目をやって、その頑健で美しい刀身が、人の油と体液で汚れている事にも、気付いた。
「……あっ……」
短時間に、何十人もの人を斬った、その刃。強靭に鍛えられたはずの刃先はボロボロに零れ、本来の切れ味が損なわれた白銀の刀は、まるで聖杜に人殺しを実感させようと訴えているかのように映る。聖杜はそれを感じた瞬間、人の命を奪った時の感触を思い出し、おぞましい感覚を掌中に回帰させて、濃密な吐き気が込み上げてきた。
「………………っ!」
立ち上った胃液が口腔に押し寄せる。左手で口を押さえると、気持ち悪い塩酸の味が舌を刺激し、思わず吐き出しそうになったのを懸命に堪え、無理矢理に嚥下して身体の中に押し戻した。
はあ、は、はぁ、と荒い息をついて自分を落ち着けようともがく。脂汗の浮いた顔を手で拭い、眉根を寄せて悪寒に耐えて、瞼を閉じて深呼吸を一つ。
「ねぇ、聖杜くん」
由梨花の声に、バッ、と顔を上げた。
「私ね、あの人たちに、聞いたんだ。……聖杜くんが、今日よりも前に、沢山の人たちを殺してきた、て」
彼女は未だ俯いたままだった。だがその声は決然として、冷静さを取り戻しているように見える。表面上は。
「その話を聞いてから……ううん、聖杜くんがこの山に来て、人を殺してしまっているって知った時から、ずっと、考えてたんだ」
由梨花の声は悲しみに包まれていた。そう感じたとき、由梨花はまだ落ち着いてなんていないんだ、と気付いた。彼女はまだ混乱したままで、それでも一生懸命に、話している。
「私、あなたの笑顔が大好きで、ずっと魅き込まれてた。優しくて、無邪気で、裏表のない……少しはにかんだ、純粋で、綺麗な笑顔だなって、ずっと、思ってたんだよ。そんな聖杜くんが大好きで、お兄ちゃんになった後も、ずっと、笑顔を向けられるたびに顔が熱くなって、幸せな気持ちになれるのが、嬉しかった……」
旋律のようだ。由梨花の声は儚く、弱々しく、彼女が今にも消えてなくなってしまいそうな、そんな響きに満たされていた。聖杜に訴えかけるのはその言葉だけではない、か弱い声音すらも、彼の焦燥感を掻き立てる。
「優しいって、そう信じてた……聖杜くんは絶対に、暴力を肯定するような人じゃないって、ずっと、信じてたんだぁ……。でも――っ、でもね。聖杜くんが人殺しをしてて、それで平気な顔をしているんだって、それを知ったら、ね。私、あなたのこと、分からなくなっちゃった……分からなく、なっちゃった、よぉ」
また、涙が、溢れたのだろう。彼女の掌に水滴が落ちた。震える肩を懸命に抑えるように、しゃくり上げながら、由梨花は、勝手だよね、と言った。勝手だよね、私、と。
「自分であなたのことを勝手に想像して……それで、本当のあなたを知って、裏切られた、なんて思ってる。ごめんね、聖杜くん。私、すごくイヤな女、だよ」
でもね――
沈黙が、一瞬だけ、降りた。由梨花が戸惑ったのだ、その先の言葉を。その瞬間の空気がとても重苦しくて、悲しみに震える由梨花がとても切なくて、聖杜の胸が大きく軋む。
由梨花が顔を上げた。涙でクシャクシャに汚れた顔、その真っ直ぐな眼差しが聖杜を捉え、射竦められたように、聖杜の身体が固まった。
「聖杜、くん……私、あなたの笑顔を、どう考えていいのか、分かんないよぉ……。あなたの優しさが、純粋さが、本当なのか、それを、……疑って、しまう、よぉ」
最後まで言って、その後は、くず折れた。由梨花は両手で顔を覆い、ただただ俯いて、悲嘆にくれていたのだ。
うぁ、あう、うう……。由梨花が抑えた声で泣く。その喘ぎを聞きながら、聖杜は、自分の世界が歪んでしまったのを意識していた。
目の前の光景が、まるで数種類の絵の具が混ぜ合わされたかのように、ゴチャゴチャになっていたのだ。平衡感覚なんて分からない、上と下すら判別できない、左右前後に世界が揺れ動いているかのようだ。自分がいる場所が分からなくなり、立っているかどうかも怪しくなる。ただただ廻る世界が気持ち悪くて、それが、自分の今の心の状態なのだ、と思った。
由梨花の言ったことがショックだった。心がバラバラになりそうなほど、衝撃を受けたのだ。
(ああ、そうか)
渦巻く思考の中で、ポツン、と考えた事がある。
(ボクは、人殺し、なんだなぁ……)
そんな事を意識したのはいつ以来だろう。今日まで忘れていた罪悪感であり――今の今まで考えもしなかった、当たり前の事実。だがそれを、明確に思い出してしまったのを、聖杜はとても悲しく感じた。
ボクは、悪いことをした人間なんだ。その事を再び実感してしまった。あの時のように。
浮遊感にも似た不快な気持ち、方向感覚が分からなくなってしまった視界の中で、鮮明に映るのは、肩を振るわせた女の子の姿だった。
由梨花――
聖杜の一番、大事な人だけが、見えていた。
由梨花――!
大好きな、愛おしい女の子が泣いている、その光景に胸が締め付けられる思いを抱いた。
「……由梨花」
声を出してようやく、聖杜は現実に帰ってきた。急速に元に戻る視界の中で、自分がまだ立っていることを意識して、改めて少女の小さな身体を見詰める。
「――ごめん」
ついて出たのは、そんな言葉だった。そして、自分の弱々しい声を聞いて初めて、全身が震えていることに気付いた。聖杜もまた、泣いていたのだ。
「ごめんね、由梨花……」
何に対して謝っているのか。人を殺したことか、それを黙っていたことか、それとも由梨花の期待を裏切っていたことなのか。
いや違う、そうではない。聖杜は、由梨花を泣かせてしまったことが悲しくて、彼女の涙が悔しくて、ただただそれが嫌だから、謝っているのだ。
由梨花は顔を上げてくれなかった。その様子が悲しくて、聖杜は涙を拭うと、もう一度、口を開いた。
「ボクは確かに、人を大勢、殺してきた。……最初は2年前、ロシアで、和杜兄さんの仕事に協力した時だ」
言葉が痞えた。涙が声を出させてくれない。落ち着くために深く息を吸い込んで、吐いて、それからまた喋りだす。
「その後は、兄さんの仕事には協力しなかった。出来なかったんだ。父さん達の反対があったのもそうだけど、……ボク自身が、人殺しに耐えられなくて、ずっと引き摺ってたから。ボクにこういうのは向いてないって、皆、諦めたんだ」
仕事中は、人を斬ることに冷静だった。初めてのこととは言え、それまでの訓練から、形式どおりの動きをこなす事が出来ていたのだ。戦闘の興奮もあるし、死ぬ事への恐怖心だってあった。それが道徳観を鈍らせたのは事実だろう。
しかし全てが終わって、その惨状を目にした時、聖杜は殺人を実感したのだ。人の命を奪うこと、それを理解し、罪悪感に狂いそうになった。日常を取り戻すまで精神が不安定だったが、克服できたのは周囲のサポートと、学校でのありきたりな日々のお陰だろう。
「ボクはもう、人殺しなんてしたくなかったんだ。でも、重成が死んで、感情を抑えられなかった。そして、今回、杏子と由梨花が攫われて……許せなかったんだ、大切な人に危害を加えようとする奴らを」
これはもはや、言い訳であった。未だ俯き、嗚咽を我慢し続ける由梨花に許しを請う為の、情けない言い訳なのだ。
しかし、それでも聖杜は喋らなければならなかった。今のこの自分の姿がどんなに惨めであろうと、どれだけ無様であろうとも、由梨花に自分の言葉を伝えねばならない。大好きな人に、大切な少女に、聖杜の気持ちを分かって欲しいから。
「由梨花、ボクは……君が好きだ。大切なんだ、何者にも代え難いほど! ここに来るまで、君の事を考えると、胸が苦しくて、何もできなかった自分が悔しくて、その思いを振り払う為に、必死になってた。心配で、切なくて、ただただ前へと進んだんだ!」
ありったけの想いを込めて、まるで叫ぶように、由梨花へと言葉を送る。それに一瞬だけ大きく身震いした由梨花だが、その視線はこちらを向いてはくれなかった。それが悲しくて、聖杜はもう一度、口を開いて、しかし言葉が続けられない。少女の寂しそうな姿に、頭の熱が冷めて、これ以上は無意味だと思えたのだ。
もう、聖杜の気持ちはぶつけたのだ。あとは由梨花が答えを出すのを待つだけだと、そう思った。だから一つだけ、大きく息を吐くと、自分の成すべき事へと切り替える。
「ボク、行くよ」
ポツンと、そう言った。
「杏子を迎えに、行って来る。これはボクにとって、今回の事へのケジメだから」
そう、ケジメだった。杏子の家族が襲われてから、今日までの、様々な出来事。それらを終わらせなければならない。なぜならそれが、重成の親友として、彼に出来る最後の行いだと思えたからだ。
「杏子を助けたらさ、三人で家に帰ろう。由梨花、杏子と仲良しになったんだもん。きっと父さん達も帰ってきてる。そしたら家で、皆でただいまって、お帰りって、言い合おうよ」
だって――
(だってボクたちは、家族、なんだから)
最後だけは声に出さなかった。由梨花はきっと分かってくれるから。それだけを信じて、聖杜は義妹に背を向ける。
ふっ、と視線が届いた。由梨花が顔を上げてくれたのだろう。そのことに少しだけ喜びながら、しかし聖杜は振り向かなかった。
すでに痛みすら伴う脚、その疲労を無視して、聖杜は里へと駆け出した。そこにいるもう一人の義妹を迎えに行く為に、そして今回の事件の決着をつけるために。
5
そこは広い場所だった。
周囲は山に囲まれて、起伏に富んだ緑豊かなその土地は、完全に外界から遮断された場所だった。空気が薄くて星空に近く、相当の標高にあるのだろうとは想像できるが、それが先程の山から続いているとは信じられないだろう。事実、ここは陸路でも空路でも、どんなに探索したところで、朝尾山周辺から行き着ける場所ではないのだ。
宙水の里。かつて泉軍と呼ばれた忍者集団が生まれた土地であり、その一族が暮らしていた秘境である。今は誰一人として住んではいないこの里も、人々の生活を物語るように、朽ちた家々や荒れた田畑が、濃い緑の中に散見された。
長く暗いトンネルを抜けて、この里に踏み入れた七人は、入り口の近くで辺りをキョロキョロと見回していた。突如として開けた視界、この幻のような光景に、半ば呆然としているのだろう。
その中にあって、蒼い光に包まれた少女は、その思考がゆっくりと戻ってくるのを感じていたのだ。
(ここは……)
杏子は全てを理解していた。この場所に呼ばれたことを、その声が囁いた自分の記憶を。
(懐かしい、場所)
そっ、と瞳を閉じて、ここの空気を静かに嗅いだ。濃密な緑と、不思議と漂う澄んだ香り。充満するのは気の匂いだ。神聖で、郷愁を誘う、この故郷の力の空気。
(私の、居る場所)
そう、ここは――
(私の、生まれたところ)
ここは杏子の、母がいる場所なのだ。
そっ、と。彼女の頬に水滴が伝う。流れた後に気付く涙、その熱く悲しい感情の発露は、何よりも杏子の心を表していた。
彼女は全てを、理解したのだ。
足が重くて。だがそれを止めることは出来なかった。傷が痛くて。重い身体は、気力を振り絞って動かしていた。
全速力で駆け抜けた里への入り口。気の同調が、このトンネルを短くしてくれることを、聖杜はすでに知っていた。一族だけが許された秘術を使っても、心身ともに傷だらけの彼には、その道のりは途轍もなく長く感じられる。
だから足元が草に覆われた瞬間、月の光に身を晒した時には、疲労で霞む視界を、頭を振って無理に正常へと戻したのだ。
息が上がって呼吸が苦しい、バクバクと脈動する心臓が痛いほどで、筋肉は引き攣って全身を痺れさせている。そこかしこの傷口はすでに感覚がなく、ただただ激しい圧迫感に、気を失いそうなほど疲弊していた。
ハァ、ヒュー、ハァ、と切れた息を整えている聖杜の耳に、一際大きな高笑いが響いてきた。
「ここが! この場所が、夢見た秘境か! ウハハハアハァッ! いいぞ、遂にここまでやって来たんだ!」
聖杜は顔を上げて、声の主を確認した。この先、数メートル程の距離。六、七人ほどの異邦人たちが固まる場所がある。ロテンの制服に身を包んだ男たちの中で、スキンヘッドの中年男性を確認した。
「よおっし、娘! ワシを花に案内しろ! 夢の薬を、ワシに見せてみるんだ!」
そいつが、セバスチャン・シェーファーが後ろを向いた少女の肩に手をかけた。それを見た瞬間に、聖杜は全身の筋肉を緊張させて、瞬時に思考を切り替えて見せた。
「おまえぇぇっ!」
叫ぶ。咆哮と同時に駆け出して、刀を構えて目標を見定める。
ギョッ、としてこちらを振り向いた男たちだが、シェーファーはヒップ・ホルスターから拳銃を抜くと、焦ったように聖杜ヘ向けて引き金を押し込んだ。ダン、と乾いた音が木霊して、聖杜は射線を見極めながら右へとステップする。
だが、その直後には足を止めねばならなかった。シェーファーがヘッケラー&コックの銃口を杏子へと向けたからである。
「お前……ハインドの悪魔、か?」
信じられないものを見るように眼を広げるシェーファーだが、すぐに気を取り直したのか、あの役立たず共め、と毒づいた。
「武器を捨てろ、小僧。この娘はまぁ、もう用無しなんでな。撃つのに躊躇いなんて期待できんぞ」
脅しの文句は英語だった。内容が理解できるだけに、その言葉が真実であると思えて、聖杜は強く奥歯を噛んだ。
右手の刀を横に落とす。痛む肩を無視して手を挙げて、自分が無力だということをアピールした。
「よし。こっちに来い」
シェーファーに促されて、ゆっくりと彼に近づいていった。兵士たちのライフルを一斉に向けられながら、緊張感の中、目の前まで進む。
下卑た笑いを浮かべたシェーファー、その面を憎悪の瞳で睨みつけてから、聖杜は杏子に視線をやった。
「杏子……」
大丈夫か? と聞こうとした時、その上からシェーファーの声が降ってくる。
「ここに来たと言うことは、ウィルソンもチェーザレも破られた、という訳か。まったく、高い金を出してまで損をするとは、思わなかったわい」
彼の言葉は、耳に入ってはいなかった。聖杜はただ、未だ背を見せ続ける少女へと、視線を奪われ続けていたのだ。
「あの二人も口ほどではなかった訳だ。噂なぞ頼りにするもんじゃないってことだな」
呆れたような毒づきと、兵士たちの嘲るような苦笑の唱和。その中で、ジッと、肩を震わせ続ける杏子の、ただならぬ様子に聖杜は胸騒ぎが大きくなるのを感じていた。
「杏子……?」
もう一度、少女の名前を呼んだとき、彼女はふっとこちらを向いた。
「聖杜、くん……」
涙に濡れた杏子の顔。その、大きな悲しみを湛えた瞳が、聖杜を捉えた。
「わたし、の、せいで……お兄ちゃんや、お母さんが……、お祖母ちゃん、お父さんも、みんな、死んじゃった……」
「――――――!」
「家族、みんな……私のせいで、死んじゃったんだ、私がいたから、だから死んじゃったんだ、よ、お……」
慟哭は、彼女が理解してしまったから、起きたのだ。家族の死を、その理由を理解してしまった時、あの時の悲しみを、杏子はその寂しさを、より大きくして思い出してしまったのだ。
(あっ……)
瞬間、頭に血が上ったのが、自分でも分かった。だがそれ以上に、杏子の涙が、その訳が、聖杜には重くて、呆然としてしまう。怒りがある。だが杏子がそれを知ってしまったことへのショックも受けてしまって、聖杜の思考が停まってしまったのだ。
そんな、という思いだけが先行した。
(杏子……!)
彼女が真実を知って、その心情を思ってしまったから、聖杜は辛いのだ。杏子は自らを責めているのかもしれない、それが悲しくて、嫌で、だから泣いているのかもしれない。そう考えられたから、心が張り裂けんばかりに荒れ狂い、混乱してしまっている。
「ハインドの悪魔を始末しろ! そして、ロテンの名声を世に知らしめい!」
シェーファーの号令が、頭の中に入り込んだ。だがそれは音声記号でしかなく、意味を解釈することなく、音が響いて霧散する。兵士たちが一斉にG36を持ち上げて、ライフルの照準を聖杜の身体に合わせても、彼はそれに気付く事も出来ずにいたのだ。
兵士たちが声を上げた。発砲と殺人、そして名声への欲望に対する興奮に彩られた歓喜だろう。それが周囲を満たした時、しかし聖杜が感知したものは、たった一つの気配だった。その人が里の入り口に立っている、だから視線をそちらに向けた。
「中村、聖杜――――っ!」
それは必死の叫び声。切れた息で、掠れた声で、精一杯の音量を響かせて。しかし彼女の声はどこまでも透き通っていて、美しい響きを持って、聖杜の耳に届いてくる。
その場にいた全員が、虚を付かれた様に視線を引っ張られていた。その先、岩戸の門のすぐ近くに膝をつけた由梨花が、額に大粒の汗を浮かべながら、必死に声を出していた。
「しっかりしろーっ! 杏子ちゃんを助けて、それで皆で帰るんでしょう!? ならボーッとしたまま停まってないで、早くその子を救ってよ!」
(あっ……)
由梨花の瞳は、真っ直ぐに聖杜だけを見詰めていた。キッと睨みつけるように、その眉を強く上げて、言葉と同時に訴えかけるその眼光は、聖杜の心に突き刺さる。
「あなたは、重成くんの親友でしょ! その仇を、討つんじゃないの!?」
重成――
聖杜の頭に、目の前で命を絶たれた少年の姿が、映し出された。その虚無の瞳が思い起こされて、もう二度とあんな光景は見たくないと、その気持ちに全身が熱を帯びる。
「なら、お兄ちゃん! そんな奴ら、やっつけちゃえ――――っ!」
ドクン、と脈動した。筋肉に力が入り、頭の中がクリアーになる。視界が晴れて、まるで重力が消えてしまったかのように、その身が驚くほど軽くなるのを、実感した。
「なんじゃあ、あの娘は? ……撃てーいっ!」
背後の男が身体を変えた。ライフルの銃口を由梨花に向けて、照準を合わせようと目を細めた時、その顔面を踵が捉える。
聖杜の身体が回転して、右足が男の鼻を押し潰していた。ぎぇっ、と潰れた悲鳴を発しながら、男が背後へ倒れこむ。地面に後頭部を強打して、白目を剥いたのを確認した時に、周囲の兵士たちが色めき立った。
「貴様……!」
目の前の男の銃身を掴むと、左手をキャリング・ハンドルにかけて、テコの原理で無理矢理に回転させた。銃床部が男の顎を下から突き上げ、仰け反ったところで腹に拳打を叩き込む。同時にG36ライフルを保持すると、重量約3.8kgの銃身を振り回し、さらに左にいた男を殴り倒していた。
くっ、と呻き声がする。近い位置での小銃は不利と判断したのだろう、自動拳銃を抜いて発砲してくる。乾いた銃声が横を擦り抜け、裾が小さく焼け焦げた。
残る兵士は三人だけ。まず拳銃を持った男にライフルを投げつける。そいつが腕でブロックした一瞬に、懐に飛び込んで肘を打ち込んでみせる。強烈な一撃を鳩尾に受けた男が昏倒し、その身体を担ぐようにして盾にしながら、男の腰からナイフを引き抜いた。
「ひっ!」
引き攣った声で奥の男が銃口を向ける。G36の5.56ミリ弾は、容易く男を貫通するだろう。舌打ち一つで兵士の身体を横に投げると、フル・オートの銃声が響き渡る。上に逃れた聖杜は、空間を足場に跳躍すると、勢いそのままに敵の頭を蹴りつけた。
ガッ、と鈍い音がしたが、威力は軽い。ライフルを落としはしたが、ふらついただけで、男がすぐに首をもたげる。ギッ、と聖杜を睨んだそいつは、逆上した目でナイフを抜くと、鋭い出足で刺突を繰り出した。
ヒュッ、と風切り音が耳元を掠める。聖杜は逆手に握った刃で男の右腕を浅く裂いて、凶器を敵から取り落とさせた。
「っだぁぁぁぁ――――っ!?」
男が腕を抑えて身悶えた時、聖杜は身体を屈めて力を溜める。ハッ、と気合い一閃、掌打を顎に当てて脳を揺らすと、タフな白人は気を逝って倒れた。
真後ろに別の気配を感じて飛び上がると、殺気に満ちた最後の兵士がG36を乱射した。ダダダダダッ、と夜闇に火線が引かれ、男の口から裂帛の絶叫が迸る。
だが、それに被さる様にして、少女の気合いも響いたのだ。
「やあああああ――――っ!」
ガッ、と鈍い音がして、男の身体がうつ伏せに倒れた。その後ろで由梨花が、太い木の枝を持ってへたり込んでいた。その疲れ切った顔がこちらへ向くと、ヘトヘトながら、笑顔を聖杜に向けてくれた。その様子に安心し、着地と同時に最後の敵へと向き直る。
セバスチャン・シェーファーは顔を青に染めながらも、拳銃を杏子に向けて、聖杜の顔を睨みつけていた。
「もう止めろよ、シェーファー。お前の計画は終わったんだ」
静かにそう、語りかけると、シェーファーは奥歯を噛み締めながら、苦々しそうに反論した。
「ふざけるな! ワシはまだまだ、負けておらん! 連れて来たクズ共が全滅しても、ワシが花を持ち帰って製薬すれば、最強の軍隊が完成する。そうなれば貴様ごとき、眼中にすらなくなってしまうわ!」
「だから、そんな事はもう無理なんだ。お前はここを出られない。『アカソラ』も『アオソラ』も、持って行くことは叶わないんだ」
「ふん、そいつはどうかな。お前が救おうとした大事な娘はここにいる。ワシの指一つが娘の運命を左右するんだ、この意味が分かるだろう? だから大人しく、ワシを花へと案内するんじゃ」
ニヤリ、と下卑た笑いを浮かべたシェーファー。その顔は確かに、諦めることを考えていない者の眼光を宿していた。
「お兄ちゃん……」
由梨花が不安そうに、聖杜を呼んだ。そんな彼女に笑いかけてやると、大丈夫だから、と唇だけ動かす。
「シェーファー、残念だがお前には無理なんだ。引き金も引けないし、ましてや杏子を殺すことは、あんたには出来ないんだよ」
「ぐっ、ぬ……!」
冷静な言葉で、脅しにも似た迫力を送る聖杜に、シェーファーはたじろぐ様に顔を強張らせる。だがすぐに冷や汗を拭うと、不敵な笑みを取り戻した。
「くくくっ、娘、右手一本は覚悟しろよ。小僧はワシの本気を見たいらしい」
拳銃を杏子の右腕に照準すると、シェーファーはより深く、その笑みを顔に刻んだ。そして親指で撃鉄をゆっくり下ろすと、人差し指に力を込めて、トリガーを思いっきり引き絞った。
引き絞った、つもりだろう。だが引き金は動かない。聖杜がその空間を固めたことで、動いてはくれないのだ。
「な、……くっ!?」
焦って拳銃をコッキングし直すシェーファー。だがその目の前には、すでに聖杜が移動していた。
「あっ……」
眼を見開いたシェーファーの、呆けた声が耳に届いた。
「重成を……杏子の家族を、あんな目に合わせやがって――お前だけは、許せないんだよ!」
右手のナイフを振り上げる。思いっきり打ち下ろして、その柄の部分をシェーファーの頭に叩き付けた。衝撃に男がもんどりうって、白目を剥いて吹き飛び倒れる。シェーファーの巨体が地面にうつ伏せ、四肢がピクピクと痙攣した。
ふうっ、と大きく、息を吐き出す。肩の力を抜くと同時に、隣の杏子へ、視線を向けた。
「………………」
彼女はその大きな瞳を、聖杜に見入るように、ジッと向けていた。
「……大丈夫か?」
コクン、と杏子が頷いてくれる。それにホッ、と肩の力を抜き、少女の頭をクシャリと撫でた。
小さく笑顔を浮かべた杏子に、聖杜もまた笑って応じる。その背後から、由梨花が彼らに近づいていた。
「お兄ちゃん……」
彼女の声に振り向くと、由梨花はシェーファーを不安そうに見ていた。その意味に気付いて、フッ、と笑いかけてやる。
「大丈夫、死んではいないよ、皆ね。気を失ってるだけだから、何かで縛っておこう」
「そうなんだ……うん、そうだよね」
安心したように顔を綻ばせる由梨花。その後でキョロキョロと、顔を巡らせた。なにか拘束具を探しているのだろう。
ドッ、と疲れが押し寄せてくる。身体中の傷口、特に肩と脇腹の大きな風の銃痕が、ジクジクと痛んできた。無理に気を巡らせて血を止めている状態だ、下手をすると意識を失いかねない感覚だが、それでもまだまだ、やるべき事は残っている。もう少し頑張ろうか、と気合いを入れたその時、服の裾がクイクイと引っ張られた。
「……なに?」
振り向いた先、杏子は遠慮がちに、上目遣いでこちらを見ている。その可愛らしい唇がおずおずと開かれると、
「このあと、行きたい場所があるの。いい?」
と、言った。
「ここに?」
「うん」
コクリと頷く少女の顔。その不安そうな表情に苦笑を浮かべながらも、聖杜は、良いよ、と言った。その返事に杏子がニッコリと綻んで、安心したように笑顔を浮かべたのだ。
6
泉があった。周囲に赤と青の花が咲き乱れる小さな泉が、里の集落から少し登った所にある森の奥に、ひっそりと水を湛えた姿で、目の前に出現したのだ。
ここが、かつてこの里に暮らした人々の聖地であり、戦国の世において一国の軍にも匹敵すると言われた忍者集団が、その象徴と崇めた場所である。
寿重が語って聞かせた、その伝説どおりに『アカソラ』と『アオソラ』が彩る、この『女神の泉』。空に近いこの場所は、夜の闇に星々と月明かりがコントラストをつけた、静謐な光景を提供してくれた。
その泉の前に、小さな影が立ち尽くす。ゆっくりと全体を見回した後で、またゆっくりと歩みを進めた。まるで何かを確認するように、いや、まるで誰かと話しているかのように、杏子はその外周を歩み始める。
少女の様子を離れた所から眺めるのは、木に凭れかかった聖杜と由梨花だ。懐かしむように泉と対話する杏子を、邪魔しないように優しく見守る。あの空間に入っていけるのは、恐らく杏子、ただ一人だけだろう。そう思えたからこそ、二人はどちらともなく、この位置にいるのだ。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
由梨花が静かに、声をかけてきた。それに、ん? とだけ、続きを促す。
「どうして、杏子ちゃんはここに呼ばれたの?」
「……そうだね」
当然の疑問だな、と思う。何て言えばいいのかな、と少し考えを整理してから、口を開いた。
「お祖父ちゃんの話してくれた物語、覚えてるかな? この泉の中で眠ってる、女神と青年のお話だけど」
「うん……覚えてるよ」
そっか、と聖杜は少しだけ笑顔になる。そして、つい最近まで忘れてしまっていた記憶を、手繰り寄せた。
「実はね、あのお話にはちょっとだけ続きがあるんだ。死んでしまった時、女神は青年の子供を、おなかの中に宿してたんだよ」
「えっ?」
由梨花が意外そうに目を見開く。
「当然、女神が亡くなった時、赤ん坊も一緒に死んでしまった。でも生まれ出でなかったその子もまた、両親のように地上に芽吹いたんだ。森のもう少し奥に一本だけ、杏の木が生えているんだよ。遥か昔からずっと生き続けてるその木は、正しく赤ん坊の命の樹だと、そう言い伝えられてるんだ」
ずっと昔、聖杜がまだ子供のころに、聞かされ続けた昔話。祖父や祖母、それに母や父もまた、子守唄代わりに聞かせてくれた、不思議な物語の、不思議な終焉だった。
「そう、なんだ……。でもじゃあ、それって――」
「うん。恐らくだけど、杏子はその赤ん坊の生まれ変わりなんだろう。だからあの子は、この場所に呼ばれた。杏子をここに導いたのは、前世の両親の魂なんだろうね」
「そっか……」
そうなんだなぁ、と、由梨花は笑った。でもその笑顔は悲しみも含んでいて、きっと死んでしまった杏子の今の家族の事も考えて、だから複雑な気持ちになっているんだろうな、と思った。
「心配ないよ。杏子にとっては、両方とも親であり、両方とも家族なんだ」
「うん……両方とも、とっても大事な、存在なんだよね」
どちらも大切だから、だからあんなに泣いてたんだもんね、と由梨花は言った。聖杜は、さっき見た杏子の泣き顔を思い出して、少しだけ目を伏せた。
「だから杏子ちゃんは、今、それを確かめてるんだよね」
由梨花の言葉に、ハッ、として顔を上げる。その視線の先で、杏子が泉の景色を眺めていた。
「ああ、そうだ……。そうだよ、きっと」
聖杜は、由梨花のその考え方に、救われた思いだった。彼女の言ったことはあの子にとって真実だろう、と感じたのだ。
また暫く、二人の間に、沈黙が降りた。
ゆったりとした時間が流れる。女神の泉の前に立ち、聖杜と由梨花は優しい瞳で、掛け替えのない新しい家族を、杏子の姿を見守っている。きっとこの構図、この関係は、これからもずっと続いていくボクたちの形なんだろう。聖杜はふとそう考えて、微笑んだ。
そっ、と。掌に温かさが広がった。由梨花が手を握ったのだと分かって、えっ、と思いながら振り向くと、彼女の大きな瞳が聖杜を捉えていた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
「えっ?」
突然の謝罪に、聖杜はマヌケな声を出してしまった。
「さっきのこと……お兄ちゃんは私たちを助けに来てくれたのに、私、ヒドイことを言っちゃったから」
「あ、ああ、そのことか」
里に入る前に、由梨花に言われた言葉が過ぎる。ズキンと胸が痛んだが、あの内容は事実なのだ、由梨花が気にすることはない。
そんな心を見透かされたのだろう、由梨花は口の端を小さく持ち上げて、聖杜の緊張をほぐす様に笑ってくれた。
「私、ね。お兄ちゃんが助けに来てくれて、嬉しかったよ。でもそれ以上に、やっぱり、ショックだった。お兄ちゃんが沢山の人を殺めたんだって知った時は、そんなの嘘だって、信じられない気持ちでいっぱいだったんだ。……その事をずっと考えてて、混乱して、それで……お兄ちゃんを信じる気持ちも、疑っちゃった」
えへへっ、と声を出す由梨花の表情は、何故かとても寂しそうに映った。
「うん、由梨花……ごめんね」
「あははっ、それはいいの。今はお兄ちゃんが謝っちゃいけないんだよ」
由梨花がそう言ってくれたことは、ありがたかった。さっきから彼女の言葉に救われてばかりで、聖杜は少しだけ、情けなくなる。
「お兄ちゃんがここの入り口に入って行った後に……私、考えたんだ。お兄ちゃんがあの時に言った事を、精一杯に、考えたんだよ。それで、お兄ちゃんの言葉が真実なら、私が今まで見てきた、一緒に過ごしてきたお兄ちゃんの優しさは、嘘なんかじゃないんだって、そう、思えたの」
ここで由梨花が、一旦、言葉を切った。緊張した様子で、一息だけ、深呼吸。その後でスッ、と澄んだ瞳を、聖杜のそれと重ね合わせる。
「私、お兄ちゃんを信じるよ。私の知ってる、気弱だけど真摯で、誰よりも素敵なお兄ちゃんを信じ続ける。だって私は、ずっとお兄ちゃんと、一緒に過ごしていたいから」
スルリと入り込んできたのは、由梨花の心。真っ直ぐな瞳の輝きが、聖杜の心に溶けて広がる。彼女の決意は力強くて、聖杜はその言葉に大きな安心を得た。
「ありがとう……ありがとう、由梨花」
ギュッ、と。握った手に力を込めた。嬉しい。こんなに純粋な喜びを感じることが出来る、由梨花の純真さが、その信頼が本当に嬉しかった。
「でもね、お兄ちゃん。これからは、誰かを傷つけるようなことは、しないでね」
「うん、わかった。約束するよ」
聖杜は心から、そう誓った。彼の性分からして戦うことは苦手だが、何よりも由梨花の悲しむ顔は二度と見たくないし、この信頼関係を崩すことが嫌だったのだ。
良かった、と由梨花は笑顔を浮かべた。その表情が可愛くて、愛おしくて、聖杜は彼女を抱き締めたい衝動に駆られる。だがそれよりも一足早く、由梨花は聖杜に顔を近づけたのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん。やっぱり大好きだよ」
チュッ、と小さな音がして、聖杜の頬に柔らかくて気持ちのいい感触が走る。由梨花が顔を離すと、その可愛らしい桜色の唇が触れたのだと理解して、聖杜の全身に、凄い勢いで血流が駆け巡ったのだ。
「これからも……よろしくね、聖杜お兄ちゃん!」
えへへ、と照れたように笑う由梨花。はにかんだ表情に、聖杜は全身の灼熱の如き体温を意識して、ようやく自我を取り戻したのである。
「な、今、キっ――だぁっ!」
瞬間、ビクン、と右足に激痛。堪らず聖杜は飛び上がって、その勢いのままで、尻餅をついた。
「だ、だぁー! 痛だだだだ!」
聖杜は大急ぎでふくらはぎを押さえにかかるが、ビクビクと痙攣した筋肉が、次々と鋭い痛みを訴えてくる。足首が垂れ下がって震える姿は、物悲しくもマヌケな、とても情けない状況なのだ。
「ちょっ、お兄ちゃん!? どうしたの!」
「あ、あ、足、足が……つ、攣ったぁ」
元々の疲労に加えて、キスの衝撃に肉体が驚いたのだ。そのせいで唇の心地よい感触も吹っ飛んでしまった。それはとても悲しいことだが、今はこのイヤな痛みをどうにかする方が先決だった。
「い、痛い痛いぃぃー! 由梨花、あ、足首、引っ張ってー!」
「あ、わ、分かった! 大丈夫、お兄ちゃん?」
「いたた! たー! だー! あーっ!」
由梨花が、なかなか上がらない足首に四苦八苦しながら、聖杜は痛みに半泣きで、必死に足を伸ばそうとする。そんな騒がしい二人に気付いた杏子が、どうしたのかと寄って来る。宙水の里の森の中、三人の喧騒は夜闇に響いた。
その姿を見詰めるものは、星々の瞬きと銀色の月、闇の帳と深遠な木々たち。そして何より、三日月の光を水面に映した、暗くも静かな泉の視線だけだった。
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