第五章②


 サミー・アダモフは左手首の腕時計に目を落とした。そして頭の中でどれ程の時間が経過したかを簡単に計算し、駄目だったか、と溜息を一つ。

「連絡は?」

「ありません」

 足元に声をかける。ルーフから上半身を出したサミーには、助手席で連絡役をやっている部下の声はくぐもって聞こえた。

「そうか」

 簡単に、それだけを呟いた。この時間に連絡が無いということは、下に降りて行った斥候の二人はもう、帰ってこないということだ。バイク乗りとしてはかなり腕の立つ二人、特にオフロードでの機体の扱いに長けた歴戦の傭兵が殺された、それは即ち、敵が只者ではない事を示している。

 サミーが居るのは、朝尾山の中腹、登りのルートで使う道路の上だ。すでに仲間によって入り口の道路は封鎖されているから、一般の車両などは通らない。ロテンの人間は所定の配置についているはずだから、今ここに居るのはサミーの管轄する分隊一つだけだ。運転手、通信士、データ技師、そしてサミー。二人の斥候はもう下っていったから、装甲機動車が一台だけ、道路の上で横向きに停まっているのである。正面には一面の杉林、そして小さな土の道。この先から敵が一人、この地点にやってくるはずだ。

 敵の侵入場所はポイントC。その小さな入り口に配置した四人からの連絡が途切れたのは、今から10分ほど前のことだ。登山道から道路への出口であるこの地点に急行したサミーたちは、まず先に斥候の二人を送り出した。だが正直、この時点でトラブルは終わりだと考えていたサミーには、今の状況はいささか意外だったのである。何故なら振動探知機の検知したデータでは、侵入者は一人だということだったのだ。米軍のグリーン・ベレーあるいはデルタ・フォース、もしくは自衛隊の中央即応集団の攻撃を予想していたロテンは、余りにも早いトラブルに酷く緊張したが、相手が一人だと分かると近くにいたサミーたちにトラブル潰しを命令した。正直、サミーにはこの任務は退屈だったのである。一人の敵ならば、実戦経験の無い見張りを四人くらいなら大丈夫だろうが、数々の紛争地を巡って来た傭兵相手には歯が立つまい、と考えたのである。

(ふん、馬鹿どもが……)

 大方、一人だと油断してフロント・ライトを点灯したまま斥候に向かったのが原因だろう。確かにナイト・ビジョン・ゴーグルが銃身に付けるタイプのものだったとは言え、夜にも慣れている彼らならば山道でも充分、立ち回れたはずだ。

 空を見上げれば今日は綺麗な三日月である。暗くはあるが、この程度ならば心配いらない範囲のはずだ。慢心で身を滅ぼすなど、実に下らない死に方である。

「来ました!」

 サミーの足元で、データ技師が声を張り上げた。斜面の下に設置した数個の振動探知機が、敵の居場所を教えてくれるのである。これにより動き出しのタイミングを図る上、奇襲の危険性を減らしているのだ。

「前照灯を点けろ! イゴール、ライトの操作は任せたぞ」

『アイ、サー!』

 装甲機動車のフロント・ライトが点灯し、ハイビームで前方を明るく照らす。上部ライトがさらに広い範囲を照らす上、データ技師のイゴールが操作するサミーの左右に取り付けた大型ライトが稼動して、サミーの射線を援護してくれるのだ。

 サミーはヘルメットが嫌いである。だから、ヘルメットに装着させて目元まで落とすタイプの暗視装置も好かないのだ。だからわざわざ、こんな大掛かりなシステムを作ってまでライトの明かりにこだわった。

「『コニ』より『クナッペン』へ。ターゲットを探知した、これより攻撃を開始する。繰り返す――」

 通信士が本部へと連絡を入れる声を聞きながら、サミーは舌なめずりを一つ、唇を湿らせた。なんだかんだ言って、結局、彼は殺人中毒なのだ。人を殺す時の緊張感に快楽を覚える男は、待望のその瞬間に心を震わせた。

「ヤルぞぉ!」

 興奮を声に含ませながら、三脚で固定してある長大な愛銃のボルトを開ける。メタル・リンク・ベルトに連なった五十口径の重機関銃弾が薬室の中にセットされ、全長163センチにも及ぶ長大な銃身は、黒く沈んだ色の中で発砲の喜びを心待ちにしているようだった。その、国際条約において対人狙撃が制限されるほど凶悪な破壊力を持つマシンガンのグリップに手をかけると、サミーの瞳に暗い興奮が宿るのだ。


 森の中を走っていたら、突然、出口の近くで物凄い光が点灯したのである。人工の光が溢れ出て、闇に慣れた聖杜の瞳は、スッと細められた。光の先には巨大な軍用ハマーの姿があり、その緑色の車体が聖杜に頭を向けているのだ。

「っ!」

 ハマー上部から閃光、続いて爆音のような銃声が連続して轟き、咄嗟に聖杜は右側の林の中に飛び込んだ。

 ガガガガガッ、ガガガガガガガガガッ!

 銃声は鳴り止まない。弾着の衝撃で土と草は盛大に霧散し、弾痕は地面に大きな穴を穿つ。その破壊力は、人間に使うべきものではない。

「ヒャッハー!」

 銃声の中に混じって、男のハイな叫び声が聞こえて来た。ライトと共にこちらに向かって移動してくる射線を意識しながら、聖杜は射手に目を向ける。刈り上げた金髪に筋骨隆々とした肉体、精悍で無骨な面立ち。その顔は、かつて和杜に教えられた要注意人物のファイルの中で見たことがあるものだった。

 サミー・アダモフ。別名、フィンランドの大男。

 フィンランド生まれのロシア人で、旧ソ連軍の特殊部隊にいた男。現役時代にはチェチェンでの住民虐殺事件に参加し、ユーゴスラヴィア紛争では傭兵として一般市民を的にした残虐な性格の持ち主である。大口径の機関銃で人間をバラバラにするのが趣味の、ヘビー・スナイパーとも呼ばれる精神異常者だ。

 アダモフが、重量38キロのM2重機関銃を、膂力に任せて振り回す。それをマズル・ファイアで察知した聖杜は、上空の空間を固め、跳んだ。横薙ぎに振るわれた弾丸が林の中を横切る。対空・対装甲車など対物用に開発された12.7×99ミリの重機関銃弾は、硬い杉の木を、まるで紙切れのように屠って暗闇を通過していった。

「ヒャハハハハハッ、イヤッハハハハハ!」

 いくつもの木が幹を吹き飛ばされて傾いでいく。ズン、ズズーン、と腹に響く重低音を響かせて巨木が次々と地面に倒れ伏し、大男は心底から愉快そうに笑い転げていた。

 その中を、聖杜は飛翔するようにして木の陰から陰へと移動していく。相手は聖杜の能力を知らない、だから地面の近くを狙ってくるのだ。

 杉林に穴が開いていく。土煙が充満し、その異常な光景に、鳥たちはギャアギャアと鳴いて羽ばたき始め、地上の生物は次々と気配を消して逃げ惑っていった。ギャリギャ! 鈍い音を立てて、聖杜の三本となりの木が凶悪な威力の弾丸にそこかしこを削られ、、自らの重量を支えきれずに傾き、地に伏した。

 その無残な姿を横目に見ながら、フッ、と軽く息を吐き、前へと足を踏み出した。このままでは埒が明かないのだ。

トントントン、凝固空間を踏みしめながら、聖杜は瞬時に距離を詰めていく。

(っ、く!)

 近づけば近づくほど、やはり危険は大きくなる。道路まであと少しの所で、ハッ、としたようにアダモフが顔を上げた。右側から近づいてきた聖杜の気配を感じたのだろうか、彼は宙に浮く標的の姿に眼を見開いたが、すぐに銃口を向けてくる。

 頭の回転が速い。不可解な力への疑問を瞬時に切り捨てたアダモフに舌を巻きつつ、深淵で巨大な闇を抱くM2ヘビー・マシンガンのマズルに、聖杜は大きなプレッシャーを感じた。

「っ、――オオオッ!」

 ガガガガガァ!

 12.7ミリ弾が空気を切り裂き、99ミリの薬莢がエジェクション・ポートから宙に舞う。その寸前に、階段を駆け上がるように空高く飛翔した聖杜は、束の間の空中静止でハマーの車体を見下ろした。

 アダモフが何度も首を巡らせている。聖杜の姿を失ったのだ。それを理解して、聖杜は体を入れ替えた。

 頭を下にした落下姿勢。重力に引かれ地面へと近づいていく中で、足元を固めて、下に向けてジャンプする。勢いをつけてハマーへと迫る途中、空を見上げたアダモフが、驚きに表情を固めながら、腰の拳銃を抜いた。条件反射だろう、それは賞賛に値する。

 タン、タン、タン。重機関銃弾に比べると、どうしてもチープに聞こえてしまう9ミリ拳銃の発砲音。高速落下の中で、聖杜は落ち着いて銃口を観察し、重心移動で射軸から体を外す。ルガー弾が右肩を掠めて擦過傷が皮膚を焼いたが、気にすることなく突っ込んだ。

 ヒュッ

 背を仰け反らせて、再び体を入れ替える。膝をゆっくり折って、柔らかく衝撃を吸収し、対弾加工の施された分厚い装甲機動車の屋根に着地。すぐ横にあるM2の銃身はまだ熱く焼け、その熱気に肌がチリチリと炙られた。

 足元に転がる、人の指以上に巨大な空薬莢を踏み分けて、聖杜は刀の鯉口を切った。驚愕に固まったアダモフの顔に、信じられない、とでも言うような表情が浮かんでいる。彼が正気を取り戻す前に、もう決着はついていた。

 スルリ。切っ先がアダモフのベストを貫通し、器用に肋骨を避けて胸に突き刺さった。そのまま肺を通過して身体を突き破り、赤く濡れる刀身が背中から伸びていた。ガフッ、アダモフの口から息が吐き出され、同時に赤い泡と血液が飛び出す。

 聖杜は力任せに柄を横に薙いだ。胸の半ばまで刃が到達し、ビクン、と震えた後で男の瞳が沈黙する。アダモフの命が消えたことを確認すると、彼のベストから手榴弾を2つ、取り出した。

 安全ピンを抜いて起爆装置をオンにする。中身が溶け出し、爆発のカウント・ダウンが始まった。開いたままのハマーのルーフから、前部・後部の座席に一つずつ放り込むと、タン、と屋根を蹴ってその場から離脱する。

 コン、と榴弾が車内に落ちた。

『っ、ウォア――――――――――――――――!?』

 ガァンッ!

 起爆まで約5秒。車内で上がった悲鳴を掻き消して、爆風で破片が飛び散った。ガガガガン! 榴弾が車中を撥ね回る。身体をズタズタに切り裂かれた乗員が絶命し、ライフル弾すら阻む装甲は内側からの圧力に所々でひび割れ、防弾ガラスにも穴が開く。

 トン、と聖杜は着地した。ゆっくり振り向いてハマーの惨状を一瞥すると、すぐに前を向き、足を出す。

 山の中を、一直線に駆け登る。目の前の急斜面を見据え、彼はまた、走り続けるのだ。



 ギョロリとした碧い瞳を苛立たしげに周囲に走らせ、眉根に寄せた皺をさらに濃く刻ませる。セバスチャン・シェーファーはイライラと気分を波立たせながら、奥歯をギギギッ、と噛み合わせていた。

 時刻はもうすぐ、0時になる。一日を終えてしまいそうな時間に来て、しかし最後の手がかりとなるアンズという少女が何の反応も示さない。予定の遅れに日米の治安部隊の動向への緊張感も相俟って、彼はずっと、眉尻を吊り上げている状態なのだ。

「娘はまだ何の反応も示さんのか?」

 近くを通りかかった若い兵士に尋ねる。その剣呑な言い方に、兵士は焦ったように首を振って、再び歩いていってしまった。

 ふんっ、と荒く鼻息を出して、セバスチャンは椅子の背凭れに体重を預けた。パイプ椅子の硬い座り心地にウンザリしながら、仮設テントの中で周囲の喧騒を眺めている。すぐ隣のテントにチラリと目をやると、通信や探知機、カメラなどの情報を処理する為に数人の兵士たちがパソコン画面や機器に向かい合っていた。この山の各所に防衛の為に配置してあるそれぞれの部隊から入る情報に奔走され、彼らは酷く疲れているようであった。

 その中の一人が、何事か慌てながらこちらへと駆け寄ってくる。その顔色を見て、良い情報ではない、ということを察知したセバスチャンは、途端に苦々しい表情を作った。

「ほ、報告します。侵入者が、『トロイオンガン』防衛線を突破、その先の『アスイス』防衛地点にて戦闘中です」

「ふざけるなっ!」

 思わず怒鳴り声が出ていた。セバスチャンは顔を真っ赤にすると、怒りを露わに机を叩き、立ち上がって兵士を睨みつけている。

「相手はたったの一人だろうが! なにをそんなに梃子摺る必要がある!? さっさと殺せ! それとも守備に着いてるのは木偶だけか!?」

 余りの剣幕に、若い兵士はビクリと肩を竦めて、首を縮こませてしまった。

 そう。

 セバスチャンが苛立っている理由は、秘境への道を開くのに手間取っているからではない。

 先程から、たった一人だけでロテンへと戦いを挑んでいる命知らずを、消すことができていないことが問題なのだ。

 入手した文献によると、『宙水の里』への道は、『招かれた者』が必要な気を高めることができてこそ、開かれる。そして気を操ることのできない者には、もっとも気の流れが充足する正午を過ぎてから、入り口を示すことができるのだ。その伝承を信じれば、もうすぐ目的は達成される。それについては焦る必要は無い。

 しかし、今は一人の誰かが次々と防衛網を突破して、セバスチャンのいる頂上へと近づいてきているのだ。そのことがプレッシャーとなって、彼の心は執拗に掻き乱されていた。

「まったく、高い金を払っている傭兵ばかりが何故、こんな簡単に殺されているのか!? これじゃあ無駄遣いも甚だしいな!」

 大声で毒づいて、ガンッ、と椅子を蹴った。フッ、フーッ、と荒く息を吐き、セバスチャンは肩を怒らせて歩き出す。

「ベロゾグル! ヘリは飛ばせるな!?」

 声をかけたのは、トルコ系の大柄な男だった。ボルカン・ベロゾグル。『カラ・カルタル』――黒い鷹の異名を取る、腕利きの戦闘ヘリ・パイロットだ。

 飲み物を手に仲間と談笑していたベロゾグルは、セバスチャンの声に振り向くと、

「ええ、大丈夫ですが……。敵機が来たんですか?」

 と聞いてきた。

「いいや、まだ奴らは動いていない。だが侵入者を片付けるのに手間取っていてな。お前が消して来い」

「侵入者って、確か一人でしたよね? そんなのにヘリを使ってもいいんですか」

「確実に殺したいでな。なぁに、燃料も弾薬もまだまだタップリある。予行演習のつもりで行って来れば良い」

 ニヤリと、セバスチャンが唇を歪ませた。それを見たボルカンも不敵に笑うと、了解、と頷く。

「よし、しっかりと仕留めて来いよ」

「イェッサー。――出発準備だ。二機とも出すぞ」

 ボルカンが部下に指示を出したのを見て、セバスチャンは満足そうに頷いた。そして、隣に立っていた先程の兵士を促すと、クルリとまた戻り始める。

 しかし今度は先程のテントではなく、通信・指令用のテントへと足を向けていた。

「おい、確か『アスイス』にはカメラがあったな?」

「え、あ、はい」

 兵士が頷いたのを見て目元を緩めると、今度は通信に当たっていた別の兵士に声をかける。

「ベロゾグルのヘリからの映像は受信できるか?」

「はい、こちらで確認できます」

 一つのモニターに、エンジンのついたヘリコプターの前部カメラからの映像が映し出された。ゆっくりとローターを回転させる機体に、下草がサワサワと揺れる様子を見て、セバスチャンは歪んだ笑顔を浮かべると、椅子を引っ張ってその上に座る。

「特等席だ! しばらく見物させてもらうぞ」

 ふんぞり返るように背凭れに体重を預けると、セバスチャンは現場の赤外線カメラとヘリからの映像の二つのモニターを眺め、愉快そうに笑うのだった。



 朝尾山の中腹辺りに、森が途切れ突き出たような急斜面になった、崖のような部分がある。これを利用して、山道を走るドライバーの休憩用に、ベンチやトイレが設置された小さな展望台が造られているのだ。

 その場所に、ロテンの防衛拠点の一つが置かれている事は、容易に想像ができた。案の定、その場所は今まで以上の人間と機材が配置され、今まで以上に防備の厚い地点だったのだ。だが相手は、絶壁となっている崖側から敵が奇襲をかけてくるとは考えていなかっただろう、固めた空間を階段代わりに上ってきた聖杜に狼狽して戦闘配置が遅れた兵士たちを斬るのは、想像以上に簡単だった。

 普段は長閑な展望台で、街の明かりを背後に銃声を躱し、その場にいた敵のほとんどを絶命させる。何人かが聖杜の気迫に怖気づいて逃げ出したが、それを追おうとは、考えなかった。

「……ふぅっ」

 一つだけ息を吐き、後ろを振り返る。山肌から離れた展望台、森の途切れた視界は、見晴らしが最高だ。空に薄く掛かった程度の雲は、点々と自己主張する星明りも、煌々とした月の光も、隠し切れるものではない。深い深い藍の闇に添えられた天体の姿は、聖杜の荒んだ怒りを非難しているかのようにも見えた。

 彼らは、ただただ静かに、人の営みを見詰めているだけなのだ。

(でも……)

 聖杜は瞳を閉じて、顎をクイッと上げる。

(でも、ボクは行かなきゃならないんだ。大切な女の子を、あの娘たちを、護って見せなきゃ……!)

 短い時間だった。ノスタルジックな気持ちに浸っていて良い場合ではない。すぐにでも反転して、大切な彼女たちの元へと、駆けつけなければならないのだから。

 ……ラララララッ

 どこかの空で、ヘリコプターが飛んでいた。

 ……バララララッ

 回転翼の発する規則的な音声を耳に入れながら、再び脚に力を入れようとした、その時だ。

(――っ! 違う!)

 気が付いた。ローター音が急激に近づいてくるのだ。上空から一気に打ち下ろすように、その強大な存在感が二つ、大きな風圧と共に聖杜の元へ。

 見上げた瞬間、唖然としていた。ブワッ、強風が聖杜の身体を煽り、バタバタと服の裾をはためかせる。二機のヘリが一旦、下に向かって降りて、旋回してこちらへと戻ってくる。

 両脇から沈んで見えなくなった機体が、崖から急激に上昇して、聖杜の前に姿を曝した。深い緑の機体色、爆音のような力強いエンジンの咆哮、無骨で無機質な外観。軍事作戦用に造られた、AH-1戦闘ヘリ『コブラ』とUH-1多用途ヘリ『ヒューイ』。最新鋭のヘリコプターではないが、今でも各国軍が正式採用している現役機である。

「くそっ!」

 毒づいた。ゾクゾクと、背中に戦慄が走る。二つのヘリがライトを点灯すると、反射的に後ろに退こうとステップするが、ヒューイが素早く回り込んで、開放された側面ハッチからM60軽機関銃を発砲して牽制してくる。周囲に走った弾着を見極めて身体を動かし、弾丸の軌道から身を躱した。だがその先の、正面から動かなかったコブラの機首下部にあるM197ガトリング砲が火を噴いた。

 冷汗が背筋を伝う。

 対空用の20ミリ対物弾がアスファルトを穿ち、盛大に凹ませて道を作る。軌道上の障害物が全て弾かれ、土煙がその場に充満した。

 聖杜は咄嗟に屋根のついている展望台のベンチに身を寄せる。

 ヒューイが旋回しながら周囲を照らし、コブラのライトが上昇していく。何かをやる気だ、と理解したが、どう対抗すればいいのかは、分からなかった。


 ボルカン・ベロゾグルがコブラの後部シートから標的を見つけた時に、正直、冗談かと思ったものだ。

 それは、まだ年端も行かない少年であった。白い円筒形の木でできた何かを持っているだけで、他に武器らしき物が見当たらない所もまた、訓練された兵士や歴戦の傭兵を殺してきた侵入者だ、などと思えなかった要因の一つである。

 だがターゲットの周りに、見慣れた森林用迷彩服を着た兵士たちが血塗れで倒れているのを見ると、彼がやったと判断するしかなかったのである。

 しかし、どんな歴戦の強者かと思っていたボルカンからすれば、拍子抜けもいい所ではあった。名の通った人間ならば、殺せば当然、株は上がる。例え歩兵とヘリの戦闘でも、だ。そういう理由で意気込んでいたボルカンは、落胆と共にやる気を少し、減退させていた。

「こちら『カラ・カルタル』。『クナッペン』へ、ターゲットを発見した。あ~、これより攻撃を開始する」

「こちら『クナッペン』、了解した」

 一応、本部への連絡を入れておく。その後で僚機に軽く指示を出し、自分自身は崖に目線を合わせたホバリングで高みの見物と洒落込んだ。

 目の前で少年が踊りだす。上空からのM60の掃射を器用に避けているのを見て、へぇ、と思った。

「あのチビ、中々に素早いな。ギョクハン。お前も撃て」

「了解!」

 前部シートに座る部下に指示を出し、機関砲を発砲する。機体自体にも振動が走り、銃身から盛大に空薬莢が落ちていく姿を想像し、ボルカンは快感に顔を歪めた。

「おほっ、避けて行きやがる。成る程な、雑魚どもが梃子摺るわけだぜ」

 コブラの対空機関砲すら少年は躱し、ベンチの方へと隠れてしまった。木造の屋根は機関砲で充分に破壊できるが、ボルカンは一旦、発砲を止めさせる。

 隠れたつもりだろうが、こちらのモニターには赤外線レーダーから少年の体温が感知できている。その事実に何だかつまらない物を感じたのだ。もう飽きたのである。

 機体を上昇させたボルカンは、見下ろすように機首を下げると、ギョクハンに命じた。

「TOWを準備しろ」

 ガンナーであるギョクハンが、イエッサー、と答えた。その声に緊張感は無い。この殺しを純粋に楽しんでいるのだろう。

 準備はすぐに整った。対戦車用の空対地ミサイルの照準を少年の体温に合わせると、左右両翼から二発ずつ、計四発のミサイルが有線誘導で休憩ベンチへと飛んで行く。バシュ、と噴煙を撒き散らしながら目標へと進んでいくTOW弾が数秒で着弾し、バゴォッ! 派手に爆発して、誘導用のワイヤーが弾き飛ばされた。

 あのベンチの場所にはそれなりに重要な機材が置いてあったはずだが、まぁ、こういう事態だ、許してくれるだろう。ミサイルの圧倒的な威力で、突き出た崖の一部が崩れ落ち、粉塵がその場を覆い隠す。それを眺めながらもボルカンは、終わったな、と溜息を一つ。

「イヤーッ! 呆気ねぇモンだぜ、人間なんてな!」

 下ではギョクハンがはしゃいでいた。自分で撃って殺したのだ、その興奮は良く分かる。だが一人殺すのに浮かれすぎだ。苦笑を浮かべながら注意しようとして、ボルカンは視界の隅に異常を見た。

「っ!」

 僚機の様子が、おかしいのだ。


 煙が道を造って近づいてくる、そんな印象だった。コブラの左右から二発ずつ、宙を滑るように四つのミサイルが、光条を引いて聖杜へと迫っていた。

 シュルルルルルルル……

 スローモーションのように、コマ送りの速度でTOW弾を見詰めながら、膝を縮める。グッ、と屈伸した直後、彼はすぐさま、跳んでいた。

 バウッ、ドゴゴォッ!

 着弾。圧倒的な破壊力に木の屋根は一瞬で吹き飛び、直撃を受けた場所から亀裂が走る。地面が崩れ去り、崖は一部が土砂のように崩落して、下の木々を巻き込んで粉塵を立ち上らせた。

 その惨状を尻目に、聖杜は宙を走り、近くにホバリングしていたヒューイへと接近していた。トトトッ、と空間を駆け、刀の鯉口を切ると、聖杜から見て左側に構えていた歩兵の胴を横薙ぎに切り裂く。

「!」

 相手が聖杜に気付いた時には、その男はすでに事切れていた。グラリと傾いだ死体が宙に放り出され、聖杜はヒューイの中へと踏み込んだ。

「なっ……!?」

 異常に気づいたのは、反対側のハッチから爆心地を覗いていた男だった。そいつが振り返り、M60の銃口を向けてくる。それに三歩で近づいた聖杜は男の喉に刃を通した。

 ヒィィン、男の頚動脈が割れ、赤い血液が溢れ出る。割目してくず折れる男から視線を外すと、コ・パイロットがこちらを振り返るところであった。

「くっ!」

 コ・パイが呻く。ベストの脇から9ミリの拳銃を取り出すも、その腕を半ばまで切り裂いた刃が、返す刀で脇腹から肩口までを斬っていた。

 ドシャ、とコ・パイの身体が倒れ伏す。最後の一人となったパイロットに視線を向けると、彼は情けない悲鳴をあげ、シートベルトを外そうと金具に手をかけた。

 ドシャ。シートごとパイロットの身体を剣先が貫いた。ぐっ、と押し込むとパイロットの胸から刀の鈍い輝きが姿を現し、ビクン、と身体が跳ねる。

 刀を抜くと、その反動でパイロットが前へと傾ぐ。カチン、とベルトが外れ、その身体が操縦桿へと倒れ込んだ。

 聖杜は、急速にバランスを崩すヘリの床を蹴ると、事切れている男の脇に落ちていたM60を拾い上げる。グラリ、と機体が傾いだ時にはすでに機外に脱出し、新たな目標へと向けて飛翔していた。


 目の前で、味方のヘリがぐらぐらと揺れ始める。開け放たれたハッチから、銃手をしていた男が倒れ込むのが見えて、非常事態だと確信したが、それで何ができるわけでもなかった。

 ボルカンは唖然としながらヒューイの方を見ていたが、そこから黒い影が飛び出した瞬間に、全長17.44メートルにも及ぶヘリコプターの機体がバランスを崩し、機首を下に向けて森へと突っ込んでいくのが見えた。

(なっ!?)

 地面へと落下していく途中で機体が横向きに倒れ、ローターの先が杉に当たり派手に削る。山肌に頭から衝突したヘリが、コックピット・ブロックを潰して直立したと思ったら、すぐに横転して、数瞬後には爆発した。

「うおおおっ!?」

 ブワッ! 爆発の熱で上昇気流が発生し、ボルカンの乗るコブラの機体が激しく揺さぶられた。それによりバランスの立て直しに苦心することになり、一瞬、僚機の墜落原因を忘れる。

「隊長、さっきの影を見失いました!」

「なんだとっ!?」

 正直、桿を操る作業に没頭していたボルカンは、ギョクハンの言葉の意味を理解できなかったのだ。少ししてからその意味に思い至り、振動の続くコックピットの中で、愕然とする。

(くそったれがぁ!)

 とにかくその事は頭から追い出して、何とか下からの風を避けるポジションへとコブラを移動させることに成功した。その場で一旦、静止して、改めてレーダー類に目を落とす。緊張でインナーシャツがベトベトになっているのが分かった。

「さっきのは一体、何だったんだ!?」

 それは独り言でもあったし、ギョクハンに対する問いかけでもあった。だが、部下がそれに答える前に、機体に再び細かい振動が起こり始める。

 今日、何度目かの、なんだっ!? の叫び声は、もう喉が掠れて上手く発音できなかった。


 コブラの光学探知機が聖杜の姿を捉えられなかったのは、彼がすでにその機体のすぐ近くに居て感知できなかったからである。

 無人になったヒューイから飛び立った聖杜は、機体操作に手間取ったコブラの装甲に取り付き、静止したところを後部へと移動した。

 そして今、彼はテール・ローターの脇に来て、高速回転する翼にライト・マシンガンの銃口を向けたのだ。

 正直、銃の扱いには自信の無い聖杜だが、この距離ならば外すことはない。すでに弾薬が装填されている銃だ、残弾はメタル・リンク・ベルトに多量に繋げてあるから撃つのに支障は無いはずである。

 刀を腰のベルトに差して固定することで空いた左手を、フォア・ハンドに添えて銃身を固定する。10キロを越える重量を物ともせずに引き金を引くと、M60の機関部でボルトが前進し、フィード・カムが右に動き、フィード・カム・レバーが左に動いて、爪が次弾を装填してくれる。7.62ミリ口径の弾丸がテール・ローターの付け根、固定具の部分へと毎分550発の速度で射出され、ガガガギガ、と弾かれた。

 どれくらい当て続けただろうか、鉛弾の圧力に軸が緩み始め、回転が鈍くなってくる。銃弾の跳ね返りに聖杜の身体の所々で皮膚が浅く切り裂かれたが、それを気にすることなく、引き金を絞り続ける。ストックを当てた肩のポケット部は、激しいリコイルに外れそうだった。

 キィン、ギャ、ガイン!

 回転軸が火を噴いて、その部分が折れ曲がると、聖杜はM60を捨ててバック・ステップから展望台のあった場所へと戻る。それでも回転を止めないテール・ローターがついに遠心力に負けて外れた。

 ガァンッ!

 吹き飛んだそれがヒュッ、と風切り音を残して、道路脇の電灯を寸断する。

 風防の奥、操縦席のパイロットの蒼白になった顔と視線が合って、それがすぐに逸れた。

 空中でのバランス制御を担っていたテール・ローターが外れたことで、コブラは制御不能の状態に陥ったのだ。後部から煙を吹きながら、静止できずに無様に回転する機体。黒煙の尾を引きながらフラフラと高度を下げ続けると、操作できずに杉林の中へと落下して、杉を薙ぎ倒して丸い空白地帯を造る。横倒しになった機体で、メイン・ローターが地面を削り土を空に舞い上げると、折れて、破片が高速の凶器となって断崖や森に突き刺さる。

 ヘリのエンジンが煤けた煙を吐いて停止して、17メートル近い巨体が沈黙した。その姿を上から眺めていた聖杜は、動きが無いことを確信し、振り返る。

 ヒューイの爆発した後が煌々と明るい火事となって、朝尾山の中腹で黒煙を吹き上げ続けていた。



「そんな馬鹿な!」

 ガタッ、と座っていた椅子を蹴散らして、セバスチャン・シェーファーの呻きを含んだ叫び声が、こだました。

 その声に、ビクリ、と反応した由梨花は、俯けていた視線を上げると、声の方向へと顔を向ける。

(な、なに……? なんなの?)

 キョロキョロと頭を左右に振って、困惑した表情をそこかしこに回した後で、少し離れたテントに群がる人々が見えた。モニターや通信機器が雑多に置かれたその場所は、まるで電磁波に侵されてしまいそうな禍々しい雰囲気を発していたが、中心に居るシェーファーの顔色は怒りと焦りで真っ赤になっているのがここからでも了解できた。

 どうしたのだろうか、と思う。空トラックの荷台に腰掛けさせられていた由梨花が、不振な目をそこに向けているも、状況はよく分からない。モニターを睨んでいるらしき人だかりだが、先程から彼らが口々に捲くし立てる怒声は全て、異国の言葉。由梨花には内容が掴めないのだ。

 由梨花が彼らを見詰めていると、ふと、右の腕に体温を感じた。右隣に座っていた杏子が、不安そうな顔で、両腕を由梨花の右腕に絡ませてきたのだ。心配そうに抱きついてきた少女の、その今にも泣き出しそうな表情を見て、由梨花はフリーズ状態だった頭を再稼動させる。

 そっ、と杏子に微笑むと、素早く目線を左右に振る。彼女たちの見張りに付いていた2人の兵士もが、何事かとシェーファーたちのテントに見入っているのが分かった。

(逃げるなら――今しかない……!)

 そう、直感した。今までも脱走の機会を窺って周囲を警戒していたが、今ほど彼女たちへの注意が逸らされている状況は無い。なにが起こったのか知らないが、このチャンスを活用しない訳にはいかないのだ。

 だから、逃げるよ、と杏子に小さく囁きかけようとした時だ。

 血相を変えたシェーファーが、こちらを振り返った。

「おい、その娘たちを連れて来い!」

 何事かを叫んだ瞬間、兵士たちがハッとしたようにこちらを振り向き、由梨花の腕を掴んでくる。

(あっ……!)

 チャンスが、ポロリ、と手から滑り落ちた。

 もう一人の兵士は杏子の右腕を掴んでいる。2人を左右から拘束して、前に引っ張ってきた。テントまで連れて行こうとしているのだ、と分かった。

「やっ、ちょっと、……離して!」

 身体を捻って男の手から逃れようとするも、ガッチリと掴んで離さない。兵士たちにとっては微弱な抵抗を続けつつも、結局はシェーファーの元へと、引っ立てられるように連行されてしまう。

 ギョロリ、と睨むように、シェーファーの血走った瞳がこちらへと向かう。その威圧感に心が竦み、由梨花は言いようの無い不安感に包まれてしまった。

「貴様ら、こいつに見覚えがあるか!?」

 イントネーションに大仰な訛りがあるが、シェーファーが発したのは英語だった。完全ではないが理解のできる言語が出てきたことに驚いて、由梨花の身体は硬直してしまう。

「見覚えはないかと聞いているんだ!」

 シェーファーが指し示したのは、モニター上で静止した画面だった。赤外線式の暗視カメラだろうか、白と黒のみによって彩られたその映像には、公園の日除けが付いたらしいベンチと、一人の少年が明瞭に映し出されている。

 そう――少年、だった。それも、由梨花にとって、とても親しい間柄にある存在。

(お、お兄ちゃん……!?)

 全身が雷に打たれたかのような、そんな衝撃が由梨花の中を駆け巡る。鋭利な視線に引き締まった表情は、普段の彼からは想像もできないような冷たく殺気に満ちたものだが、見間違えるはずは無い。映像の中に映っている人物は、紛れもなく中村 聖杜その人である。

「な、なん、で?」

 疑問が口からついて出ていた。右手に握った杏子の掌が、キュッ、と力を込めたのも分からなかった。それほど彼女の思考は混乱しているのだ。

「おい、聞いてるのか! ワシの質問に答えろ!」

 シェーファーの粗野な声すらも、数瞬、頭の中に入ってはこなかった。パンッ、頬を張られた感触がして、視線が曲がって痛みが理解できるようになって、ようやく由梨花の正気が帰ってくる。

 男が、もう一度、同じ質問をぶつけてきた。

「こいつに見覚えは!?」

「こ、この人が、どうしたって、いうの?」

 どもったが、何とかそう、返していた。拙い英語ながらもシェーファーには通じたらしい。質問に質問が返されたことに青筋を浮かべて怒りを発散した男はしかし、次の瞬間には薄ら笑いを浮かべて、後ろを振り返る。

「再生しろ」

 映像が動き出す。それと同時に、シェーファーが由梨花へと振り向いた。

「教えてやろう。こいつはな、二時間ほど前にこの山に入り込んだネズミだよ! 何のつもりか知らんが、我々の築いた防衛線を突破して、この頂上へと向かってきてるんだ!」

(なっ……?)

 由梨花は言葉を失った。というよりも、男の言葉が理解できなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。内容を聞き間違えたのかとすら思った。

「今さっき映像が届いた! これはつい数分前の画像だぞ、こいつがこの場に居た全員を殺して見せたんだ!」

 その通りだった。映像の中で、聖杜が腕を振るった瞬間、兵士と思しき人影が出血して倒れている。クリアな映像の中で、返り血を浴びた聖杜がさらに他の人間に向かって刃を振り上げる姿が、まだまだ続いていた。

 由梨花の見開かれた瞳に、我知らず、涙が浮かぶ。

(そんな……そんな――っ!?)

 この、現実離れした状況の中で、より現実感の無い映像が、目の前で流されている。その余りにも信じられないような光景に、由梨花の頭は、スパーク寸前だった。

「こいつが何故、我々に楯突くのか? それも一人で、だ! 身形からして子供、こんなのが実力部隊のコマンドーだとは思えん。ならコイツがこんなことをしている理由は、お前たちが絡んでいるとしか思えんのだよ!」

 シェーファーの言葉は続いていたが、由梨花の頭の中には入ってこなかった。ただ、その信じられない――いや、信じたくない映像だけが、視覚を通して由梨花の脳に焼き付いていく。

 自然、由梨花の手が自分の口を押さえていた。溢れ出る涙が指先から手の甲へと流れ落ち、歪んだ視界はしかし、聖杜の姿を捉え続ける。

 ギュッ、と、由梨花の身体が抱き締められた。杏子が彼女の腰に手を回している。それに視線を向けると、彼女はニッコリと、笑っていた。

「また……聖杜くんが、助けてくれる、よ。あの時と一緒。あの時みたいに、私たちを、助けてくれる」

 無邪気な微笑を湛えた杏子の姿は、由梨花の目に、強烈なインパクトを残す。

(あんず、ちゃん……?)

 解らなかった。もう、何もかもが、解らなかった。ただただ困惑することしかできない由梨花が、凍りついたように杏子の笑顔に魅入られて、シェーファーの表情がさらに怒りを追加させたことも気付かず、ただ映像だけが流れていく。

 モニターの中で――

 唐突にカメラからの受信が途絶え、画面に砂嵐が満ちる。だがその横のモニターが再生されると、空中アングルのそれが、崩れ行く崖と、隅に映り込んだヘリコプターの映像を流した。そして、隅に映っていたヘリコプターが左右にぶれ始めると、そちらへと焦点が切り替わる。その直後にヘリから黒い影が飛び出すと同時に、ヘリが急激に高度を落とし始めると――

 そこで一旦、映像がストップされる。

 ガタン!

 突如、響いたその音に、全員が驚いて首をそちらに向けた。

「冗談じゃねぇぞ!」

 声を張り上げたのは、くすんだブロンドの大柄な白人だった。確か仲間に、シンプリシオ、と呼ばれていた人物だ。

 立ち上がった拍子に椅子を倒したのだろう、パイプが組み合わされたそれが地面に倒れ伏している。シンプリシオの焦ったような蒼白の表情に、その場の誰もが疑問を持った。

「どうしたんだ?」

 ウィルソンの落ち着いた声が掛かる。

「冗談じゃねぇっつったんだ! あんな化け物を相手に戦えって言うのかよ!?」

 シンプリシオの声は恐怖に彩られていた。その余りの焦りように、シェーファーが食いつく。

「知ってるのか、この男を?」

「ああ知ってるよ! こいつは悪魔だ! 『ハインドの悪魔』だよ!」

『なっ……』

 ザワッ、と周囲の男たちにどよめきが走った。呆気にとられている、と言っても過言ではないほど、空気が揺れたのだ。

「お前らも知ってるだろ!? ヤツが出てきたのは一度だけ、2年前の9月14日、ウラジオストクの港だけ! 見てねぇ奴らは知らねぇだろうが、俺はその現場で、アイツの力を見てるんだよ!」

 まるで全員に訴えかけるように、シンプリシオは声を張り上げる。

 ――2年前、ロシア極東のウラジオストク港で深夜に闇取引が行われていたのだ。麻薬やキャビア、希少動物から核関連物質まで、ありとあらゆる違法商品が港に運び出され、マーケットで値が付いた順から船で各地に移送される。ロシアン・マフィアが主催し、世界各地域の裏社会を取り仕切る男たちが参加した闇の見本市に、主催者側の警護としてシンプリシオも居合わせていたと言うのだ。

「あの日、闇市場が開かれると知ったCIAは、よりにもよって最悪のエージェントを送ってきやがった……『バトレニ』とその仲間二人、たった三人で港を制圧しやがったんだ!」

 ――劣勢を知ったロシア・マフィアが現場に投入したのが、旧ソ連で開発された強襲攻撃ヘリ、Mi-24『ハインドD』。兵員輸送能力と対地攻撃能力の二つを併せ持つ空飛ぶ戦車が投入され、形成は逆転したかに見えた。

「チタン合金に覆われた頑強な装甲で、RPGもスティンガーも耐えてみせるあのハインドDを、あのガキが潰して見せたんだ! 俺たちの目の前で! 墜落して燃え盛る機体を前に、あんな子供が、俺たちの何倍もデカイ本物の悪魔に見えた……!」

 シンプリシオの顔面は青白く、ブルブルと全身が震えていた。その時の衝撃を思い出しているのだろうか、彼の目は何処と無く、焦点が合っていなかった。

「とにかく、これで分かっただろう!? あんな怪物と戦うなんて、分が悪すぎる! ここは諦めて撤退した方が良い!」

 絶叫に近いシンプリシオの訴えかけに、その場の全員が、水を打ったように静まり返っている。その中で額から大粒の汗を流したシンプリシオ本人の、腹の底から声を絞り出したことによる、荒い息遣いだけが響いていた。

 そっと、シェーファーが、口を開く。

「だが……なぜ、映像の中のこいつが『ハインドの悪魔』だと、わかるんだ?」

 カラカラに渇いたような声だった。

「同じ、なんだよ」

 シンプリシオの声は、すでに嗄れてガラガラだった。

「ハインドを落とした時も同じだった……こいつは銃もミサイルも使わずに、空中のヘリに取り付いて、破壊してるんだ! そんな芸当のできるヤツは『ハインドの悪魔』しかいねぇ! それに、俺はヤツの顔を見てる! あどけねぇ顔で人を斬る姿は、アイツそのものだ!」

 シンプリシオの気迫に圧されるようにして、シェーファーの表情に怯えが走った。硬直したその場の空気を見回すようにシンプリシオが首を回し、ふぅ、と息を吐いて振り返る。

「とにかく、俺はこの仕事を下りるぜ。もう悪魔の前に立つのはゴメンだ。お前らも、悪いことはいわねぇから帰ったほうが良い」

 そう言って、彼は歩き出そうと足を出す。誰もが呆然としてシンプリシオの背中を見詰めていた。由梨花もまた、彼の言葉の全てを理解した訳ではないが、その内容に混乱を深めて、事態に付いていけない状態だった。

「待てよ」

 シンプリシオの足が、三歩ほどで停止する。彼の横には、椅子に腰掛けたラテン系の男。マルコが腕を組んで、白人の精悍な顔付きを見詰めていた。

「大層な演説ぶっこんどいて、自分自身はオメオメ退散か? んな事が許されると思ってんのかね」

「ああ、俺は本気だ。マルコ、お前だって命が惜しけりゃ、アイツに戦いを挑むなんて考えはよせ」

「タッハハ。お前、ホントに怖気づいてんのな。心配すんな、アイツも『フープス』だろうが、どんな力を持ってるのか知らんが俺たちにゃ敵わない」

「そうだとしても……もう、俺は『ハインドの悪魔』の前に立つ勇気は無い。もう闘争心が折られてるんだ、悪いが辞退させてもらう」

 ふい、とシンプリシオがマルコから視線を外し。

 マルコの瞳が、鋭利な輝きを帯びた。

 ゴッ!

 瞬間、シンプリシオの巨体が炎に包み込まれる。

「う、ゴォォォォォォオッ!?」

 何が起こったのかわからない、そんな響きを帯びた叫び声が、シンプリシオの口から発せられた。口を開けた拍子に炎が喉の奥に入り込み、悲鳴すらもすぐに聞こえなくなる。身体の中まで熱が入り込んだ男は悶え苦しみ、身体中を振り回しながら、無様にもがいて見せた。

 煌々と照る赤い光が炎から発散し、その様子は凄惨その物であった。由梨花はその光景に息を呑み、自然と走る震えに膝がガクガクとして立っていられない。尻餅をついた時、視線の先でシンプリシオが力尽き、膝からくず折れて、動かなくなった。

 肉の焼ける生々しい匂いが充満し、その胃を締め付ける香りに、何人かが嘔吐する。ウエッ、と吐瀉物が地面に撒き散らされる様に、離れた場所に居る由梨花でさえ、胃液が逆流してくるのを感じた。

「やり過ぎだぞ、マルコ」

 ウィルソンの声。仲間が一瞬で奇妙な殺され方をした、その衝撃で全員が茫然自失している中、平然とした顔で彼はマルコを窘めているのだ。

「うるせぇな、お前だってやる気満々だったじゃねぇか。風がユラユラ動いてたぜ」

「殺すつもりは、なかった」

「あー、そうかい」

 面倒そうにウィルソンにそう返したマルコは、次には棒立ちしている者たちを見据えると、

「ま、シンプリシオのことは気の毒だが、ヤツの言ったことぁ忘れるんだな。これから逃げようとするヤツは同じ末路を辿る。……なぁに、『ハインドの悪魔』は、ベントと俺が殺しといてやるよ。だから心配せずに仕事に励めや」

 どこか楽しむような彼の言葉に、ビクリ、と全員が反応する。チラリとシンプリシオの成れの果てに目を向けて、すぐにコクコクと頷いたのだ。

(なに、これ……一体なんなの、これ、いったい……!?)

 背筋を突き抜ける冷たい戦慄。由梨花は怯えきっていた。

 目の前の異常な光景に。

 その異様な現実に。

 ガタガタ、ブルブル、と身体中が震えている。その余りの恐怖に、肩を抱き締めて、泣き濡れた。

(恐いよ……助けて、誰か……! 恐いよ、お兄ちゃん!)

 と――

『だ、れ――?』

 その声は、とても遠く、神秘的ですらあった。

 ハッ、としたように隣を振り仰ぐ。するとそこに、どこか彼方を見た、杏子の姿があったのだ。

「あんず、ちゃん?」

 由梨花の声は届いていない。少女はただ一点を見詰めて、そっと、囁きかける。

『だれ? 私を、呼んでる、の――?』

 淡い光が降り注ぐ。その光の粒子が、杏子の体を包んでいるんだ、と気付いた時に、由梨花は眼を見開いた。発光しているのだ、蒼く、静謐に、弱々しいながらも、杏子は自ら光を放っている。

「ぅおおっ!」

 杏子の異常に気付いたのは由梨花だけではない。歓喜の呻きを響かせて、シェーファーが光る少女を見詰めていた。杏子の視線に笑顔を浮かべ、彼は先程の非常事態を忘れたように、仲間たちを振り返る。

「何してる! 時間だ、行くぞ! 準備するんだ!」

 兵士たちが振り向くと、杏子の神秘的な輝きに皆が目を丸くし、息を呑む。唖然とした表情はしかし、すぐにシェーファーの怒鳴り声で引き戻された。

 慌しく準備をしだした男たちの中で、由梨花だけは、ただ呆然と、杏子の様子を見詰めていた。

 時刻はもう、12時を示していた。

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