第五章①

第五章:「ハインドの悪魔」



 聖杜が目を覚ました時、そこがどこだか、分からなかった。

 ただ、目覚めた瞬間には、もう頭が冴え渡っている感覚だけは本物だったのだ。自分が意識を失うその瞬間までを記憶に留めている。それが理解できているから、だからこそ聖杜は、まるで自分が瞬間移動したかのような奇妙な錯覚を覚えたのである。

「……………………っ!?」

 一挙動で身体を起こしていた。立ち上がって始めて、自分に被っていた掛け布団の存在に気付き、体が重かったのはこのせいか、と納得した。足元のフカフカとした感触は敷布団。聖杜はここに寝ていたのだ。

(なんで……?)

 どこだ、と思う。見回してみて、そこが和室なのだと気付いた。障子が閉じたその部屋は、僅かな光が外から透けているだけで、ほとんど真っ暗な状態だということが分かった。

 夜なのだ、と気付いて、愕然とする。気絶した時はまだ昼日中だった。五月下旬の今の時期、太陽はそんなに早く沈むはずが無い。でも、聖杜にはそこまでの時間の経過が感覚として残っていないのである。

「……くそっ!」

 焦燥感。まるでタイムスリップでもしたかのような違和感に襲われつつ、事態が把握できない今の状態に、聖杜は強烈に焦れた。

 どうなっている――?

 思い浮かぶのは、記憶の中の、つい先程。自分だけが倒れて、二人の義妹は誰かに押さえられていた。そしてそれと重なるように、ここには自分しかいないのである。

 錯乱が頂点に達して、今にも喉奥から絶叫が飛び出そうとするのを必死に宥め、聖杜は静かに息をついた。

「起きたんか?」

 襖の奥から聞きなれた声がした。

「起きたんじゃな、聖杜。ならこっちに来なさい」

 寿重だ。彼の声に導かれるように襖に手をかけて、そこで聖杜は自分が寒いと感じていることに気付いた。汗だくで全身が濡れている。

 奥の部屋は明かりが点いていたので、急激な光に目を細めた。眩しい。

 白色光に満たされた茶の間、上座に腰を落ち着けた祖父がこちらに視線を向けていた。その眼光は鋭く、昼間までの優しいお祖父ちゃんの面影は無い。

「座りなさい」

 促され、聖杜はゆっくりと歩み寄る。寿重の正面に来てから膝を折り、そっ、と座布団に尻を乗せた。その時にはすでに顔を引き締め、全ての困惑を振り払っている。現状で不明な点は考えても仕方が無い。目の前の人物が情報を与えてくれるのを待つのみである。それが、過去に叩き込まれた冷静な対処法なのだ。

「何故ここに居るのか、分かるか?」

「いいえ」

 聖杜は正直に答えた。そうか、と寿重が呟くが、それは確認の意味だろう。

「駅で倒れたと聞いた。病院に運び込まれた時は酷い低体温状態だった、とな。凍傷も無く、末端神経が生きているのが奇跡的な程だった、とは医者の言葉じゃ」

 聖杜は頷いた。低体温状態。つまり凍えたのだ。梅雨入り前のこの時期に。

「男が目の前に立った、そう気付いた瞬間に全身に怖気が走りました。それが戦慄ではなく寒気だと感付いた時にはすでに、全身が動かないほど熱量が落ちていたんです」

「ふむ。今は五月だ。季節はずれの寒気にしては、少々、局所的に過ぎる。つまりお前は、その男かそれに関係のある人物の特殊能力に引き込まれた、ということだな」

「それに相違ないはずです。俺が気を失うほど温度を低下させられたのだから、相当な使い手でしょう」

「二人――由梨花と杏子はどうなったか、分かるか?」

「ええ」

 そこで聖杜は一拍置いた。自分の記憶を確認するためだ。

「攫われました。視界は歪んでいましたが、二人が誰かに確保される姿は、俺が記憶しています」

 言った後で、ギリッ、と奥歯を噛み締めた。悔恨が聖杜を襲う。

「……すみません、俺のミスです。二人の安全は、俺が護らなければいけなかった――」

 抑えられそうにない怒りを無理矢理に抑える。グッ、と握った拳を震わせて、聖杜は震えそうになる自分に必死に耐えた。落ち着け、と唱えなければ冷静さなど、とても保てそうにない。

 寿重はそんな聖杜の姿を無視するようにして、

「お前を置いて攫って行ったのなら、初めから二人を狙っていたと言うことだな。なにか心当たりはあるか」

 そっ、と首を振る。

「分かりません。重成が、――杏子の実家が襲われたのと何か関係があるんだと思うけど、その理由だって見当もつかない。何に警戒すればいいのかも、分かってはいませんでした」

 これは弱音であり、また言い訳である。聖杜自身、この言葉を話さなければならないことに、惨めさを感じている。

 何故なのか、その理由が分からなかったから対処のしようが無かった。そう言っていること事態、自嘲の対象である。杏子の家が襲われたのだ、その事実を鑑みれば、いつ何時も警戒を怠るべきではなかったはずである。

 怒りに眉根を寄せて、一旦、きつく目を閉じる。瞼の裏に、自身への憤慨を閉じ込めて、開いた時には冷静さを取り戻そうと決めた。

 寿重は聖杜の報告に、ふむ、と思案げな顔を浮かべる。自分の中で情報を検討していたのだろう、すぐに視線を聖杜に戻すと、口を開いた。

「和杜に連絡を取っての。いくつかの情報を貰った結果、犯人グループと思われる奴らの存在を特定した」

 中村 和杜――10歳上の聖杜の従兄弟。現在の中村家で最も期待を集める存在。今はアメリカの情報機関に雇われており、諜報員としても工作員としても最高の技術を誇る男だ。過去に一度、和杜と行動を共にしたことがある聖杜である、彼の情報の信頼性は熟知している。

「『ロテン』という組織が日本に入り込んだらしい。主に欧州で活動し、政権転覆の為の裏活動を行っている、いま最も警戒されている組織だそうだ」

 スッ、と寿重の瞳が細められた。

「名の知れた庸兵や暗殺者を囲い込み、私的な軍隊を創設して暴力的な犯罪行為やテロ・ゲリラなどを支援している。だが組織の実態は不透明で、巧妙な手口と政治的影響力から情報は少ないのだ」

「なら、どうやって、そのロテンがこの国に来たことを付きとめたんですか?」

 初歩的な疑問だが、これは重要だ。和杜――というよりもアメリカは、この組織についての情報をある程度は持っているという事になる。政府組織の一員である和杜がリークできるほどに、実態を知っているということなのだろう。

 寿重はその質問を予期している。聖杜には、祖父の瞳に言葉を引き出された、というイメージがあったのだ。

「これを見ろ」

 紙切れが目の前に置かれた。A4用紙に印刷された、男の写真だ。太った体躯とスキンヘッドに近い髪型、彫りの深い顔立ちは欧米人だ。皺が刻まれた顔に青い瞳をギョロリとさせた白人が、その写真には写っていた。

「『グリューン』という製薬会社は知っているか? 90年代初頭に急速に台頭したドイツ系の大手だ。そこの創業者にして現在は会長を務める、セバスチャン・シェーファーという人物。写真のその男が、ロテンの幹部に名を連ねているらしい」

 その会社名は、聖杜も聞いたことがある。旧東ドイツで産声を上げたその会社は、東西統合の混乱の中で急成長した企業だ。一説によるとかなり悪どい手口で業績を上げ、政治的な圧力を利用して大きな地位を築き上げたと言われる、世界的な製薬会社である。

「ということは、この男が日本に……?」

「そうだ。そいつの存在が確認された。それと幾つかの大型貨物が不法に入国していたとの事だ。入国管理局の人間が買収されていたとの見方が強いが、おそらくは武器を国内に持ち込んだのだろうな」

「……何のために?」

 何のために、二人を攫ったのか。何のために、重成たちを殺したのか。何のために、この国にやってきたのか。

 疑問が浮かんだ次の瞬間には、聖杜の心に憎悪が広がった。憎しみと悔しさが綯い交ぜになり、怒りを込めて、写真の男を睨みつける。抑えたはずの感情がまた噴出しそうになって、聖杜は体を抱くように肘を握り、必死に感情に耐えた。

 今はまだ、怨恨に駆られていい時ではない。冷静さを装って、三度、寿重に向き直る。

「理由はこれだろうな……古い新聞だから捜すのに苦労したがの」

 言葉通り、寿重が古新聞を寄越してくる。それに目を落として、大きく書かれた文字に眼を見開いた。

「『神隠しにあった鈴木 杏子ちゃん(4)、朝尾山の麓で発見される』――? これは、どういうことですか……?」

 10年前の記事だ。内容は、行方不明になった女の子が見つかった、という物だった。それ自体は不思議な内容ではないが、問題は女の子の名前だった。

「そうじゃ、あの杏子じゃよ。10年前に杏子は、5日間も行方を眩ませるという事件を起こしている。若干4歳の女の子が神隠しにあったと、当時の世論は大騒ぎしたもんじゃ」

 間違いない。写真は古ぼけているが、杏子の面影は残っている。両親の名前も確かめたし、載っている情報は全て、義妹になった女の子の過去を示していた。

 だが、それで疑問が解決したわけではない。これと今回の件に、直接の因果関係は見受けられないのだ。

「杏子が行方不明になったことは分かりました。でも、それが理由にはならないでしょう?」

 素直にそう口に出す。しかし寿重は首を振り、

「『朝尾山の麓』、と書いてあるじゃろう。あそこは『里』への入り口に近い」

 ハッ、とした。中村家にとって非常に重要な、『里』という言葉。その単語の意味するところに思い至ったのだ。

「杏子は一度、『宙水の里』に招かれておるのじゃよ。当時のワシは事件後に里に行って、その事実を確認した。確かに子供がいた、その気配を察しておる」

 中村家の故郷と呼ばれる『宙水の里』。現代日本において未確認であるその場所は、今や誰も住む者の無い聖地である。聖杜も一度だけ訪れたことのあるその地は、不思議な力を漂わせた、特別な存在であることを感じ取っている。

 里に入るには特殊な条件をクリアせねばならない。まさに、『招かれた者』だけが入り口を開けることのできる秘境なのである。そこにただの子供が迷い込む訳はない。つまり杏子は、里に入る資格を持った存在だ、ということか。

「奴らはなんらかの方法で杏子のことを知ったんじゃろう。となれば、里の情報も知っている、ということじゃ。招かれたことのある杏子なら里へ入ることができる、奴らの狙いはそこにある」

「でも、何故? 里に入りたがる理由は? 確かに里は俺たちにとって神聖な地だけれど、でも犯罪組織があそこに入って何の得があるというんです?」

 聖杜は混乱したように疑問を口走った。分からないのだ、あの里は誰も住んでいないし、特に何があるというわけでもない。彼らが物見遊山でこんな狂気を発動させるとも考えられない。

 その困惑を見て、寿重が溜息を吐いた。なるべくなら言いたくなかった、そういう顔だ。

「狙いはな、『花』じゃよ」

 呟くような声。その言葉の内容は、この場の雰囲気にそぐわない気がして、聖杜は眉根を寄せる。

「はな?」

「そう、花じゃ」

 寿重はそう言いながら、一冊の本を取り出した。昼間、義妹たちと昔話を聞いた、あの本だ。

 パラリ、とページを捲って寿重は本に挟んであった押し花を手に取る。赤と青の可憐な花弁、それも昼に見たものである。

「この花を我々は、『アカソラ』、『アオソラ』と呼んでいる。漢字で書くとそのまま、赤空と青空じゃ。これは里にだけ生息しとる。泉を覚えているか? あそこの周りに、梅雨前の今の時期に花を咲かせるんじゃよ」

 まるで、伝説と、同じように――

 寿重が、ふと、懐かしむような表情に変わる。だが次の瞬間には顔を引き締め、

「この花は特殊な力を持っている。加工して飲むことで、人に大きな影響を与えるんじゃ。『アカソラ』は身体の中の気を増幅させることで肉体を強化し、人体とは思えぬほどの身体能力を得る。一方の『アオソラ』は身体の中で気の流れを操作し、特異な能力を覚醒させる。もちろん効能には個人差があるものの、驚異的な力をもたらす薬であることに変わりはない。どこでその事を知ったのかは分からんが、この花を手に入れようとしているのは明白じゃろう」

 寿重の顔は、苦々しげに歪んでいた。当然だろう、大事な孫娘の二人を誘拐された上に、聖地である里にまで土足で踏み込まれようとしているのだ。

「この二つの花は里の秘宝じゃ。そして、絶対に世に広めてはならないものでもある。常人が使用することは危険な副作用を招く事に繋がる。それに強大な力を持った薬が流布されれば、世界は混乱へと向かうだろう」

「………………」

 鋭い眼光が聖杜を射抜く。寿重の言葉の重さと、その気迫に圧されたのだ。背筋に怖気が走り、その冷たさに押し黙る。その情報の衝撃に、聖杜の頭は混乱しているのだ。

(『ロテン』が私設軍隊を持っているのなら……世界は戦いへと向かうだろう。テロ組織とも繋がりがあると言っていたんだ、戦火は地球規模で広がる)

 そんな想像が過ぎる。身体を緊張が支配していた。

 だがそれは、世界を案じての正義感では、ない。

(杏子……)

 可愛い義妹が、親友の大切な妹が、あの可憐な少女が利用されようとしている。しかも世界を破滅へと導く可能性がある悪事の発端として。

 許せない。

 それだけは、絶対に阻まねばならないことなのだ。

 だがもう一つ、気がかりなこともある。

(由梨花は、無事なのかな……)

 連れ去られた義妹。杏子と一緒にいるはずだが、彼女に利用価値はない。ロテン――セバスチャン・シェーファーという男が何を考えるのかは分からないが、もし由梨花に何らかの危害を加えていたとしたら。

 聖杜は、震えた。

 最悪の事態を考えることなどできなかった。怒りが全身から噴出し、今にも駆け出したい衝動に駆られる。肺の奥からありったけの空気を搾り出して、喉がひりつくほどに叫びだしたくなってしまう。愛する少女のことを考えると、その身のことを案ずるだけで、まるで心が焼かれてしまいそうだった。

「聖杜」

 そんな聖杜の様子を理解しているのだろう、寿重がさらに声音を落として話しかけてくる。それは、落ち着け、という意味の一種の脅しである。だが同時に、孫への労わりの配慮もあるのだろう。

「敵の中には『輪技使い』がいる。お前を凍えさせた男だけではないだろう。そうなると、一人で行動を起こすのはかなり危険な事態になる」

 真っ直ぐに、寿重の瞳が聖杜を見詰めていた。真摯な視線だ。慈愛に満ち、心底から聖杜を気にかけている。それだけ、今回の事件は大きなことなのだ。

 しかし聖杜の腹はすでに決まっている。

 輪技使い――体内を流れる気と、この空間に溢れる気の奔流とを接続して循環させ、奇跡のような特殊な現象を引き起こす能力を持つ者。自身と世界を気と言う輪で繋ぐ技術、『輪技』と総称されるその力は、戦闘において絶大な効果を発揮する場合が多い。その輪技使い、さらには軍隊クラスの装備を持った部隊との戦いは厳しいものになるだろう。だが、聖杜には退けない理由がある。

 大切な人を、助けなければ、ならないから。

「お祖父ちゃんの言いたいことは分かります。一人で片をつけるようなことじゃない。だけど、人任せにしてたら間に合わないかもしれない。……それに、今は誰かに合わせて動くなんて、そんな器用なことはできそうにないんです」

「そうか……」

 寿重は頷いただけだ。この答えも予期していたのだろうか。

 少し、待ってなさい。老父はそう言って立ち上がり、襖を開けて奥座敷へと向かった。ガサゴソと何かを探す音がして、ややあってから居間へと戻ってくる。

 彼の手には、白い棒状のものが握られていた。

「ほれ」

 差し出されたそれは、白木造りの鞘と柄を持った日本刀のようだった。鞘の長さから考えると、目算で刀身が二尺一寸ほどであろうか。持った時の重量感に、真剣だ、と確信する。鯉口を切ると、鞘から覗いた美しい乱れ刃の銀色が、鈍く白色光を反射した。

「それはな、戊辰戦争の前に、ある刀匠が打ってくれた刀じゃ。銘は『咲太郎』と言っての、ワシのじいさんの名前が付けられているんじゃよ」

 寿重は少しだけ、懐かしいような寂しいような、複雑な表情を見せた。

「そいつを持って行け。手入れは完璧じゃ、使い方次第なら12層重ねのケブラー製ボディーアーマーすら斬り捨てるじゃろう」

「……大切なものなのでは?」

「確かに、少々ばかり惜しい代物じゃな。だが、隠し持つにはそろそろ限界での。丁度いい、お前が使い潰して来い」

 ニコッ、と微笑んだ寿重の表情に、聖杜はそれ以上を言うのは止めた。代わりに、深々と頭を下げて、ありがとう、と呟いた。

 顔を上げた時には、寿重の眼光はすでに先程のように細められていた。威厳に満ちたその態度は、一族の長としての誇りを携えたものである。

「聖杜よ。里は我らにとって崇高なる地だ、下賤の賊なぞに荒らされるわけにはいかん。『泉軍』の一員として、必ずや敵方の思惑を阻んでみせろ」

「了解しました」

 素直じゃないな、と思う。正直に、2人を救出して来い、と言えばいいのに。故郷を護るため、そんな名目を借りられなければ命令を下せない、律儀なこの老人に少しだけ呆れる。

 だが、この理由も事実ではある。かつて『宙水の里』を拠点とした隠密集団、その実力は一国の戦力にも匹敵すると呼ばれた『泉軍』の総代を務めてきた中村家。忍の末裔として、里を守護する義務を負った一族でもあるのだ。

「――すまんな、聖杜。今やワシは老いに負けた。お前一人に全てを任せるしかないのが、情けなくてしょうがない」

 祖父が搾り出すように呟いた言葉。寿重の弱音を聞いたのは初めてだ。和杜が戻れない状態で、正孝も不在、他の親類も頼れない現状では、老人の心が弱気になるのも仕方ないだろう。しかし聖杜には、不安など心の中に一片も存在していない。

 スッ、と聖杜は立ち上がった。左手に携えた刀を握り締め、焦燥感を追い出すために長く息を吐く。怒りが渦巻く心を無理矢理に沈め、聖杜は祖父に言葉を投げた。

「今回は、気を使う余裕がないんだ……きっと、一人の方が、都合がいいよ」

 声の冷たさには、気付かなかった。もう自分のことですら分からない、すでにスイッチが切り替わっている。

 聖杜は鈍く沈んだ輝きを瞳に宿らせ、冷めた感情で一歩を踏み出す。居間から出る時にだけ振り返って、

「いってきます」

 とだけ言った。寿重はもうこちらを見ずに、気をつけろよ、と返して、座っている。

 廊下に出て、リビングにも明かりが付いているのを発見し、中へと入った。テーブルの上に財布や地図などが用意してあるのを見つけ、寿重にそっと感謝する。

 あとは間に合うかどうかだけが焦点だ。時計をチラリと確認し、踵を返して玄関へと向かった。

(大丈夫だ、きっと、まだ行動には移っていない。二人を助けることはできる)

 不安も恐怖心も、今の聖杜には感じられない。麻痺しているといってもいいだろう。鋭い眼光で前だけを見詰めると、怒りや憤りで複雑に絡み合う自分の感情を必死に押さえ込み、ドアノブに手をかけた。

 開け放つ。外の空気に触れた時、湿気の混ざった、しかし冷たい空気が頬を撫で、その感触に瞼を下ろす。

 思考の中に一筋だけ、冷静で冷徹な感情が沸き起こったのを感じ取った。それが逆に自分をより奮い立たせたような気がして、瞳を開放すると、迷うことは何もないのだ、と理解した。



 電車で数駅、そこからバスで1時間程度。乗り物に揺られて辿り着いた場所は、朝尾山の麓、数件の民家が辺りにチラホラしているくらいの、人気の少ない山中であった。

 標高1500メートル強の朝尾山を見上げるところにあるバス停。白木の刀を竹刀袋に入れて携えた聖杜は、ピリピリした緊張感を表に出さないようにだけ気を使いながら、ゆっくりと周囲を見回した。

 客のほとんどいないこの場所は、先程のバスが最終便だ。むしろこの時間に乗せてもらえただけでもありがたいというものだろう。その事に感謝しながら、目の前に広がる斜面と、そこに鬱蒼と生えた木々に視線を走らせ続ける。

 数秒だけ止まっていた。バスのエンジン音が聞こえなくなってから、ゆっくりと歩き出す。森の切れ間をしばらく進むと、小さな駐車場のような空間が現れた。

 二台の車が停まったその場所、奥に見える細い未舗装の山道が続いている。地元民にとっては神聖な御社へと伸びている山道だが、さらにその先へと進めば朝尾山の頂上に通じる道路へと出ることができるのだ。徒歩の人間にとってはそっちの方が近道である。

 そして、その山道は、不自然な形で遮られているのだ。

 駐車している車はジープ・タイプ。山道に強いラングラースポーツを一瞥し、それに乗ってきたであろう大男たちへと歩み寄っていった。

 明らかに不自然な外人が四人、入り口で銃を携えているのだから、不思議に思わない者はいないだろう。ウッドランド迷彩の戦闘服にドイツ製の自動小銃、弾倉や手榴弾にライトなどを入れたベスト、完全装備と言える格好の異邦人たちも聖杜に気付いたようだ。スリングで吊った小銃の引き金に指をかけたまま、何事かを呼びかけてくる。聖杜は竹刀袋の紐を外し、ゆっくりと刀を取り出した。

「コレ以上、来チャイケナイ。戻ッテ」

 一人の男が近づいてきて、拙い日本語でそう呼びかける。他の三人は特徴的なイントネーションで話し合っていた。大柄で金髪、白人。顔立ちや言語から見てドイツ人だろう。

「聞コエテル? 戻ラナキャ、撃ツ」

 やれやれ、とでも言いたげな気だるそうな仕草。ストックを肩に当てて銃口を上げた男の緊張感の無さを見ると、聖杜が手に持っているものをただの棒だとでも勘違いしたのだろうか。

 構わず歩みを続ける少年に、男は銃口を少し下げた。威嚇のため地面を撃つつもりだろう、跳ね返った弾が脚を掠めれば引き返すとでも思ったのだろうか。

 男がトリガーを引き絞る。

 聖杜は刀を鞘走らせた。

 銃声。チュイン、と二十二口径弾が砂利に弾け、同時に男が血を舞わせた。

 ふわり、竹刀袋が宙を踊っている。右袈裟懸けに傷を走らせた男が倒れ込むと、聖杜はそいつの横を通り過ぎ、すでに鞘に収めていた刀の柄を握り、三人を見据える。

 状況を理解した男たちの対応は素早かった。真ん中の男が何事かを叫び、瞬時に三人が横に開くと、銃口を上げて聖杜をターゲットしてくる。しかしその瞬間には聖杜が間合いを詰めているのだ。右側の標的を横薙ぎに斬り伏せ、即座に反転して中央へと近づく。聖杜を見失っていたそいつがこちらに顔を向けた瞬間、その喉を刃が通り過ぎていた。

 頚動脈が血飛沫を撒く。最後の一人がこちらを向いて、驚愕に瞳を見開いた。

 ダッ、と駆け出し刀を構えると、男が叫び声を上げながら発砲した。セミ・オートで二回、それ以上は右腕が切断されて、撃てないのだ。腕を斬った返す刀で、聖杜はそのまま男に刃を突き出す。その一連の動作が余りにも流麗で、もしかしたら男は、手が無くなったと感じるよりも速く、胴を貫かれていたのかもしれない。

 聖杜が体を引き、男が後ろへ倒れ込む。その瞳が見開かれたまま、ズゥン、と死体が転がり、四つの場所にはそれぞれ紅い水溜りができていた。

 だが聖杜はその様子にはもう興味を失している。表情を変えずに刃を収めると、上へと伸びた山道を見据えて駆け出した。


 バラバラバラ。

 ヘリコプターの回転翼が奏でる単調な振動に体を揺さぶられながら、軍用へリの硬いシートの感触に痛くなってきたお尻を気にしつつ、由梨花はギュッ、と右手を握り締めた。それに杏子の小さな左手が握り返してくる。先程までブルブルと震えていたその手が、ようやく少し落ち着きを取り戻してくれたようで、それに安堵の息を吐いた。

 機体の中には、正・副パイロットを含めて9人が存在している。目の前に、上質の素材を使った仕立ての良いスーツを着た初老の男性。青い瞳に丸刈りの頭、恰幅の良い身なりで、尊大な態度の白人だ。話し言葉が英語ですらないので会話は分からないが、おそらくこの男が最も偉い立場なのだろう。その両脇を、大きな鉄砲を持った迷彩服の男が2人、固めている。

 杏子の右隣には、GパンにTシャツとラフな格好をしたラテン系の男性が、すました顔で前を見詰めていた。連れ去られた時に、聖杜の目の前にいた男だ。時折、異国語の会話の中から聞き取れる単語から、マルコ・チェーザレと呼ばれているらしいその人物の雰囲気は、明らかに他の人間とは違っていた。常にリラックスした様子ながら、時々、その瞳には狂気に似た輝きが走るのだ。そんな異様な空気の男が隣に座っていることも、杏子をさらに怯えさせる一因となっているのだろう。

 由梨花も恐い。現在の状況を全く飲み込めないし、どうなっているのか見当もつかず、頭の中は混乱しきっている。目の前のこの事態に恐怖し、発狂してしまいたくなるのだ。だが由梨花の隣で杏子が小さく震えているのを見て、自分がしっかりしなければ、という使命感のようなものが湧いてきて、精一杯に自分を奮い立たせているのである。

 掌の杏子の小さな温もりが、由梨花に自我を保たせてくれている。必死になって、挫けそうになる心を支えているのだ。

 大丈夫だよ、私がついてるよ、そういう思いを込めて、由梨花は杏子の手を握り続けた。緊張に汗ばんだ掌は、由梨花自身をも勇気づけてくれている。小さく唾を飲み込んで、由梨花は震えを隠そうとしていた。

「大丈夫?」

 左隣から、流暢なイントネーションの日本語がかけられる。そちらを向くと、長身痩躯に細面、金髪を後ろに撫で付けた中年の白人男性が、その碧の瞳で由梨花を見詰めている。

 ライアン・ウィルソンと名乗ったこの男性は、驚くことにほぼ完璧な日本語を話していた。この一味には似合わない優しい雰囲気を纏ったこの男の存在は、由梨花の心を少しだけ軽くしてくれている。

「え、ええ……」

 由梨花が頷くと、

「もうすぐ着くよ。……安心して、危害を加えるつもりは無いから」

 ただ、道案内をしてもらうだけだから――

 ニッコリと、切れ長の瞳を優しく細めたライアンを見て、由梨花はそんな言葉を思い出していた。

 気を失ってから――駅で体が凍りついたように動けなくなって、薬品を嗅がされて意識を失ってから、2人はどこかのビルに監禁された。その場所に居たのは数時間ほどで、気が付いてから暫くしたら車に乗せられてどこかのヘリ・ポートへと移動し、この機体へと乗り込むことになったのである。

 『道案内』。移動の道中で聞かされたのが、このセリフだった。

 この男たちはどうやら、杏子にどこかへと案内させるつもりらしい。だがそれ以上の情報は無く、由梨花には分からない事だらけで、かえって混乱に拍車をかけているだけだ。

 そっ、と視線を外して、頭を床に俯ける。瞼を閉じて、こんがらがった自分の思考に、落ち着け、と呼びかけた。落ち着かなきゃ、考えなきゃいけない。私がこの子を護ってあげなきゃいけないんだ、と自分に言い聞かせて。

 杏子の身体の震えは、まだまだ収まりそうに無い。小刻みに、小さく、少女は恐怖と戦っている。

 私が今、支えてあげなきゃいけないんだ――

 ギュッ、と瞼に力を入れた。

(助けて、お兄ちゃん。――私に勇気をちょうだい……!)

 聖杜の、愛しい人の顔を思い浮かべて、願った。

 その時、ふっ、と機体が傾いだ。高度を下げたのだ、と感付いて、顔を上げる。どこかの山の山頂か、それなりに広い空間に着地しようとスピードを緩めていた。

 地面が近づいて、前のめりだった機体が一瞬で、地面に対して平行になる。機首が上がって、視界が前方の空を見上げるような形になったと思ったら、軽い衝撃と共に足元が安定した。

 左右両方のドアが開き、先に降りた男たちに、早く降りろ、と合図される。行こう、と杏子に小さく言って、オズオズとヘリコプターから地面に脚を下ろす。頂上を公園にしているのだろう、そこはやはり比較的、大きな空間になっていた。そこに今は仮設テントが並べられ、沢山の外国人が忙しなく動いている、異様な光景が広がっている。全員が鉄砲で武装して、周りには幾つも大きく無骨な自動車が停まっていた。

 自分たちの後ろをついていた二機目のヘリコプターも着陸する。その風に煽られて、由梨花は思わず目を閉じてしまった。見るからに危険な武器を取り付けられたそのヘリコプターに圧倒されて、逃げるようにその場から離れようとする。

「シェーファー!」

 もの凄く大きな声だった。思わずそちらを振り向くと、尊大な態度だった初老の男性に、誰かが近づいてきているようだった。その男が慌てて何やら報告のようなものをしている様子を見ながら、あの人はシェーファーって言うんだ、と場違いにもそんな事を考えていた。

 由梨花は杏子と2人、ボーッと立ち尽くすように、そこに留まっていたのだ。すると彼女の隣に人影が近づいてきた。ラテン系のマルコだ。

 彼は二人を見下ろすように視線を向けると、

「こっちだ」

 と言って、由梨花の肩を掴んだ。そのまま仮設テントの方へと引っ張られてしまう。

 ただ由梨花は、マルコの口から余りにも自然に日本語が出てきたことに、呆気に取られていた。喋れるんだ、という驚きに眼を見開いたまま、歩を進める。

 その周りでは、シェーファーの叫び声のような怒号が響き、異邦人たちが何か慌てたように捲くし立てながら指示や交信を出し続けていた。


 お社へと続く山道を、ペースを落とすことなく走り続ける聖杜。鬱蒼と茂った森の斜面、その深い闇の先に光を見て、即座に足を止め、その場に静止する。

 バババババッ、エンジンの発する爆発音が上方から聞こえ、フロント・ライトと思われる明かりが二つ、木々の間からチカチカと覗く。左右に分かれたオフロード・バイクだろう、獣道ですらないただの坂を、器用に高速で下ってきている。

 相当の腕前を持っているドライバーが二人。おそらく専門の訓練を受けてきた偵察隊出身者だろう。クロスカントリー選手ばりのテクニックで山を駆け下りてくる敵に対して、少しだけ考えて、聖杜は再び駆け出した。

 聖杜から見て右手側の方が、少し先行しているらしい。上手に機体を操作しながら、枝葉や下草を掻き分けて降りてくる敵が、こちらを捕捉する直前。

 男の前方に壁を作った。

 物理的な硬度を持った、見えないモノ。男の顔面が坂を下るスピードそのままの速度で壁に激突し、グシャ、と鈍い音を引き連れて、潰れた。衝撃で歪んだ頚骨が負荷に耐え切れずにへし折れる。絶命した肉体が後ろに仰け反り、ハンドルを離して、地面に落下した。バランスを崩してフラフラと蛇行し始めたバイクはそのまま、前にある木の幹に激突し、ガシャーン、と派手な音を立てて転がった。

 空間凝結。

 聖杜が持つ、天性の特異能力。彼の輪技は、何も無い空間を凝固させ、物理的に接触が可能な状態にしてしまうのである。聖杜は一度に複数の空間を固めることができるが、その空間を移動させることは不可能なので、実質的な攻撃力は無いに等しい。しかしその力は戦闘において大きな効力を発揮してくれる。

 聖杜は目の前の空間を固めると、その上に飛び乗ってさらに前方の空間を固め、それを繰り返して移動する。傍から見れば、まるで空中をジャンプしているように映るだろう。こうすることで相手の死角に忍び込み、上方から一気に間合いを詰めるのである。

 左手側の男は仲間の死にビクリとしたが、気を取り直したようにブレーキをかけ、横倒しになるような勢いで停止した。機首を左に向ける90度の旋回で聖杜の方を向いた男は、ヘッケラー&コック社製のG36ライフルを構え、聖杜を狙撃しようと視線を巡らせる。

 だが、ナイト・ビジョン・ゴーグル越しのスコープ内に、聖杜の姿はない。慌てたように周囲を見回す男に瞬時に近づいた聖杜は、柄に手をかけ、銀線を閃かせた。

 木々の間から覗く月の光が、刀の残影を白く引く。肉の斬れる音が生々しく響き、右肩から斜めに走った傷から赤い血が噴出して、男の瞳が暗く沈殿する。

 男が倒れる前に、聖杜はその場を離れていた。トッ、と大きく後退して、すぐに振り向き、道に戻る。

 ガサ、と下草が揺れ、男の体が倒れ伏す音を背後に聞きながら、聖杜は山道を走っていた。

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