第三章①
第三章:「ごめんな」
1
5月14日、月曜日の放課後。聖杜は友人連中と教室で意味もなくダベッた後、学校近くのゲームセンターに寄った。といっても、みんな金がそうあるわけでもなし。特に気になるゲームもないので、適当に300円くらい使ったところで、その場でお開きとなったのである。
そして、今。6時を回ったくらいの、日が沈んで薄暗くなり始めた道を、彼は重成と一緒に歩いていた。これから重成の家へ行くのだ。
だが重成家は聖杜の通学路とは外れている。徒歩で10~15分ほど遠回りになってしまうコースにある重成邸へと歩を向けているのは、時間的な制約も考慮に入れれば、普通なら理解しがたい行動である。
もちろん、これにはちゃんと意味がある。重成に貸していた本を返してもらう為だ。とても平凡な理由だが、それは彼らにとって非常に重要な任務なのであった。「本」というのが、先日の買い物の時に由梨花に目撃された、例のブツだからだ。
その時に聖杜は、「ただのサッカー雑誌だよ」と誤魔化したがm真実は違う。サッカー雑誌2冊に挟んでレジに出し、そこはかとない店主の疑惑の視線を、「二十歳の兄貴に頼まれたんですよ、あはは」という白々しい嘘で切り抜けた、18歳未満は購入してはいけない類の雑誌なのである。綺麗な身体のお姉さんが裸で卑猥なポーズを決めてる写真集なのである。率直に言うとエロい本なのである。
「そ、そんな強調せんでも……」
呆れた聖杜の声も虚空に響く。
実は聖杜たちは、月に一度、皆で一冊のそういう本を買うのが習慣となっていた。毎月、買い担当をローテーションで代えて、一日ずつ回していくのだ。お金は無いし年齢的にもあれだし彼女も居ないけど、煩悩と情欲だけは有り余っている思春期の少年たちが、自分の暴走する性欲を慰める為に知恵を振り絞って出した答えがこれだった訳である。
ある意味でとても情けない光景ではあるが、本当に性欲が暴走してしまったらヤバい事になる聖杜などは、この方法はとても重宝しているのだった。
「んで、どうだった?」
聖杜は周囲に人気がないことを挙動不審気味に確認してから、尚も声を潜めて重成に質問をぶつけるのだ。
「ん~? どう、て何が?」
分かっている態度で問い返してくる重成。何を余裕綽々にしているのか知らないが、明らかに上から目線であった。
「何が、て……ブツの中身だよ。凄かったのか? そりゃあもうエロかったのか?」
ソワソワとしながら答えを急かす聖杜。今月の担当だった彼だが、購入当日には帰って何だかんだしてたらバタンキューしてしまい、中身を見るどころか包装すら外さないまま、次の日に高村に渡してしまったのである。それから五日間、その事に対する後悔で頭の中がジリジリしてしまい、ようやく自分に回ってくる今日と言う日を今か今かと待ち焦がれていたのである。
そんな聖杜の様子をフフン、と嘲るように鼻で笑う重成。特に優越感を感じるべきものではないはずなのに。
彼は勿体つけるようにゆっくりと口を開き、
「んー……。まぁ、今回はハズレだったかな。いつもよりはエロのクオリティが落ちてたぜ。ヌードルのグラビアとかも、目玉になるような美人はいなかったしな。企画もいまいちだし、AV論評でも大型のものは無くて肩透かしだ」
そこまで言って、フゥーウ、と大袈裟に溜息を吐く。
「でもま、一応ヌけたけどねー」
したり顔で肩を竦めてエロ本の評論をまとめた鈴木 重成、15歳であった。
「んんぅ、そっか……」
明らかに残念そうに肩を落とす中村 聖杜(15)。エロ本相手にそこまで落胆してしまう、悲しい少年なのである。
「悪い内容ではなかったが、やはり先々月のアレに比べるとなぁー」
「あー、そうだよな。ありゃ凄かった。壮絶にエロかったもんな」
「っくしょー、失敗したなぁー。今でも悔しいんだよな、あれだったら何ヶ月でもオカズになんのによー」
「秀行のヤローが持ってっちまったからなぁ。今でも、あの時は俺が買っとくべきだった、て思うよな」
エロ本ルールでは、月の購入者がその雑誌を引き取ることができるのだ。なので上物に当たった時には、周囲は心底から悔しがり、本人は人目も憚らず大喜びするという、一見して奇特な光景になるのである。
「しかしな、聖杜。そう後悔ばかりではいかんぞ。よし、俺がいい事を教えてやろう」
「なに? なんかあんの?」
「ああ、今月号の唯一の当たりだけどな、大間 加絵のヌードグラビアがあるんだ」
「え、マジで?」
「そうさ。大きなヌき所の一つだ」
大間 加絵とは、153センチの小さな身体と、ハイトーンで嗜虐心をそそる様なアニメ声で人気のロリータ系女優だ。その可愛らしい見た目とは裏腹に、87センチの巨乳と激しい内容の作品をリリースし、一躍トップスターとしてそういう世界で絶大な支持を受けている女性である。雑誌のレビューの高評価に魅かれて、聖杜も思わず父親のコレクションから拝借して視聴し、あどけない造りの容姿で余りに過激なことをする姿に失神寸前になり、思わず隠れファンになってしまったほどである。ちなみに聖杜の父・正孝は、ここいら一帯では右に出るものはいないとまで言われるほどのアダルトな映像を貯蔵する、青木島のエロ大王の異名と共に畏敬の念で(一部で)知られた、とても恥さらしな男なのである。
そんな話を聞いたものだから、聖杜は俄然、元気になってしまうのだ。心もウキウキと躍りだし、会話も自然と熱が入る。彼ら二人は閑静な住宅街を、迷惑になるのではないかと心配するくらい大きな声でエロ談義に花を咲かせながら歩いていった。
そうこうしている内に重成の家に到着する。聖杜は期待にソワソワしながら、重成の横で扉が開くのを待っていた。
「おいおい聖杜、落ち着けって。――ただいまー!」
苦笑しながらもドアノブを廻す重成。ガチャリと音がして扉が開き、ドアを引いて屋内の空気が流れてきた。
――え?
空気が違った。
ふわり、とドアから流れ出た匂いが、余りにも重かった。それに一瞬だけ思考を走らせると、目の前の重成は目を見開いていた。
彼の開け放たれた唇が、小さく息を飲み込んだ。視線の先は玄関の奥。喉が動いて、何事かを喋ろうとして――
ヒュッ
影が通った。黒い何かが重成に触れ、ズヌッ、と音がして突き立った。玄関には知らない男が立っていて、重成の喉に何かを押し込んでいる。黒く見えたのは皮手袋で、そこから伝って垂れ落ちてるのは血液だった。
男の手と重成の首の間に、鈍く光る銀色の刃が見えた。男が手を引くと10cmくらいの刀身が出てきて、それが傷付けた頚動脈が、派手に鮮血を撒き散らした。
全てはスローモーションだ。ゆっくりと知覚できる速度で進み、でも決して反応できない速度で過ぎ去ってゆく。
男は聖杜を一瞥した。しかし何もせずに立ち去ったのだ。重成を押しのけて玄関を出て、正門から道を左に折れて消えた。
「……っ! し、――、?!」
青褪めた重成の顔。首を押さえて、必死に足掻いている彼を見て、聖杜は反射的に彼を抱きかかえた。どうなっているのか分からず、状況を探ろうと辺りを見回し、そして玄関に、先程から立ち込めていた濃密な血の匂いを目にする。
廊下に広がる凄惨な血の海と。
転がっている無機質な遺体と。
腕の中で親友が無くして行く身体の力と。
助からない彼らを見つめて――
聖杜はもう、何も考えられなかった。
2
住宅街を足早に駆ける異邦人の姿。
浅黒い肌と彫りの深い顔立ちを、目深に被った帽子で隠し、しかしそのつばから覗く目つきは鋭い光を周囲に走らせている。
茶色のロングコートに血臭を纏い、黒の皮手袋には渇いてどす黒く変色した液体が張り付いている。平穏な日本人の一家を惨殺した直後の彼の表情は、ギラギラとした仄暗い興奮を必死に抑えた、鋭利な喜びに満ちていた。
殺しは彼にとって、快感だった。生活の糧として以上に、純粋な悦楽を得るために、人を切り刻むのだ。
だが今日の仕事は目的が違っていた。そのはずだった。子供を一人、攫って来なければならなかったのだが、複数人の生を絶つ悦びに我を忘れ、ターゲットを見付けられなかった。途中で気配が近づいてきたので、彼は逃げることにしたのだ。手前の一人を殺して、もう一人は構っていられなかった。計画を変更し、次のチャンスに備えることにする。そのためには合流ポイントへ行き失敗を伝え、非常時のプランを聞き出さなければならない。
夕暮れ時の時間帯、道端に人影は無い。誰かがいれば消さねばならない。その事に注意して、素早く道を進んでいく。
と。
ガッ、と何かに当たる感触がして、彼は背を仰け反らせた。前に壁があるように思えたのだ。しかし目に映る範囲に、道路を妨げるものは存在しない。だが、確実に前進を阻む何かがあることを、彼の体は伝えている。
「…………?」
手を伸ばすと、目前で何かに触れた。硬い、まさしく壁のようなものだ。透明な壁がそこにあるのだ。まるで空気が固まっているかのように。
不思議に思い右を向いて、そこにも同様の壁があることに気付いた。自分が、とてつもなく窮屈な場所に居ることを思い知ったのだ。四方を壁に囲まれて、動けない状態に居る。
(どうなっている……?)
背後を向いて、ふと気付く。人が居る。いや、近づいてきている。それも物凄いスピードで。
「………………!?」
なぜ気付かなかった――?
急ぎ懐に手を入れ、獲物を掴む。刃渡り20センチにも及ぶ大型のコンバット・ナイフ。順手に持って刺突の構えを取り、そこで初めて、相手の足音が極端に小さいことに気付いた。
洗練された、美しい足運び。流れるような所作で移動した相手は、気付いた時にはすぐ近くにいた。
「クッ……!」
呻き、突く。正面から飛び込んできた相手は、瞬時に身を屈めると、左手側に潜り込んだ。一歩下がって間合いを測り、そこで先程の『壁』が消えていることを知る。
ハッ、と息を吐いて、再びナイフを抉り込む。するりと入り込んだ、はずの刀身は、空を切る。腕を掴まれる。手首を捻り上げられると同時に親指が潰された。激痛に思考が空白になり、視界が戻った時には敵の右手にコンバット・ナイフが奪われていた。
チッ、と舌打ちを一回。
左手をポケットに突っ込んだ。小さな柄を掴んで、引き出そうとする。
(なっ、……!?)
その瞬間に軸足が蹴られ、同時に額を押さえ込まれた。揺れる視界が反転し、無理矢理に仰け反らされた首ががら空きになる。逆手に構えられたナイフが喉に滑り込むさまを瞼に焼き付けた。
あとは何も、見れなかった。
横向きで押し込んだ刃、その隙間から鮮血が噴出したのを見た。頚動脈が切れたのだろう、鮮やかな紅が一瞬で男を染めて、そのまま仰向けに倒れ伏す。
ビク、ビククッ、と痙攣したそいつの身体が動かなくなり、瞳の奥がギョロリと濁る。その姿を眺めた後で、聖杜は異常にクリアーな頭の中をリセットした。
フッ、と全身の力を抜いて溜息を吐き、ヒスパニック系の男の死体を一瞥してから、後ろを振り向いて歩き出した。
空虚な気持ちだ。今は何も感じない。倦怠感に支配されながら、聖杜はヨロヨロと歩を進める。
(重成……)
親友の死を目前にした。急速に衰えていく生命機能を肌で感じ取った。そして、彼の家族は悲惨な姿で地を転がり、飛沫した血液が濃密な死を訴えかけてきたのだ。
地獄絵図を、見た。
ほんのついさっきまで、バカな話をして、いつものように帰路についていたのに。信じられないようなことが起きてしまった。そして、取り返しのつかない恐ろしい事態を体感してしまった。
「ちくしょう……、チクショウぉ――、!」
涙に声が嗄れた。視界が霞み、頭の奥が訳も分からないほど熱くなる。人の死を多く知ってきた聖杜にとって、誰かがいなくなる事は、実感を伴った現実になってしまう。
聖杜は嗚咽しながら、トボトボと重成のところへ向かった。
――ダ、レ、カ
「…………、っ」
何かが、聴こえた。ハッとして顔を挙げ、呆然と立ち尽くす。
――助けて……恐いよ、誰かぁ
聴こえたのではない。頭の中に、直接、響いている。その事に気付いた瞬間、聖杜は全速力で走り出していた。
――恐い、恐いよ、助けてよ……
切実な声に急かされながらも、聖杜は、淡い希望に胸を震わせていたのだ。
「杏子、……杏子だ! いま、行くからな!」
3
恐くて、狭くて、暗い場所。
鈴木 杏子は、クローゼットの中で、ガタガタブルブルと震えていた。
膝を抱えて、その中に顔を埋めて、ひたすら恐れていたのだ。
始めは、何が何だか分からなかった。いつものように居間にいて、お父さんとお婆ちゃんがテレビを見ていて、お母さんが夕飯の支度をしようとしていた。
私が席を立って自分の部屋に行こうとすると、お婆ちゃんも上に行くと言って、一緒に階段まで向かった。すると玄関でチャイムが鳴って、お母さんが迎えようと廊下に出てきたんだ。それを横目に上に向かおうとしたところで、お母さんの物凄い悲鳴が聞こえてきた。
キャー! って声が耳を劈いて、私とお婆ちゃんがそっちに顔を向けて、お父さんが廊下に出てくると、玄関には知らない外国人の男の人が立ってた。その人が光るものを持ってて、お母さんの手から血が出てるのを見て、自分の目を疑った。
玄関の男の人がもう一度、動いたときに、お婆ちゃんが私を押して二階に上がった。その直前に、お母さんが何か刃物で斬り付けられるところが見えて、お父さんの怒鳴り声が聞こえた。
なにがなんだか分からないまま、私はお婆ちゃんに押されて階段を上り、手近なお父さんたちの部屋に入って、クローゼットに押し込まれた。
お婆ちゃんは階下の喧騒に顔を強張らせながら、精一杯の優しい声で、私に話しかけてきた。
『いいかい、ここで、ジッ……、と動かないで、大人しくしてるんだよ』
私は何も考えられない頭を必死に働かせようとしながら、夢中でブンブンと頷いた。
『大丈夫だよ。杏子はお婆ちゃんが守ってあげるからね、心配しないで。だから少しの間だけ、ここでジッと隠れてるんだよ』
青褪めた顔で、それでも優しい笑顔を浮かべて、お婆ちゃんが語りかけてくる。それに茫然と頷くと、お婆ちゃんはもう一度だけ微笑んで、クローゼットのドアを閉めた。
ドタバタと騒がしい音がして、そのすぐ後にお父さんの悲鳴が上がって、お婆ちゃんの悲鳴も聞こえてきた。
恐かった。
恐くて恐くて、怖ろしかった。
ガチガチと歯が鳴って身体が震えて、どうしようもなく不安なまま、暗いクローゼットの中に閉じ込められていた。
下から音がしなくなって、私は膝に顔を押し付けてギュッと目を閉じた。
涙が顔を濡らして、喉が引っ掛かってしゃくり上げるのを、必死に堪えて、押し潰されそうなくらい恐いのを我慢していた。
すると玄関が開く音がして、男の人が出て行く気配がして、誰もいなくなったのが分かった。
家の中に、誰もいなくなったのが、分かった。
今度はどうしようもないくらいに寂しくなった。切なくなった。そして、恐かった。不安で不安で、一人だって知っちゃって、ボロボロ涙が止まらなくなって、必死に膝を掻き抱いた。
恐いよ、寂しいよ、誰か助けて、て何度も願った。イヤだよ、嫌だよぉ、助けてよ、って必死に思った。お母さん、お父さん、お婆ちゃん、お兄ちゃん、助けてって、ずっとずっと、泣いてた。
もうどれくらいそうしていたかも分からなくなった、その時に――
杏子は、涙でグシャグシャになった顔を、上げた。
クローゼットは開いていた。そしてその先に、柔らかな笑顔があったのだ。
中村 聖杜の、穏やかな微笑み。杏子は胸が詰まり、また涙が溢れてくるのを感じた。
「うえ、ぇ……」
嗚咽が漏れる、その瞬間に、抱き締められる。聖杜の胸に顔を埋める。彼の胸を掻き抱く。力いっぱいに、押し付ける。
今、最も会いたかった人。それが目の前にいる。全身でその存在を感じられる。杏子の不安が彼に吸収されていっている。
「え、うぇぇ……、あうぅぁあ……!」
しゃくり上げながら、嗚咽しながら、少女は泣き始めた。少年の温かさに包まれながら、杏子は寂しさを忘れるため、恐ろしさを忘れるために、泣き続けた。
少女の頭を抱える腕が、優しく撫でられる。静かに背中を擦られる。あやすように、落ち着けるように、彼は優しさを注いでくれた。
「大丈夫だよ」
静かな声が鼓膜に響く。
「もう、大丈夫だよ。杏子。安心して。もう恐くない。寂しくもないよ。もう大丈夫だよ」
いま、彼女が最も必要としている言葉だった。聖杜の声はどこまでも優しく、そして温かい。その温もりを浴びながら、杏子はいつまでも、泣き続けた。
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