第二章②
3
青木島高校は、中村家から徒歩15分ほどの、比較的近い場所に位置している。その途中に駅があり、そこから三つ目の駅で降りると、赤ノ森高校へと行き着くのである。
だから由梨花と聖杜は、同じ時間に家を出て、同じ道を途中まで一緒に登校する。それがこの春からの、二人の朝の習慣であった。
「お兄ちゃーん。大丈夫ー?」
由梨花が階段を覗き込むようにして、二階の聖杜へと呼びかけると、大丈夫だよーっ、という返事が来た。続いてトイレの水を流す音がして、聖杜が姿を現す。
「時間、まだ良いよね?」
聖杜が腕時計を確認しながら尋ねてくるので、
「うん、まだ大丈夫だよ」
と答えた。
「窓は閉まってる?」
「全部、確認したよ」
「じゃあ鞄とって来るね」
いつも通りの言葉を交わすと、聖杜はリビングへと入って行った。その後ろ姿を少しだけ見つめてから、由梨花は玄関へ行ってローファーを履いている。
いつも通りの光景だった。聖杜はお腹が少し弱いから、登校前には毎朝トイレに行っておく。そして少し慌てながら降りてきて、由梨花と一緒に家を出るのだ。そんな彼を待つ時間を、由梨花は少し楽しみにしながら迎えていた。
ただ、朝に強くなくて、しかも寝坊癖まである聖杜に早起きをさせている事に、由梨花は少しだけ引け目を感じてもいる。授業の開始時刻は同じくらいだから、距離の近い聖杜の方が、もう少しゆっくりできているはずなのだ。それが、自分のワガママで一緒に家を出ているのだから。
だから、聖杜が玄関に来て靴を履いているときに、由梨花はこう言ってしまうことがある。
「ごめんね、お兄ちゃん。もっとゆっくりしてられるのに、私に付き合ってもらっちゃって」
時々、この言葉が由梨花の口をついて出る。今日もそうだが、その度に聖杜はこう答えるのだ。
「俺一人で行ってたら、ゆっくりし過ぎてもっと余裕ないもん。これくらいで丁度良いから、由梨花には感謝してるんだよ」
よっ、と立ち上がりながら聖杜がこう言ってくれるのを、由梨花は毎回、嬉しく感じてしまうのであった。
二人一緒に家を出て、ドアを閉めると由梨花が鍵をかける。なんだかいつの間にかそうなっていたけれど、それはもう自然なこと。二人は並んで歩き出して、約10分ほどの距離を一緒に過ごす。その時間は掛け替えのない物なんだと、由梨花はそう思っているのだ。
「それじゃあね、お兄ちゃん」
駅が見えて、その前の交差点を由梨花は真っ直ぐ行く。聖杜は右に折れて行くので、二人っきりの登校時間はこれで終わりだ。
「うん、それじゃ。今日も頑張ってね」
「お兄ちゃんも。ね!」
信号が青くなって、由梨花は聖杜に手を振りながら横断歩道を渡って、それから駅の入り口に向かう。そこでいつものように、有理、久実、真樹の三人と合流するのだ。
「おはよー」
「っはよー」
「はよ~」
「おはよ」
挨拶を交わして構内に入り、改札へと向かおうとしたところで、異変に気付いた。南青木島駅はそんなに大きくはない。ホームも一、二番線の上下しかないくらいだから、構内もけっこう狭いのだ。だがその場所は、いつも以上に、人でごった返している。
「なんか、人が多いね」
「うーん、狭っ苦しいなぁ……げ、どーりで。中学生の集団じゃん」
「大きな荷物を背負ってるわね。林間学校かしら」
「この時期はキャンプじゃん? 構内でバラバラに喋ってるから、まだ集まってる段階じゃないかな」
「それじゃ、私たちの電車には乗らないわね。良かったー」
「同じ車両になったら人口密度が凄そうだもんね」
四人で言葉を交わしながら、いつもより騒がしい構内を抜けていく。すると、ふと視線を向けた先に、元クラスメートがいた。
(あれ? 鈴木くんだ)
聖杜の親友でもある、鈴木 重成であった。青木島高校のはずだから、なんで駅なんかにいるんだろうと思ったら、彼は大きなバックを背負った女の子と話しているではないか。
(妹さんかな。……可愛い子だなぁ)
失礼な話、重成とは全然、似ていない。小顔でパッチリとした目と、重成の胸くらいまでしかない身長。オドオドした感じの雰囲気と併せて、小動物のような、思わず抱きしめたくなってしまうようなキュートな女の子だ。
重成は女の子に真剣な面持ちで何かを喋っていて、それに女の子はウンウンと頷いている。かと思うと重成は急に満面の笑みを浮かべて、満足そうに少女の頭を撫でていたり。その様子がとても幸せそうで、溺愛ぶりが窺える一コマだ。
(なんだか微笑ましい。すごく大切にしてるんだなぁ)
そんな風に思いながら二人の様子を見ていると、後ろから肩を叩かれて、
「何やってんの。早くここ抜けよ」
と有理に急かされた。
「あ、うん。そだね」
と答えて改札を抜けるも、何だか意外なものを見たな、という気持ちは続いていたのである。
4
その日の帰り。南青木島駅を出て帰路の途中、有理たちと別れてから少しして、帰宅路を左に折れた。そこから暫く進むと大型のスーパーマーケットへと行き着くのである。そこは県内ローカルながら中々に大規模で、日常雑貨すら網羅している、さらに頻繁にバーゲンセールとかタイムサービスとかを行ってくれるので、ここら辺の主婦が通い詰めるお得なお店なのである。
だから由梨花も、今日のご飯は何にしようかなー、なんて考えながら、スーパーへと急ぐのだ。両親が旅行でいない状態で二週間も経っているので、その間に中村家の台所はすっかり由梨花のものになってしまったのである。
(あと今日は、お一人様二つ限りでティッシュペーパーが安いのよね。トイレットペーパーの予備も買い足したいし、パルックも買わなきゃ。そういえばお兄ちゃんの歯磨き粉も少なくなってたなぁ)
事前に朝刊に挟んであったチラシに目を配っておいたので、大抵のお買い得品はチェックしてある。あとはもう少しで行われるであろうタイムサービスの品を見て、夕飯の献立を考えることにしよう。由梨花はそう結論付けた。
「よーし、じゃあ負けないぞ!」
由梨花は鞄を片手にガッツ・ポーズで気合を入れる。この後に予想される、タイムサービス時の壮絶なおばちゃん軍団との戦いに向けての神聖な儀式だ。
と、そんな事をしていると、視線の先に聖杜が立っているのが見えた。なにやら道端で袋を持っており、それをバックの中に仕舞おうとしている様子だ。傍らには書店の看板が見えるので、恐らくはそこから出てきて何かを買った後なのだろう。
「おにーいちゃーん!」
由梨花が聖杜に呼びかけてみると、彼はビクリと驚いてこっちを振り返る。
その間に由梨花は彼の方へと駆け寄って、「何か買ったの?」と聞いてみた。
「え? う~……あー」
狼狽して目線を逸らす聖杜。その様子に怪しいものを感じた由梨花は思わず、
「……エッチな本?」
と聞いてしまったのだが。
「ち、違うよ! これはサッカー雑誌! そう言えば今日が発売日だったなぁ~、て思って立ち寄ったんだ」
大慌てで否定する聖杜。その間にバックの口を閉めてしまったので、中身は結局わからなかった。由梨花はそれに興味を持ったが、見せて、と言うわけにもいかないので、そーなんだー、と納得した素振りをしておくことに。
「由梨花こそ、どうしたのさ。こんな所で」
深く追求されるのを恐れるように、今度は聖杜が疑問を投げる。
「私はね、スーパーに買い物だよ。夕飯のおかずと、あと日用品の補充。そろそろ身の回りのものも足りなくなってきたしね」
「ふぇ~……よく気が付くね。俺なんか、今まで親父にまかせっきりで、気が回った事なんてなかったよ」
「そ、そうかな……」
真顔で感心させられたので、ちょっと嬉し恥ずかしい気分になって照れてしまう。母子家庭だったので家のことは昔からやっていた由梨花にとって、そんな事は当然なのだった。
「ついでだし、俺も買い物、付き合うよ。少しくらいなら力になれるはずだし」
「え、ホント! 助かるなぁ、今日はティッシュとか嵩張るものを買う予定だったから、一人で持って帰るの辛いな、て思ってたんだ」
聖杜の申し出に由梨花は、諸手を挙げて喜んだ。
「それじゃ決まりだね。行こう、タイムサービス始まっちゃうよ」
「うん。ありがとね、お兄ちゃん」
こうして二人は、並んでスーパーへと買い物をすることとなったのである。
中略。
そしてその帰り。ボックスティッシュだのトイレットペーパーだの蛍光灯だのお掃除用具の交換品だの、更には食料品として野菜だの肉だの魚だのを買い込んだ二人は、その余りの多さに持ってきたエコバックでは収まりきらず、店の空段ボール箱に詰め込んで家まで運ぶ事になったのであった。タイムサービスでカボチャやキャベツなどの大型野菜が安売りだったのでその箱はかなり重くなっている。なので段ボールは聖杜が持ってくれているのだが、かなり大きくて大変そうだった。
「大丈夫? お兄ちゃん」
スーパーを出て少ししてから、由梨花は二度目の質問をした。ちなみに一度目はこの段ボールを聖杜が持ち上げた時だ。
「ん、大丈夫だよ」
聖杜は事も無げに笑顔で頷く。小柄でひ弱な感じの聖杜だが、こういう所はとても力強い。やっぱりお兄ちゃんは頼りになるなぁ、と由梨花は感嘆しっぱなしだ。
「ごめんね、荷物もちになんて付き合わせちゃって」
由梨花は、自分の手にあるエコバックの中がお菓子とかインスタント食品とか、そういう軽いものしか入っていないことを意識しているのだ。
「んーん。だって俺は男手だもん、これくらいは任せてもらわなきゃ。いつも由梨花には、色んなことをやって貰ってるんだからね、こういう事は俺が手伝わなきゃさ」
聖杜がそう言ってくれたのが凄く嬉しかった。もっと頼って良いんだよ、て。もっと甘えて良いんだよ、て優しく言われたような気がして、本当の家族になっているんだって実感できるのだ。
「それに由梨花には、親父たちが帰ってくるまで、家のお財布を守ってもらってるんだから。むしろ由梨花の方が偉いよ」
「えへへー。褒められちゃった」
由梨花はふざけた調子でそう言ったが、実際は頬が火照って顔が赤くなるのが分かった。なんだがとても幸せで、でもくすぐったくなる様に照れくさい。
良いなぁ、こういうの。そう思った。本当の兄妹みたいだ、と感じたから。
ただ、同時に一瞬だけ浮かんだ、新婚さんみたいだ、という考えはすぐに仕舞いこんでしまった。
(だって、なんだか恥ずかしい……)
もう少しだけ顔が熱くなる。
本物の兄妹、かぁ――
ふと、そんな物思いに耽ると、
「あっ!」
不意に今朝の光景を思い出した。
「お兄ちゃん。鈴木くんって妹さん居るの?」
「ふぇ?」
聖杜は虚を付かれたような表情をして、
「重成? うん、いるよ。でもなんで?」
「今朝ね、駅で中学生の女の子と話してる姿を見かけたんだ。仲良くしてたから、妹さんなのかな、て思って」
「あー、うん。杏子って言うんだけどね。可愛い子だったでしょ」
「うん。鈴木くんに失礼だけど、全然、似てなかった。すごく可愛い娘だったよ」
「駅に居たの? なんで……ってキャンプか。そういや重成が言ってたな」
「そうそう、キャンプだよ。おっきい荷物を背負ってたもん。あとすごい大切そうだった」
「ははは、あいつ過保護だから。一緒に駅に行ってたんなら、未だに妹離れできてないって証拠だね。杏子の事になったら目の色変えるんだよな、普段は良い奴なのにさ」
「そーなんだ。なんか意外だったよ、鈴木くんって硬派なイメージだったんだよね」
「んー、それは無いよ。重成はすっごい心配性でね。妹にベッタリなんだよ。んで杏子の方も内気で人見知りだから、兄貴離れができてないんだ。二人とも、大丈夫なのかな、て周りが心配になるぐらいだもん」
聖杜が話しながら苦笑する。それほど兄妹仲が良いんだろうな、と由梨花には映った。
「でも大丈夫だよ、二人ともあんなに仲が良いんだもん。楽しそうな家族だし、将来も明るそうだよね」
由梨花はそう言ってニッコリと笑った。
「うん……、そうだね」
聖杜も同意するように笑顔を返してくれたので、由梨花は幸せな気分で家路につくことができた。
家の中に入ると、まず買ったものを整理してそれぞれの場所に置き、その後で少し遅くなったけれど夕飯の用意だ。献立はお買い得品の豚肉を使って生姜焼きにすることに決めて、手馴れた作業で調理していく。聖杜にも準備を手伝ってもらって、二人でご飯を作っていくのだ。
こうして、中村家の夜は更けて行くのである。
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