第2話
私の〈学校〉が終わると、子どもたちは競い合うようにして開け放しの扉口へと駆け出し、ひとりまたひとりと熱くまぶしい陽光に全身の輪郭をぼやかせて、溶け消えるように去っていった。
毎度のことではあるが、途端の静寂にしばし呆と立ちつくしてしまう。しかしすぐに、余韻のような静けさは破られた。外から低くしゃがれた怒鳴り声が聞こえてきたのだ。「がきども! さっさと親父を手伝いに行けよ!」
開きの真っ白い明るみを、ぬっとあらわれた大きな黒い影が侵す。判然としない胸苦しさのようなものを覚えながら、私は目を細めた。
「邪魔するぜ」
「おお……これはこれは。ご
黒い影が屋内の薄暗さに馴染み、ごつごつとしたひとりの個性をあらわにする。地主の大旦那だった。
「せがれに仕切りをまかせた途端、どいつもこいつも〈ご隠居〉だの〈ご
大旦那は言い終えるやいなや素早く戸外に振り返り、これみよがしな音を立てて唾を吐き捨てた。そして無遠慮にどかどかと
「祈りを捧げにいらっしゃいましたか?」
私の虚しい言葉に大旦那は落ち
「神父さんよ! あんたの立場からすりゃ、この〈集会所〉に足を運ぶ理由はしんみりしたもんじゃなきゃおかしいって思うんだろうなあ!」
この建物は前任司祭着任の折、大旦那から提供されたものであるらしい。その事実は知るところであった。しかし、現況を
「ここは当区の教会ですよ」
「おめでたいことを
「教会です。もちろん、寄り合いの折には〈集会所〉かもしれませんが」
「は! 新参者が生意気に! まあいい、半年っぱかし経ったが、おおむねあんたも皆から好かれとるようではあるしな。それに必要なことなんだ。さすがにもうわかっとるよ。そりゃもういろいろあったからな。わしらはつねに
大旦那は気だるげに大きく首を回しながら身じろぎし、斜め前方の私にまっすぐ対した。しかしその視線は祭壇の前に在る私をすり抜け、背後の十字架に注がれているようだった。
机の上で
なぜだろうか、それは働き者の手というよりは、
「そのように思われるのであれば、
「……わしらとは言ったがね、わしはいいんだよ。わかるかい?」
奇妙にやわらかな
「わかりかねますね」
「いいや、わかってるはずさ。祈らずにはおられん者たちのために主はおわすってことだよ。祈りなくばとても耐えられん者たちがいる。なあ、わかってんだろう?」
組んだ手をゆっくり
《わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである》
「
大旦那は
「そういう問答をしに来たわけじゃあねえ。だが、ことさら用事ってほどのもんでもねえ」
私は返事に窮し、曖昧に口を開け、しかしすぐに閉ざした。沈黙はほんの一瞬だった。かなり遠くの方から――おそらく中央広場の
「まず……そうだな。いたずらにがきどもを知恵づかせても、ほとんどは役立たずになるだけだってことを言っておきたくてな」
「なんですって?〈学校〉のことですか?」
私は理由なく突然背後から
「やめろとは言わん。だがな、やりすぎはよくねえって忠告しに来たのさ」
「お待ちください。私が子どもたちに教えている読み書きは、まず第一に聖書を通じて神の教えを――」
「まあ聞け!」
大旦那は私の言葉を打ち消すように右拳の
「わしはあんたがやりすぎてるとは言ってねえ。いまくらいでいいって言ってんだ」
「……それでは〈いま以上〉をどのように定義なさるんです?」
「いい質問だ。がきどもが、もっともっとってな、あれこれと知りたがらんくらいにしておけってことなんだ。好奇心なんぞ糞の役にも立たねえからな。要するに、勘違いをさせるなってことさな。そうなったら、わしらもあんたを〈注意〉しなけりゃいけなくなるかもしれん」
「ご
「慌てなさんな。あんたのそれが善意そのもんだってことはわかる。神の愛さながらのな。だが、あいつらを幸せにするつもりなんだろうそれが不幸を生むってことにまでは考えが及んでねえようだ。ここいらの現実をわかっちゃねえってことさ。神学校出のお坊ちゃんにはわかりづれえことかもしれねえがよ」
大旦那は視線をゆっくりと私の顔から足先に落とし、そしてまた顔まで上げて、非友好的な冷たい笑みを浮かべた。
「つまり……つまり、この地の現実が、厳しい労役が、子どもたちの知的好奇心の
「あのな!
私と大旦那はしばし無言のまま見つめ合った。彼の眼差しからは不思議なことに、
そこには年功を経たものの実直さが湛えられているようにも思われた。いくつもの経験に裏付けられているのであろう迫真力があった。
しかし、それと同時に、老いて広がりを失った想像力とかちこちに硬化した思考力にへばりついた、もはや血肉そのものの強烈な諦念が、膿まんばかり赤剥けに
「……私は、過ぎたことをしているとは思っておりません。この地の
「ああ、わかっとるよ。そうだろうさ。この話はこれでいい。本題ってわけでもねえんだ。わしが少なっからず心配してんのは、せがれのことと、あんたら教会の今後のことさ」
「ご令息のことと、ああ……」
私は「教会の今後」と聞き、うなだれるほかなかった。すぐ目の前、右手の席に腰を下ろし、思わずため息をついた。そして、明り取りから細く注ぐ陽から逃れるべく、身をよじって座る位置を
「教会も修道院もあちこちで閉鎖されとるようだし、なにもかも没収されとるってえ話じゃねえか。北部で信徒らが蜂起したって噂も流れてるぜ。わしらとてどうなるかわからねえ。巻き込まれることだってあるかもしれん」
「国主は、いかなる意図をもって公教会を圧するのか、一体全体、なにが起こっているのか……」
「さっぱりわからんね。ただ、遅かれ早かれだ。いずれは
「……ご令息とは、いえ、ご令息とも、接する機会は少なく……ただ、ええ、そうですね、まだここに着任したばかりの折、彼が広場で、人だかりの中心で、誰かに鞭を振るっているのに遭遇しましてね、そのとき私は駆け寄って『おやめなさい!』と叫びましたが――」
私は閉鎖を余儀なくされた教会や修道院、追放ないし投獄された同胞たちのことで頭がいっぱいになり、不器用に、とぎれとぎれにしか話すことができなかった。心がちりぢりに乱れていっていた。
「やめやせんかったろう! あいつは怠け者や裏切り者に厳しすぎんのさ。大目に見れん。
そう言って大旦那は右手の親指で自分の左胸をちょんと突いた。いささかおどけたような声ではあったが、表情は固く、悲しげに見えた。
《一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい》
「聖句とは逆に、恐れられることを選んだのですね」
「わしがたしなめてもせせら笑うばかりだ。『親父殿、まあ見ててくれや』ってな。あいつはわかってねえ。落ちこぼれどもを完膚なきまでに叩きのめしちゃあいけねえ。奪いすぎると、奪うことに熱中しちまうんもんなんだ。勘違いしなさんなよ。恨みを買うのは大した問題じゃあねえんだ。跳ねっ返りにゃ痛い目に遭ってもらえばいいだけのことだ。とことんやれば子山羊みてえにおとなしくなる。ただな、それが楽しくなってきちまうと、そいつはまったくの時間の無駄なんだ。わしらにはそんな時間なんてありゃしねえのに、それこそが仕事なんだと思い込んじまう」
「恐ろしい考えをお持ちですね。決して、収奪と暴力を肯定してはいけません。それらをもって人びとを隷属させようなどと、そんなおぞましい考えはいますぐに捨て去るべきです」
「神の
「そんな……それは……まるでぺてんです。考えをあらためてください! あなたは人びとの不幸の
「わかってるさ! だが、あらためるわけにはいかんよ。なぜというに……そうしたらよ、教会が必要なくなっちまうじゃないか! ははは! わしらがこんなだからこそ、あんたらにはつねにお役目があるんだよ。世の中はうまくできてんのさ。さあ、ごちゃごちゃした話はこのあたりでしまいにしておこうや。今日はこいつを渡しに来たんだ。あんたも当然……酒は好きだろう?」
そう言って、大旦那は椅子に置いてあった麻袋に手を突っ込んだ。その中身はまさしく酒だった。昨今、流通の激減から高騰しているだけではなく、税制の改革までもが重なって、
「大旦那様……ああ、どうやって……!」
「へ、へ、へ! あんた、神の奇跡を目の当たりにしたようなとろけた面ぁしてるぜ! 神父も人間だな! 好もしいじゃねえか! こいつはちょっとした自慢さね。酒税官とは持ちつ持たれつの間柄でな、こんなご時世だのに、わしならな、〈当時価格〉でするりと、いくらでも手に入るんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。