第2話

 私の〈学校〉が終わると、子どもたちは競い合うようにして開け放しの扉口へと駆け出し、ひとりまたひとりと熱くまぶしい陽光に全身の輪郭をぼやかせて、溶け消えるように去っていった。


 毎度のことではあるが、途端の静寂にしばし呆と立ちつくしてしまう。しかしすぐに、余韻のような静けさは破られた。外から低くしゃがれた怒鳴り声が聞こえてきたのだ。「がきども! さっさと親父を手伝いに行けよ!」


 開きの真っ白い明るみを、ぬっとあらわれた大きな黒い影が侵す。判然としない胸苦しさのようなものを覚えながら、私は目を細めた。


「邪魔するぜ」


「おお……これはこれは。ご尊老そんろう。お久しぶりでございます」


 黒い影が屋内の薄暗さに馴染み、ごつごつとしたひとりの個性をあらわにする。地主の大旦那だった。


「せがれにをまかせた途端、どいつもこいつも〈ご隠居〉だの〈ご老台ろうだい〉だのとじじいあつかいしやがってよ、今度は〈ご尊老そんろう〉ときたか! お坊ちゃん! お育ちがよろしいようで! まったくなあ、こざかしい言い方をするもんだ!」


 大旦那は言い終えるやいなや素早く戸外に振り返り、これみよがしな音を立てて唾を吐き捨てた。そして無遠慮にどかどかと長靴ちょうかかかとで床を打ち鳴らし、祭壇の前に立つ私の側から数えて三列目、左の会衆席かいしゅうせきにどすんと腰を下ろした。彼が右手に持っていた細長い麻袋は――私はそれにたったいま気づいたのだが――そっと音もなく椅子の上に置かれた。


「祈りを捧げにいらっしゃいましたか?」


 私の虚しい言葉に大旦那は落ちくぼんだ小さなまなこをしばたたかせ、嘲弄ちょうろうへと結ぼれるいくつかの感情が絡み合ったものなのであろう猥雑わいざつかつ好戦的な笑みを浮かべた。


「神父さんよ! あんたの立場からすりゃ、この〈集会所〉に足を運ぶ理由はしんみりしたもんじゃなきゃおかしいって思うんだろうなあ!」


 この建物は前任司祭着任の折、大旦那から提供されたものであるらしい。その事実は知るところであった。しかし、現況をうつろにするような萎縮いしゅくするわけにはいかない。さりとて無論、いきどおりをもって対峙たいじするわけにもいかない。実際、私にいきどおりはなかった。いきどおりのないことを確認するこの思考の向きをかんがみるに、もはや一片ひとひらの不快感もないとまでは言い得ないのだが……。


「ここは当区の教会ですよ」


「おめでたいことをかしおる! もともとここはただの集会所でな、いまでも古株ふるかぶのわしらにとっちゃそうなんだ」


「教会です。もちろん、寄り合いの折には〈集会所〉かもしれませんが」


「は! 新参者が生意気に! まあいい、半年っぱかし経ったが、おおむねあんたも皆から好かれとるようではあるしな。それに必要なことなんだ。さすがにもうわかっとるよ。そりゃもうあったからな。わしらはつねにゆるしを乞わねばならんのだし、祝福にしても、御使みつかいのあんたらにお願いするしかねえわけだし」


 大旦那は気だるげに大きく首を回しながら身じろぎし、斜め前方の私にまっすぐ対した。しかしその視線は祭壇の前に在る私をすり抜け、背後の十字架に注がれているようだった。


 机の上で曖昧あいまいに組まれた大旦那の節くれ立った両の手を、明り取りから注ぐ斜光が生々しく際立きわだたせている。私は痛ましいものを直視してしまったような気分になった。


 なぜだろうか、それは働き者の手というよりは、けがれた咎人とがびとの手に見えたのだ。疑いようもなく、聖職者としてあるまじき偏頗へんぱな眼差しだった。短慮そのものだった。私はそのように見てしまったことを恥じ、悔いるべきなのだろう。


「そのように思われるのであれば、主日しゅじつ祭儀さいぎにご参加ください」


「……とは言ったがね、わしはいいんだよ。わかるかい?」


 奇妙にやわらかな声音こわねだった。微笑にもいたらぬほどの淡々あわあわしい表情でつぶやくように言った。


「わかりかねますね」


「いいや、わかってるはずさ。祈らずにはおられん者たちのために主はおわすってことだよ。祈りなくばとても耐えられん者たちがいる。なあ、わかってんだろう?」


 組んだ手をゆっくりほどき、両の手のひらを上向きに広げながら、大旦那はいぶかしむように眉根まゆねを寄せて言った。


《わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである》


の一節についておっしゃっていますか?」


 大旦那は眉間みけんに刻まれたしわをなお一層深くし、私の顔をじっと見つめた。


「そういう問答をしに来たわけじゃあねえ。だが、ことさら用事ってほどのもんでもねえ」


 私は返事に窮し、曖昧に口を開け、しかしすぐに閉ざした。沈黙はほんの一瞬だった。かなり遠くの方から――おそらく中央広場の落羽松らくうしょうのあたりだろう――子どもたちの笑い声がそよめいていた。


「まず……そうだな。いたずらにがきどもを知恵づかせても、ほとんどは役立たずになるだけだってことを言っておきたくてな」


「なんですって?〈学校〉のことですか?」


 私は理由なく突然背後から打擲ちょうちゃくされたかのごとくに驚き、背をのけぞらせた。


「やめろとは言わん。だがな、やりすぎはよくねえって忠告しに来たのさ」


「お待ちください。私が子どもたちに教えている読み書きは、まず第一に聖書を通じて神の教えを――」


「まあ聞け!」


 大旦那は私の言葉を打ち消すように右拳のつちでどんと机を打ち、大声をあげた。


「わしはあんたがとは言ってねえ。って言ってんだ」


「……それでは〈いま以上〉をどのように定義なさるんです?」


「いい質問だ。がきどもが、もっともっとってな、あれこれと知りたがらんくらいにしておけってことなんだ。好奇心なんぞ糞の役にも立たねえからな。要するに、勘違いをさせるなってことさな。そうなったら、わしらもあんたを〈注意〉しなけりゃいけなくなるかもしれん」


「ご尊老そんろう。子どもたちが教養を得て、神の愛に触れ、祈りを知り、内発的な思索の積み重ねから自分たちの生き方に健全な主体性を打ち立てるようになることは……あなた方にとり不都合だということですか?」


「慌てなさんな。あんたのが善意そのもんだってことはわかる。神の愛さながらのな。だが、あいつらを幸せにするつもりなんだろうが不幸を生むってことにまでは考えが及んでねえようだ。ここいらの現実をわかっちゃねえってことさ。神学校出のお坊ちゃんにはわかりづれえことかもしれねえがよ」


 大旦那は視線をゆっくりと私の顔から足先に落とし、そしてまた顔まで上げて、非友好的な冷たい笑みを浮かべた。


「つまり……つまり、この地の現実が、厳しい労役が、子どもたちの知的好奇心の萌芽ほうがむしり取り、その痛みが彼らを不幸の感覚に埋没まいぼつせしめるということですか? そうだとしたら――」


「あのな! 半端はんぱに知恵づくとな! 目の前の仕事や血の宿命から逃げることがいまよりよくなることだと考え違いしやがるのさ。わしは見てきた。なんにも生み出さねえ口先だけの野郎ばかりさ。小難しいことほざいて、額に汗したくねえだけなんだ。一等迷惑なことだ。まわりの誰もがやりづらくなる。文句ばっかりさ。足がかりなんざねえ奴ほど、足をどっかに乗せられるもんだと思っちまう。自惚うぬぼれた阿呆でなければ、与えられたもんと足りねえもんとを受け入れて、耐えて、その上でじっくり気骨ってもんを育てるさ。だが、そういう男は案外少ねえ」


 私と大旦那はしばし無言のまま見つめ合った。彼の眼差しからは不思議なことに、嘲弄ちょうろうも怒気も感じられなかった。なぜかそれらはすっかり消えてしまっていて、まことの信念をあらわそうとするかのごとくに、むしろ誠実さのようなものさえもが、きわめて自然に感取されたのだった。


 そこには年功を経たものの実直さが湛えられているようにも思われた。いくつもの経験に裏付けられているのであろう迫真力があった。


 しかし、それと同時に、老いて広がりを失った想像力とに硬化した思考力にへばりついた、もはや血肉そのものの強烈な諦念が、膿まんばかり赤剥けにさらされているのでもあった。本当のところはわからない。ただ、私にはそのように見えた。


「……私は、過ぎたことをしているとは思っておりません。この地のおきてと申しましょうか、暮らしの成り立ち、営みと神の教えはつねに、必ず、和解可能なものです。決して、おこがましく知恵を授けるものではありません。教えはただただ愛に基づくものです」


「ああ、わかっとるよ。そうだろうさ。この話はこれでいい。本題ってわけでもねえんだ。わしが少なっからず心配してんのは、せがれのことと、あんたら教会の今後のことさ」


「ご令息のことと、ああ……」


 私は「教会の今後」と聞き、うなだれるほかなかった。すぐ目の前、右手の席に腰を下ろし、思わずため息をついた。そして、明り取りから細く注ぐ陽から逃れるべく、身をよじって座る位置をかげにずらした。


「教会も修道院もあちこちで閉鎖されとるようだし、なにもかも没収されとるってえ話じゃねえか。北部で信徒らが蜂起したって噂も流れてるぜ。わしらとてどうなるかわからねえ。巻き込まれることだってあるかもしれん」


「国主は、いかなる意図をもって公教会を圧するのか、一体全体、なにが起こっているのか……」


「さっぱりわからんね。ただ、遅かれ早かれだ。いずれは他人事ひとごとじゃなくなるだろう。当面、土地まわりの整備だかなんだかについちゃ、せがれも役人どもをたらし込んでうまく立ち回ると思うが……最終的にどっちにつくかが分かれ目になるんだろう。問題は、わしらがどっちにつくことになろうと、あいつはここいらのをきつくするだろうってことよ。あれは加減を知らねえところがある。わしとはちがう。保身に走りゃ暴君にもなりかねん。内側をとことん締め上げるだろうよ。そういうどうしようもねえ気質があるんだ。わしの弱みだな。親馬鹿でよ。恥だよまったく。商売上手になりやがって、頭の切れは悪かないがなあ。あんたはとくに気をつけた方がいい。せがれとはうまくやれ。孤立無援になったら食えなくなるぞ。いまだってあんなけちな小屋に住まって、ぎりぎりの生活なんだろう? 清貧を気取るのもほどほどにしときな」


「……ご令息とは、いえ、ご令息とも、接する機会は少なく……ただ、ええ、そうですね、まだここに着任したばかりの折、彼が広場で、人だかりの中心で、誰かに鞭を振るっているのに遭遇しましてね、そのとき私は駆け寄って『おやめなさい!』と叫びましたが――」


 私は閉鎖を余儀なくされた教会や修道院、追放ないし投獄された同胞たちのことで頭がいっぱいになり、不器用に、とぎれとぎれにしか話すことができなかった。心がちりぢりに乱れていっていた。


「やめやせんかったろう! あいつは怠け者や裏切り者に厳しすぎんのさ。大目に見れん。ゆるすのが下手なんだ。わしに似たのかもしれんがな。ただ、それがとんでもねえ大損だってことに気づけん愚かさは、このわしのなかにはなかったと信じたいね」


 そう言って大旦那は右手の親指で自分の左胸をちょんと突いた。いささかおどけたような声ではあったが、表情は固く、悲しげに見えた。


《一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい》


「聖句とは逆に、恐れられることを選んだのですね」


「わしがたしなめてもせせら笑うばかりだ。『親父殿、まあ見ててくれや』ってな。あいつはわかってねえ。落ちこぼれどもを完膚なきまでに叩きのめしちゃあいけねえ。奪いすぎると、奪うことに熱中しちまうんもんなんだ。勘違いしなさんなよ。恨みを買うのは大した問題じゃあねえんだ。跳ねっ返りにゃ痛い目に遭ってもらえばいいだけのことだ。やれば子山羊みてえにおとなしくなる。ただな、それが楽しくなってきちまうと、そいつはまったくの時間の無駄なんだ。わしらにはそんな時間なんてありゃしねえのに、それこそが仕事なんだと思い込んじまう」


「恐ろしい考えをお持ちですね。決して、収奪と暴力を肯定してはいけません。それらをもって人びとを隷属させようなどと、そんなおぞましい考えはいますぐに捨て去るべきです」


「神のおぼしか! そんななやり方はここいらじゃ通用せんよ。ちくりともせんのじゃ誰も言うことなんざ聞きゃしないのさ。わしが強調したいのは〈手心が大切〉ってことさ。人はいつか幸せになれっかもしんねえって思えなけりゃ、元気も湧いてきやしねえのさ。わしらが生き延びてくための仕事ってなあ、とにかくなんであれ、腕っぷしが必要なんだよ。骨が折れるんだ。それにはまずな、実のところであってもだ、『馬鹿まじめに言うこと聞いてりゃ、もしかしたらいまよりゃ暮らしぶりもよくなるかもしれねえ』ってな、そういう気分を保てるくらいのきわに留まらせてやらねえとだめだ。そこらへんを調整してやらんといかんわけだな。つまりは、不幸な連中が不幸になりすぎないように気を遣ってやらにゃならねえのさ。それができてりゃ、みんな具合よくってもんだ」


「そんな……それは……まるでです。考えをあらためてください! あなたは人びとの不幸の多寡たかを調整するのではなく、人びとの幸福を漸増ぜんぞうさせるべく努めるべきですし、それを成し得る実力だってお持ちなのではありませんか?」


「わかってるさ! だが、あらためるわけにはいかんよ。なぜというに……そうしたらよ、教会が必要なくなっちまうじゃないか! ははは! わしらがだからこそ、あんたらにはお役目があるんだよ。世の中はうまくできてんのさ。さあ、ごちゃごちゃした話はこのあたりでしまいにしておこうや。今日はこいつを渡しに来たんだ。あんたも当然……酒は好きだろう?」


 そう言って、大旦那は椅子に置いてあった麻袋に手を突っ込んだ。その中身はまさしく酒だった。昨今、流通の激減から高騰しているだけではなく、税制の改革までもが重なって、衆庶しゅうしょにはいよいよ手が届かなくなっている、例外なく誰もが欲してやまない、この世でもっとも素晴らしいもののひとつである火酒……琥珀色のそれを見ただけで、記憶の奥深い層からまろやかな酩酊の心地が反芻されるようだった。


「大旦那様……ああ、どうやって……!」


「へ、へ、へ! あんた、神の奇跡を目の当たりにしたようなとろけた面ぁしてるぜ! 神父も人間だな! 好もしいじゃねえか! こいつはちょっとした自慢さね。酒税官とは持ちつ持たれつの間柄でな、こんなご時世だのに、わしならな、〈当時価格〉でするりと、いくらでも手に入るんだ。御使みつかいへの捧げ物だよ。きっと神さまも見てくださってる。さ、いっとき嫌なこたあ忘れて、今夜はぐっと楽しむがいいぜ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る