エステファニア・ヴィラロボス
鈴木彼方
第1話
「あの人が生きてりゃ、こんな暮らしにゃならんかったはずなんだよ……」
毎夜、母さんはそう言ってすすり泣くんだ。
かたい寝床の上でからだを折り曲げ、ちぢこまって、手をわなわなさせながら、えんえんと呪わしげにウーウーうめいてる。ここんところはとみにひどい。
半年前のとんでもない豪雨のせいで――まるで滝に打たれているみたいだったなあ――わたしたち母娘にあてがわれてるほったて小屋もいよいよばらばらになっちまいそうだった。吹き込んでくる冷たいすきま風が、へとへとのわたしたちにとことんまでの追い打ちをかけて、ただ眠ることさえゆるすまいとするんだ。
旦那はこのあばら屋をなおすつもりなんざこれっぽっちもありゃしない。母さんは「贅沢をぬかすな!」と怒鳴られ、しこたま殴られた。突然小屋が崩れて、わたしたちがあの重たげな
「おまえはな」と旦那はことあるごとにわたしを指さして言う。「なんの役にも立ちゃしない、無駄飯食いの卑しい小娘にすぎないんだぞ。いつか〈医療券〉でももらって、わしらに恩返しせにゃならん。なあに、あとほんの数年さ!」
ああそうなのか、なんならわたしにも少しは値打ちがあるのかと思いきや、ぽつりぽつりと、なんだかやけに暗い感じで、こんなふうに言われることもあった。
「おまえが股を開こうが開くまいが、こっちが損してることにゃ変わりはねえ。むしろ、おまえら母子が生きてるかぎり損をしつづけるようなもんなんだ。なんにも変わりゃせんよ。厄介事でしかない。おまえらが生きてるのは奇跡みてえなことさ。試されてるんだよ。神とわしらの憐れみに感謝するがいい……」
母さんの気持ちはわかる。なんでまた、こんなにもひどいことばっかりで、よいことがなにひとつとしてないのだろう? わたしと母さんは誰からも引っ
父さんのことは知らない。青白くって痩せっぽちの、ひどく気難しい、無口な小作人だったらしい。ながいことこの地で暮らしていたはずだのに、母さんよりほかの誰からもしっかりとは覚えられていない。ここいらの誰に聞いてもはてと首をかしげられてしまう。「おまえさんの親父はまったく幽霊みたいな野郎だったな。どんな
母さんはいまやほとんど父さんのことを恨んでるみたいだった。わたしがまだもうすこし小さかったころは「あの人の
年の離れた兄さんはいかがわしい連中とつるんで姿を消してしまった。もう兄さんがどんな顔だったかさえ忘れかけてるくらいだし、思い出もぼんやりしてところどころすっかりかすれちまってるけれど、ひどい悪さをするようなたちではなかったと思う。もっとも、これはほとんど嘘っぱちで――そうさ、本当はわかってるんだ――、つまり、わたしからはそう見えてたってだけのこと。でも、悪さをすまいとためらう気持ちをちゃんと心のどこかに取っておいた時期もあったんじゃないかと思う。ほとんど乳離れしたばかりの、まだいまよりもてんでちびだったわたしに本を読んでくれたことだってあったんだ。不思議なくらいちゃんと覚えている。「神父さまから教わったんだ」って、うれしそうに言ってたなあ。教わったことをたしかめるように、ひとさし指でゆっくり字をなぞってた。「いつかおまえにも教えてやっからな――」
母さんには父さんが亡くなったことよりも、兄さんがいなくなったことの方がぜんぜん悲しいみたいだった。ことあるごとに「ああ」って、聞いているこっちがうんざりするような低い声で嘆いてた。「せめてあの子がいてくれりゃ、少しは助けになったろうに、やくざな連中にそそのかされて、まともな道を見失っちまったんだ」
わたしにはここにいつづけることが〈まともな道〉なのかはわからなかったけれど、兄さんがいた方がわたしたちにとってよかったのはたしかなことだ。兄さんが〈逃げ去った〉ことには旦那たちもえらく腹を立てたらしい。旦那と取り巻き連中は「せめてあの長男がいりゃ、おまえらにもいくらかはましな暮らしがあったろうによ」と、
それでも母さんは、天気がよくってほんわりあったかい朝や、月が
わたしたちは父さんが亡くなると、もともといた家を叩き出されて、首を吊った〈えせ神父〉が住まっていたというこの小屋に押し込められた。当時のことはよく覚えちゃいないけども、そういうことだそうだ。聞くところによると、神父はあの
母さんは「旦那にここで暮らせって言われたとき、もういっそあの
誰にも話したことはないけど、兄さんは「いつか戻ってくるからな」って言っていたんだ。このこともはっきり覚えている。夜更けのことだった。ごうごうと風がやかましくうなっていたよ。ひどい夜だったんだ。兄さんは眠ってるわたしの体をゆすぶって「いつか戻ってくるからな」とだけ耳もとでささやいた。わたしは眠くて眠くて返事もできなかった。やっと寝られたってのに突然ぐらぐらやられて、腹も立ってたんだと思う。そう、ぷいっと寝返りを打って、さっさと夢ん中へ戻ってったんだ。そして翌朝、兄さんと近所のふだつきたちがいなくなっていた。あのとき「行かないで!」って飛び起きてたら、わたしたち母娘の暮らしもちがっていたのかもしれない。
兄さんがいつか戻ってくるかもしれないってことを、そう本人が言ってたってことを母さんが知ったらば、それがいくらか励ましになるだろうことはわかってた。いずれ心に本物の希望がわいて、ちっとは元気が出るってわかってた。でも、あの朝、わたしは言うべきじゃないって思ったんだ。なぜって、わたしは最初から知ってたんだ。兄さんは決して戻ってきやしないって。
わたしにとっての兄さんは〈まとも〉だったけれど、たぶん
直感が当たってたってわかったのはつい五日前のこと。いや、実際んとこ、それが〈本当のこと〉なのかどうかはわからない。でも、みんなそう言ってるし、わたしもそうなんだろうなって思ってる。兄さんと悪い仲間たちは、この集落の隣の、隣の、隣の……名前を忘れちまったけど、ここよりもずっとずっと大きな町で、さらし首かなにかになったって話だ。
もちろんただの噂さ。だって、遠くの町で悪さを働いて皆殺しにされたとして、どうやったらそれがこの集落の誰それだったってわかるっていうのか。それに、どうしてそんなどうでもいい、ありきたりな話がわざわざ〈
噂が嘘っぱちだとしても、その嘘はいわゆる〈信仰〉ってやつなんだと思う。〈まともな道を見失っ〉て〈逃げ去った〉連中はひどい死に方をするもんなんだと、そうあってほしいと心から願っている人たちがたくさんいるってことなんだ。悪いことをしたらかならず報いがあるってことなら、悪いことをしないようにじっと
なにが起きたのか、本当んとこは永遠にわかりゃしない。でも、遅かれ早かれな話さ。きっと大方のことはあらかじめ決まってるんだ。兄さんの選んだ行き止まりは、わたしのそれよりもちょびっとは楽しかったかもしれない。少なくとも、自分の生き方を自分で選んだ気分にはなれたにちがいない。ただの勘違いだったにしても、ほんの一瞬、なにかをつかみ取れるようなわくわくした気持ちにはなれたのかもしれない……。
〈できそこないども〉が遠くの町で処刑されたって噂は数日間もちきりになった。当然、母さんの耳にも入っちまったってことなのさ。
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