第244話 結局

「ひ、ひぃ~」

 アゼルに殴り飛ばされた後に胸ぐらを掴まれた大司教マッグワックは、声にならない声で家畜のようにいていた。


「おい! ひぃ、じゃねえんだよ。返事はどうした!?」

 アゼルはさらにマッグワックの胸ぐらを締め上げて返事を要求する。

 その光景を護衛兵たちは唖然とした顔で見ており、このヴァージンレイクの頂点である男を平気で殴り飛ばしたアゼルと、そして自らの責務を果たせなかったことによって下るであろう罰への恐怖で震えている。


 そこへ、


「ア、アゼル! もういいよ、離してあげて。アゼルが怒ってくれて嬉しかったから。それで十分だから」

 イリアがアゼルを背中から抱き止める。


「っ、イリア。だがコイツはお前をっ!」

 それでもなお止まらないアゼルだが、

 

「ううん、いいの。──だからお願い」

 イリアの悲しそうな声を耳にして、彼は掴みあげた襟首から手を離していた。


「うひぃ、ひぃ、ひぃ!」

 地面に崩れ落ちて必死に息をするマッグワック。


「ちっ、もういい。おい大賢者、これでお前の段取りは台無しだな。悪いが強行策で神晶樹の森とやらへ向かうぞ」

 半ば投げやり気味にリノンに言葉をかけるアゼル。

 だがそれにリノンが答える前に、


「ま、待てお前たちぃ! 私にここまでの暴力を奮ってただで済むと思ってるのかねぇ?」

 大司教マッグワックが立ち上がり、アゼルたちを激しく睨み付ける。


「まだ起き上がる元気があったのかよ。いいぜ、二度と立ち上がれなくしてやるからよ」

 マッグワックの態度にキレたアゼルは今度は息の根を止めるのではと思わせるほどの形相に変わる。


「まあまあキミら、この辺で一旦事を収めようじゃないか。そもそもだね大司教どの、キミの言う『暴力』なんて一体どこにあるというんだい?」

 そこにリノンが実に白々しい態度で割り入ってきた。


「何を言っているのだねキミぃ? 現に私がこうして殴られただろう! ほら私の顔もこんなに腫れてるじゃないかぁ」

 マッグワックはアゼルに殴られた側の頬を見せて主張する。


「う~ん、どうかな? キミの顔は最初からそのくらい腫れてた気もするのだけど。それに暴力行為とか荒々しいのは僕の趣味ではないんだよねぇ。だってほら、そこのモブ兵士くんだってピンピン無傷だろ?」

 リノンは辺りをグルグルと回りながら、始めに少女を取り囲んでいたリーダー格の男の両肩をパンパンと叩かく。


「あ、ああ。そりゃ俺は殴られてないけどよ」

 そのリノンの行為に困惑気味の男。

 しかしリノンはそんなことはどうでもいいと、次にアゼルが腕を捻って地面に倒し、今も気絶している男……を介抱している男のところに行き、


「ほら、キミも元気だよね?」

 ニコリとした笑顔で問いかける。


「いや、だから俺たちは何もされなかったが、コイツと大司教様は明らかにあの男に暴力をふるわれただろうが。これは大問題だぞ!?」

 声をかけられた男はリノンの不思議な態度に困惑しながらも、実にもっともなことを言う。


「ん、いやゴメン。よく聞き取れなかったなぁ。え~と『俺たちは何もされなかった』だっけ? それってつまりってことだよね?」

 そうリノンは指の一つを光らせながら、軽薄けいはくと白々しさを極めた笑みを浮かべてみせた。


「は? おい話を聞いてたのかよアンタ。だからコイツと大司教様は……」

 男はリノンの噛み合わない返答にさらに困惑するが、その間に彼が介抱していた男が目を覚ます。


「ん? 俺は、何をしてたんだ?」

 まるで夢から目覚めたかのように清々しい表情の男。


「良かった、意識を取り戻したのか。お前はさっきあの男に……、あれ? 何をされたんだっけ?」

 介抱していた男はアゼルを指差し、これまでの経緯を説明しようとするが、自身の記憶を探ろうとしたところで固まってしまう。


「ああ、良かったねそこのモブ兵士くん。何があったかは僕は良く知らないけれど、何もなかったようで何よりだよ。それで、キミの調子はどうかな大司教どの?」

 

「さっきから意味のわからんことをズラズラと、私はしっかりと殴られたではないですかぁ。ほら、ほらっ、……あれ?」

 マッグワックは再び自分の腫れた頬を見せつけようとするが、その箇所にまったく痛みがないことに気づく。


「いやだねぇ大司教どの、僕はあいにくと男の顔をジロジロ眺める趣味はないよ。キミの頬は殴られてもいないし腫れてもいない、たっぷりとあぶらが乗っているだけさ」

 

「な、なにぃ?」

 指摘されたマッグワックは自分の頬を何度もさするが、リノンの指摘した通り何の外傷も痛みも感じとることはできなかった。


「なあ、リノン。これはやっぱりお前の……」


「そうさアゼル、キミがやらかした暴力沙汰はみんなの記憶どころか世界からも『なかった』ことになっている。イリアやキミ、そして大司教の彼は覚えていられるように調整したけどね」


「……なんでそいつの記憶も消さなかったんだ?」


「なんでって、そりゃキミが殴った痛みまでも忘れられちゃ嫌だろ? それに見ていてごらんよ」

 リノンは大司教を指差して言った。


「何がなんだか分からんが、私が殴られたのは確かじゃないかぁ。おいお前たち、そこの男を捕まえて牢に放り込みたまえぇ」

 大司教は狐につままれたような心持ちながらも、記憶にある痛みを頼りに兵士たちへとアゼルの捕縛を命令する。

 しかし命令を受けた兵士たちは困惑した様子で、


「し、しかし大司教様、いくらなんでも男を捕らえることなどできませんよ」

 大司教の言葉に従おうとしない。


「な、なにぃ? いやいやちょっと待ちたまえ。お前たちも私が殴られるところを見ていたはずだろう?」

 まるで記憶が抜け落ちたかのような護衛兵の態度に、大司教マッグワックはそれこそ混乱しながらも自身の被害を主張する。

 だが、兵士たちは顔を見合わせるばかりで、それどころかマッグワックの訴えに対して徐々に不審の気配まで漂い始める。


「おいおい、何の冗談かねぇ。おーい、皆さんだって私が殴られたのを見ていましたよねぇ?」

 ついにマッグワックは大通りの通行人にまで訴えを広げるが、確かにアゼルに殴られたのを見ていたはずの人々の誰もマッグワックを擁護ようごしようとしない。


「おやおや大司教どの、その辺でやめておいた方がいいじゃないかな? そのままだとみんなに虚言を吐いていると思われて信頼をなくすよ」

 混乱するマッグワックへと、リノンが実にニコニコした顔で歩み寄る。


「お、お前が、皆に何かをしたのか?」

 そんなリノンに怯えの表情を見せるマッグワック。


「何か? さてどうだろう記憶にないなぁ。もしかしたら僕も被害者なのかもしれないね。まあそんなことはどうでもいいや。キミはケガもしていないし、殴られたと言い張るのは少し難しいね。さっきも言ったけど、この辺が引き際じゃないかな?」


「ひ、引き際ぁ? ふ、ふざけるな、私は大司教、このヴァージンレイクの頂点だぞ。こんなわけのわからないマネをされて黙っていられるか! たとえ殴られたことがなかったことになったのだとしても、私の権力があればお前たちをどうにでもできるのだからなぁ!」

 マッグワックは開き直ったようにリノンたちを指差してそう言い放つ。


「へぇ、まだこれで懲りないとか、なかなかに末期だねぇ。こりゃ仕方ないかな」

 そんなマッグワックの態度を見て、何かに見切りをつけたような表情になるリノン。


「おいリノン、せっかくうやむやにしてくれたところ悪いが、こいつがその気なら俺は本気で暴れるぞ。最悪この街全てを敵に回してもいい」

 アゼルも一向に反省の気配がないマッグワックを見て、怒りで完全に覚悟を決めていた。


 だがそこへ、


「あ、あの!!」

 一人の少女の声が響く。

 皆が振り向くと、その声の主は一番始めに湖水教の男たちに絡まれていたあの黒髪の少女だった。


「おや、どうしたのかな愛らしいお嬢さん。逃げてもよかったんだよ」

 その少女にリノンは優しい笑みと言葉をかける。


「いえ、私が原因でこんな大事おおごとになったのに、逃げるなんてできません」


「へぇ、そんな責任を感じなくてもいいのに。……名前は?」


「ラ、ライラです」


「そうかライラ、それでキミは何を言おうとしたのかな」

 リノンは言葉で場を制しながら、少女に続きを促していく。


「わ、私は、浄水処女になります。そ、それでこの場は収まらないでしょうか?」

 少女、アイラは両手を胸の前で握りしめ、勇気を振り絞ってその言葉を口にした。


「って、おいおい。それじゃ何のために俺がこいつとやりあったのかって話になるだろうが。別に、お前がムリすることはないんだぞ」

 少女の様子を見て怒りのゲージが急降下したのか、アゼルは慌てて少女の側へと駆け寄り、頭を撫でて優しい表情を見せる。


「い、いえ。あの男の人たちに囲まれて本当に怖かったところを助けてもらって感謝しています。ですが、おかげで浄水処女への勧誘の話なのだと分かりました。この街では浄水処女は立派なお仕事の一つです。そういう話なのであれば、私はそれを受けようと思います」

 ライラは顔をあげて、はっきりと言った。


「そ、そうか。それなら、まあいいけどよ」

 アゼルはやや釈然としないながらも、少女の考えを受け止めた。


「聞いたかい? 大司教どの、彼女は勇気を出して浄水処女になると決意した。その英断をもって、この場はまるく収めてくれないかな? 僕としては、ここでキミが彼女の厚意を無下むげにするようなら、別に行きつくところまで行ってしまってもいいと思っているのだけど?」

 リノンは大司教に向けて最後の和解を申し出る。そしてその言葉には彼にしては珍しい冷たいニュアンスも含まれていた。


「ふ、ふん。我が湖水教の蒼兵の任務が健全にまっとうされるのであれば、私が口を出す必要はないからねぇ。だが勘違いしないでくれたまえよ、私は君らを許したわけではないし、何かあればすぐにでも牢に放り込んでやるからねぇ!」

 リノンの言葉にやや怖気づきながらも、マッグワックは言いたいことは言ってそそくさと逃げるように護衛兵を連れて大通りを立ち去っていった。


「ちっ、何も反省してないだろあの野郎」

 その後ろ姿をアゼルは怒りを煮え滾らせながら睨みつける。


「でもアゼル、暴力で解決することは良くないよ。それじゃエミルさんと一緒じゃない」

 そこへイリアがアゼルの手を握って優しく諭す。


「あ、ああ。ってイリアもなかなかにエミルの扱いひどいのな」

 アゼルはイリアの真面目な顔を見て、少しだけ笑う。


「さてモブ兵士諸君、こちらのライラ嬢はキミらの勧誘を受けるそうだよ。彼女のおかげでキミらも助かったようなものなんだ、丁重に送り給えよ」

 リノンは少女ライラの背に手をやって湖水教の兵士たちへの前に送り出す。


「あ、ああもちろんだ。嬢ちゃんすまなかったな、乱暴な勧誘をして」

 男たちも気まずそうに少女へと頭を下げた。


「いえ、もう過ぎたことなのでいいんです。それで、これから私はどうすればいいのでしょうか?」


「ああ、まずは教会本部に行ってそこで詳しい説明がある。浄水処女になるかどうかはその説明を聞いて正式に決断してくれ。それじゃ案内する」


「はい、わかりました。それでは、あのアゼル、さんでよろしかったですよね。助けていただいて本当にありがとうございました」

 アイラは丁寧にアゼルに頭を下げて、男たちについていった。


「はぁ、結局俺のしたことはなんだったんだか」

 彼らの背中を見て、アゼルは溜め息をつく。


「困っている女の子を助けるのはいいことだよアゼル。…………あの子に抱き着かれた件と頭を撫でた件については後で追及するけど」

 イリアはそんなアゼルの手を優しく握り、もう一方の手で彼の手の甲を少しつねる。


「イテッ、いや別に俺はやましい気持ちにはなってないからな」


「はいはい、痴話喧嘩は人のいないところでやってくれよキミたち。さて、神晶樹の森への入場許可を得ようにも肝心の大司教があの調子だ。エミルくんたちも遊びに行ったことだし、ここは一旦解散してヴァージンレイクの情報収集でもしようじゃないか」


「……なあ、別にもう正規の手段にこだわらなくてもいいんじゃないか? あの感じだと絶対に許可なんか出さないぞ」

 

「それは判断が早いよ魔王アゼル。いいかい、社会においてルールを守るのはそれなりに大事なことなんだよ。それは正しいことに従えとかいう道徳的なことではなくて、ルールをきちんと守った方が得られるものが多いように世の中できているからさ」


「そうかぁ? 時にはルールを破った方がいいだろ」


「それはケースバイケースさ。法や暗黙の了解といったものを逸脱いつだつすれば短期的に見れば利益も多い。だけど当然長いスパンでとらえると失うものもそれなりに多くなってしまう。だから、彼女の為を思うなら、守れるうちはルールを守ろうじゃないか」

 リノンはイリアに視線を向けてそう言った。


「ズルとか手順無視上等のお前が言うとまったく説得力がないな」


「あはは、だから僕のことは反面教師だとでも思ってくれ。なに、正式に許可を貰う算段はすでについている。さっきは情報収集なんて言ったけど、気にせずに二人でこの街を巡ってくるといいさ」

 そう言ってリノンは大通りの人混みの中へと、さっと溶けていった。


「アイツもアイツで言いたいこと言って消えやがったな。どうする、イリア?」

 アゼルは今も手を握ったままのイリアに向けて話を振る。


「う~ん、街を見て回ってたらそのうちエミルさんたちにも会えるだろうし、それまで、しよっか?」

 するとイリアは両手でアゼルの手を握り直して、満面の笑みを彼に見せたのだった。



(あ、イリア。私の存在を完全に忘れてる。え、なに? もしかしてこれからこの子たちのイチャイチャを空気になって見ていないといけないの?)


 そして、珍しく空気を読んでしまったアミスアテナにとっての拷問のような時間も同時に始まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る