第55話 どこかのいつか

 パタン。


 分厚い本が優しく閉じられる。



「はい、今日はここまでかな」



「え~、もう終わり? はやーい」



「文句言わないの。あなたはそろそろ習い事の時間でしょ」



「う〰️、私お勉強嫌いだもん」


 幼い少女は座っていた椅子にしがみついて抵抗の姿勢を見せる。


「はいはい、そんなこと言ってないで、あの二人も待ってるんだから早く行きなさい」



「いーや、私は魔法使いさまみたいに自由に生きるのー。てんいむほーなの~」



「へぇ……、いい覚悟ね。あの人みたいに生きるにはまず『力』が必要なのよ。……試してみる?」


 母親は怖い笑みを作って拳を握ってみせる。



「う、お母様の意地悪」



 トントン



 そんな折、部屋のドアが丁寧に叩かれる。



「アーシャ様、そろそろお時間です」



「ほら、お迎えが来たわよ。アーシャ、行きなさい」



「う~」



 渋々といった様子で少女はドアを開く。


 ドアの向こうには二人の男女が、


 二人とも歳の頃は17、18といったところで赤髪の青年と青髪の少女の組み合わせだ。

 どちらも凛々しい燕尾服を纏い、いかにも執事然とした様子である。



「それじゃ。アーシャをお願いね」



「「かしこまりました」」


 声を重ねて、二人の男女が一礼して、いまだ抵抗する女の子をそれぞれが片手ずつを握って連れていく。



「離してー、嫌なのに~」


 娘の悲痛な声をよそに、無情にもドアは閉まっていった。



「ふー、最近は生意気になってきたし、一人じゃなかなか言うこと聞かせるのも大変ね」


 肩から力を抜いて、母親は手にした本を棚へと戻そうとする。


 が、棚にしまいかけたところで、ふと手が止まる。



 ここから先の物語は、彼女にとっても意味深いものだ。



 幸いにも今日の午後の予定には幾ばくかの余裕がある。



 彼女は戻しかけた本を取り出して、庭へと向かう。



 雨の気配は遠く、風も穏やかだ。



 こんな日には屋外で思い出に浸るのも悪くはないだろう。





 軽い足取りで外に出た彼女は、庭に植わっているとても大きな木を背中にして腰掛ける。


 大木のすぐそばには、何も書かれていない石碑が築いてある。



 彼女は胸元からおもむろに取り出した黒ぶちの眼鏡をかけ、穏やかな瞳で天を見上げる。




 パラパラパラ


 

 記憶は未だその手の中に、


 優しい風に吹かれて、今日も懐かしき想いが捲られていった。

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