第30話 日常
小室孝子嬢がストーカーの件で俺の家に下宿する様になって、三ヶ月足らず。
もう雛祭りも過ぎたわけだが、三月三日には小室さんが我が家で散らし寿司を造ってくれた。
何でも彼女の郷里では、三月三日の節句と五月五日の端午の節句の夕食には必ず散らし寿司が出るんだそうだ。
但し、三月三日の節句には「桜でんぶ」を使い、五月五日の節句には「金糸卵」を使うのだそうだ。
どちらにも両方入れても良さそうに思えるが、田舎の風習と言えばそれまでなんだろうな。
例えば、四国のとある県では、お正月の雑煮に大福(あんころ餅)を入れるそうな。
俺の田舎ではタダの丸餅だが、関東以北では四角い切り餅が多いそうだ。
ところ変われば品変わる。
それそれに違っているからこそ、
『みんな違ってそれが良い。』の一つなんだと思うよ。
小室嬢が我が家に住むようになってから、朝食は妹の加奈が作り、夕食は孝子嬢が作るようになった。
まぁ、偶には俺もそのサイクルの中に入ったりするんだが、俺が料理をするとしても事務所の休日だけかな。
俺の場合、大体、外回りで夕食は遅くなる。
最近、朝は孝子嬢と一緒に出勤することが多い。
我が家から渋谷駅近くの事務所が有るビルまでは、信号にもよるが徒歩で7分から8分ほどかな。
遅くても10分もあれば辿り着ける距離にある。
俺も車を複数持っているし、電動バイクも持っているが、さすがにこの距離では使う必要も無い。
どうしても車が必要な場合はタクシーだな。
今日も今日とて、朝6時半に起床。
7時半には三人で朝食を食べて、8時15分には家を出るのが習慣になったな。
妹の加奈は、朝食を食べてすぐに出かけるが、俺と孝子嬢は職場が近いからゆっくりとできる。
それでも8時半には事務所を開けて、午前9時から探偵時事務所の仕事を始めるわけだ。
通勤は、ほとんどの場合、〇急百貨店の前を通り、文化村通り沿いに渋谷駅方面に向かう道筋になる。
この精々7~8分の間が二人並んで歩く
多少の会話もあるが、道端は人も多いから割と無言の場合が多い。
面白いことに彼女は大体俺の左手側に位置する場合が多い。
だから、できるだけ道路の左側を歩いて、行くことが多いな。
女性は車道側や危険から遠ざけてあげるのが男の役割だと思っているんだが、・・・。
最近の若い連中(ン?俺もまだ若いよな?)は、そんな礼儀も知らんようだ。
事務所に着くと、彼女がコーヒーメーカーでコーヒーを淹れてくれる。
小金持ちの俺は、コーヒーにもちょっと贅沢している。
我が家で休日に飲むコーヒーは、パナマ・ゲイシャという豆で、かなりお高い。
事務所で飲むコーヒーは、それよりも安いが、ブルーマウンテンだから一杯当たりの単価はやっぱり高いよね。
1日に飲むコーヒーは、二杯までと決めている。
コーヒーの飲み過ぎは身体に余り良くないらしい。
まぁ、アメリカンにして薄めて飲むという方法もあるようだが、俺の好みは普通の濃さのコーヒーだな。
イスラム圏の一部ではものすごく濃いコーヒーがあるんだが、俺もトルコで知人に勧められて一度飲んでみたけれど、正直なところを言えば、二度と飲みたいとは思わない味だった。
事務所の場合は、来客もあるのでコーヒーメーカーを使っているが、我が家で飲む場合は、サイフォンで淹れるようにしている。
朝の一杯を頂いてから仕事に入るのが普通の日課だな。
飽くまで何もない場合の話であって、仕事があって朝から事務所に居ない場合も当然にあるんだぜ。
今日は藤田さんが居ない日なんで、俺と小室さんが事務所にいる。
偶には、仕事が無い日もあるんで、今日は朝から暇だな。
その所為もあって、小室さんと世間話をしているな。
職場では、けじめをつけるために「所長」と呼んでもらっているが、我が家では「大吾」とよばせている。
彼女が俺を呼ぶ時はいずれも『さん』づけになるんだが・・・。
「所長さん、意外とスレンダーですけれど、何か運動をしているんですか?」
「俺か?
ウーン、特段の運動はしていないけれど、まぁ、探偵稼業であちらこちら歩き回っているからな。
それが運動と言えば運動かな?」
「1日歩くとなれば大変ですけれど、そんなに歩くようなこともありますか?」
「ウーン、仕事の内容次第かな?
今まで歩いた最高記録は3万9千歩ぐらいだと思うぜ。
俺のスマートウォッチのデーターが俺のスマホに残っているからな。」
「約4万歩ですか・・・。
一歩あたり70センチとしても、28キロほど・・・。
結構な距離ですね。」
「まぁな、でも公共交通機関を利用していると、一日の移動距離は都内でも軽く二百キロを超える場合もあるよ。
別に一日一件の依頼で動くという訳じゃなく、掛け持ちで数件を調べている場合もあるからね。」
「所長さんの場合、絶対に仕事が早すぎです。
早い時は依頼を受けて即日に、依頼者あての報告書原案ができているでしょう。
私や藤田さんが、確認の上で誤字脱字があれば修正してますけれど、印刷するのが間に合わなくて翌日になるぐらいですもの。
昨年の同窓会で遭った私の後輩が私立探偵事務所の事務をしているらしいのですけれど、その事務所では依頼を受けてから最短七日、長ければ半年ほどもかかることがあると聞いてます。
まぁ、あちらの探偵事務所の場合は、浮気調査や企業の信用調査など結構手間暇がかかる案件も多いようですけれど・・・。
ウチの事務所の人探しだって、行方不明者の捜索なんて、普通は結構な時間がかかるものじゃないですか?
それを、意外と簡単に片づけちゃうのは何でだろうと、いつも藤田さんと話をしているんですよ。
何か秘訣ってあります?」
「まぁ、有るっちゃ有るし、無いっちゃ無いんだろうな。
俺の動物的な勘みたいなものだと思えばいいよ。
それがあると感じたから探偵稼業を始めたんだ。」
「あの、以前お話ししてくれたメキシコやカリブ海でのお宝探しも、その勘によるものですか?」
「あぁ、まあね・・・・。
あのお宝も、海外をあちらこちらと貧乏旅行をしているうちに偶然見つけた代物だからね。
前にも言ったと思うけれど、その臨時収入のおかげで、この渋谷で探偵事務所を開けたんだ。
ある意味で運がついていたんだろうな。」
「何か神がかりに近いですよね。
その後だって、アラブの王子様の依頼で大金をせしめたり、松濤の家だってまるで偶然のように入手しちゃうんですから。
一応、松濤の家については、依頼の経緯と事後の経理関係も見させていただきましたけれど、随分と格安のお値段で、不動産会社から譲り受けたんですよね。
時価から言うと十分の一のお値段だったんじゃないですか?
普通はそんなラッキーが続かないと思うですけれど・・・・。」
「お、小室さんは税務署の回し者になったか?」
「いえ、そんなわけないですけれど、一緒に住まわせてもらっている家ですからね、気にはなりますよ。」
「まぁな、俺の守護霊にはきっと大黒天とか弁財天がついているんじゃないか?
だから打ち出の小槌じゃないけれど、それなりに
「ウーン、所長さんの場合は小金じゃありませんね。
黄金色の黄金の方です。
本当に余程の神仏の加護を受けているか、守護霊が凄いのでしょうね。
正直言って羨ましいです。」
「小室さんは、仮に小金持ちになったら何をしたいの?」
「ウーン、そうですねぇ。
私は極々庶民ですから、精々美味しいものを食べて、あちらこちらへ旅行に行ってみたいですかね。
できれば素敵な人と一緒が良いですけれど・・・。」
「なるほど。
旅行ですか。
確かに若い女性が旅に憧れるのはトレンドなのかな。
国内と海外があるけれど、小室さんはどちら?」
「私は、欲張りですから、できれば両方ですね。
でも、性格的にケチな方ですから、小金が溜まったらそのまま貯めておくかもしれません。
投資に多少手を出して、後は趣味の手芸や彫金なんかにも少しはつぎ込んじゃうかもしれません。
でも本当に旅行にも憧れがあるんですよ。」
「山登りとかは?」
「山登りですか?
ウーン、体力的に無理そうですね。
無難なところでヒルクライムが精々でしょう。
あ、そう言えば、所長さんは仕事で雲取山に登って山頂で一泊しているんですよね。
あの山って結構急な山なんですか?」
「いやぁ、左程急峻な山じゃないけれど、登って降りると結構疲れるだろうね。
所謂、体力のある山男や山女が昇る山ではあるよ。」
その日は一日依頼が無くって、俺と小室さんは他愛のない話を続けていたな。
定時になって事務所を閉めてから一緒に我が家に戻った。
そう言えば、松濤の家に小室さんと一緒に帰宅するのはこれが初めてだったな。
人出の多い街中を、美人と二人連れで歩くのもなかなか乙なものだと思った。
時折、他人の羨望の視線が眩しく思える。
今のところ恋人という関係じゃないが、人から見るとお似合いなのかもしれない。
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