第17話 孝子嬢のメンタル事情

 私は小室孝子、25歳、渋谷駅前近くの一等地に立つビルの一角にある探偵事務所に勤めています。

 月日の経つのは早いもので、この事務所に勤めるようになってからもう半年以上が過ぎました。


 元派遣会社の社員だった私でしたが、その時はある意味でブラックな勤務先でしたね。

 働けど働けど我が暮らし楽になれず・・・・・、そんな感じでした。


 でも今は会社法人じゃなくって個人経営の事務所だから、いわゆる「会社」とはちょっと雰囲気は違うんだけれど、極々普通の生活をしています。

 この年末から正月にかけては、三年ぶりに田舎の広島県に帰省しました。


 これまでも帰ろうと思えば帰れないことは無かったと思うのですよ。

 でも、往復の新幹線の代金が私の懐にダメージを与えそうだったので、見送ってきたんです。


 久しぶりの帰省で、両親も広島県内で就職している妹もそれなりに年を取っていましたけれど、祖父母がとっても老けてしまったことに驚きました。

 父方の祖父母は祖父が77歳、祖母が75歳です。


 母方の祖父母は、私が大学在学中に、一時流行った流行病で揃って亡くなりましたので、祖父母と言えば父方の祖父母だけなんです。

 田舎の先祖伝来の土地にある我が家に両親と一緒に住んでいますけれど、祖父の方は少し認知症が始まっているみたいです。


 昔の話は覚えているのに、最近の話はよく忘れているということのようで、持っていたバッグなどをトイレに置き忘れりする様なことが多くなったそうです。

 うっかりは誰にでもありますけれど、外出二~三回に一度はどこかで物を落としたり、置き忘れてきたりするような事例があるようです。


 そう大した実害も無いようではあるのですけれど、一人では外出がさせられなくなっているような気がしますね。

 今のところ放浪癖は無いようなのですけれど、夜中に勝手に出歩いて保護されるようになったら、家人が大変です。


 深刻な問題ですけれど、両親は施設に入れることも検討しているようです。

 子供の頃から慣れ親しんでいた優しいおじいちゃんが段々と壊れて行くようでとても切なくなります。


 さて半年経ちましたので、新たな勤務先での仮採用が解けて正式採用になりました。

 今現在は年度末を迎えているわけですけれど、正式採用になったのでお給料が約1割上がりましたよ。


 これまでも種々の手当て込み税抜き後の手取り支給額で、何と月額30万円を超えていたんです。

 それが、34万円を超える額を頂けるようになりました。


 そうして昨年末には、少ないですけれどボーナスもいただきました。

 仮採用職員の場合は、公務員の場合、本採用職員のボーナスと一緒という訳には行かず、三割支給になるんだそうで、正規職員に支給されるボーナス倍率『2.3ヵ月』に30%を掛けた倍率の『0.69ヵ月』分になるんだそうで、私に支給された額もそれに準じて、17万円強でした。


 探偵事務所の所員が何で公務員並みの制度に準じているのかと言うと、所長さん曰く新たな制度を設けるのが面倒なので公務員に準じたのだそうですよ。

 ある意味でものぐさ太郎?でも雇用されている者にとっては悪い判断ではないと思います。


 そんなわけで、今年の私の夏のボーナスは50万円を超えそうです。

 年休の取得可能日数も増えるので、場合によっては海外旅行も考えてもよいかもしれませんが、私はどちらかと言うと憶病な方なんで治安のよくない海外旅行は無理かもね。


 いずれにせよ、今回の冬のボーナスで東京土産を買って、私の田舎広島に帰省しても十分におつりが出ました。

 生活が楽になり、お洋服やおしゃれ用品なんかも少し購入できるようにもなりました。


 でも贅沢を始めたらきりがありませんので、左程多くは望みません。

 この探偵事務所に雇われて非常に良かったと思うことは、精神的な余裕ができたことでしょうか。


 東京に来てからできた友人とも偶にはお出かけもできるようになりました。

 先日もその友人からコンパとやらに誘われて初めて行きましたけれど、あれはどう見ても婚活みたいですね。


 若い男性と若い女性が集まって飲みながらお話をする。

 でも生憎と私の気持ちを捉えるような男性はいませんでしたよ。


 ウーン、いつもイケメンの所長を見ているからなのかなぁ。

 おそらくはイケメンの部類じゃないかと思われるような男性が居たし、私に声掛けしてくる男性も居ましたけれど、私がお友達になりたいと思うような人物はいなかったので早目に私はコンパ会場から脱出しました。


 ウチの所長って、気遣いのできる男性なんですよね。

 仕事ぶりを見ているとそれがよくわかります。


 依頼のお仕事はかなり多いんですよ。

 実働戦力は所長だけで、私やアルバイトの藤田さんは事務処理の支援部隊にしか過ぎません。


 それなのに少ない時でも月に20件程度の依頼はこなしているんです。

 これまでの依頼達成率は8割以上ですね。


 それも依頼を受けてからほとんどが1週間以内に片づけています。

 所長の方針で浮気調査なんかは受けないことになっています。


 メインは人探しなんですけれど、その中には亡くなっている方もいらっしゃるようですね。

 所長の作成した報告書なんかを一通り読ませていただいたり、口述筆記していたりするので、所長が関わった依頼の大多数は承知していますが、当然に中には依頼を達成できなかった事例もあるんです。


 依頼の達成できた事例と達成できなかった事例の違いについてよくわからなかったので、統計を取ってから所長に尋ねたことがあります。

 そうしたら、ぼそっと独り言のように漏らした言葉がありました。


「中には、真実を知らせない方がよい場合もある・・・。」


 確かにそう言ったんです。


「エッ?」


 私がそう言うと、慌てたように所長さんが言いました。


「いや、何でもない。

 達成できなかったのは僕の不徳の致すところだよ。」


 そう言って笑っていましたね。

 そうしてその達成できなかった事案については、依頼人から高額の依頼料の提示があっても所長は再調査を引き受けませんでした。


 藤田さんなんかは、その依頼人が何となく生理的に嫌な男性だったようで、吐き出すように独り言を言ってました。


「あんな男、依頼料だけぼったくってもいいのに・・・。」


 まぁ、確かに依頼料だけ取って何もせずに、「調査の結果所在不明」という報告を出すだけでも良いのかもしれません。

 でもそれをしないところに所長の誠実さが分かりますし、その達成できなかった事例については依頼が何となく似たような事例じゃないのかなと思いあたりました。


 単なる勘のたぐいであって確たる証拠もありませんよ。

 でも何となくそう感じたんです。


 それで、所長には内緒で、私の休みの時に、藤田さんが「虫の好かない男」と評していた一人の依頼人の在所に行って聞き込みをしてみました。

 依頼人に気づかれてはいけないですから慎重に動いた所為もあるかも知れませんが、始めた時はちょっとだけと思いながらも、足掛け六日、三週間もかけてしまいました。


 どこにでもお話し好きのおばさま方がいらっしゃるもので、その中に入り込むと結構なお話をしてくれるんです。

 何処やらの奥さんが浮気をしているとか、何処やらの旦那さんはDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)をしているらしいとか・・・。


 おしゃべりなご婦人がたを見つけるのに三日、その中に溶け込むのに二日かかって、六日目にようやく目的の話が聞けました。

 依頼人の男性XXは、どうやら失踪した奥様をDVしていたらしいんです。


 実際にご近所の奥様の一人が失踪した女性に青あざがあったのを何度か見ているらしいんです。

 そこまで調べて、ようやく所長の言葉の意味が分かりました。


 おそらく所長は失踪者の所在を探り当てているんじゃないかと思うのです。

 でも、それを知らせることによって、当の失踪者が大いに困ることになる。


 きっと失踪した人は旦那の暴力に耐えかねて逃げ出した女性ひとなのです。

 それなのにその女性の所在をお金のために知らせたら、女性がまたまた被害を受けることになるでしょう。


 警察沙汰になろうがなるまいが、当人が望んでいないなら、第三者としてはそのままにしておくということを決めたのだろうと思います。

 私が延べ日数で丸々六日間も使って探し当てたことを所長は知っているようですね。


 しかも失踪者の行く先までも・・・。

 そうしてみると、おそらく達成できなかった依頼の多くは、何かしら事情があって、所在が分かっていても知らせない方が良いと所長さんが判断した事例なのかもしれません。


 何となく所長の人柄が分かったような気がして、少し嬉しくなりましたね。

 探偵事務所の収支では、間違いなく大赤字です。


 事務所の賃料だけで税込みで330万円、事務所の光熱費や通信料その他雑費で月に20万円ほど、私達二人の雇用経費が月に70万円を超えています。

 私達二人の所員の通勤費用も出してくれていますし、私なんか住宅手当も出ていますからね。


 お陰様で年明けにセキュリティが少し上のグレードのアパートに引っ越すことができました。

 だって、今までと同じ家賃分を私が負担して、倍の値段のアパートに住めるんですもの。


 余計な私事の話までしてしまいましたが、つまりは何もせずに探偵事務所からは月々420万円ほどのお金が出て行きます。

 それに対して、所長がこなす月に20件から30件の普通の依頼では、多い時で1件当たり7万円から10万円の収入で、ここから調査に要した費用が出て行きますから、収益では明らかに6割から7割の額になります。



 よくわからない警察が絡んだ事件では、報酬が百万円を超える場合がありますけれど、その辺の事情は余り詳しくお話ししてもらえません。

 そうしてこのような高額の報酬事件はそうそうはないのです。


 仮に普通の依頼で30件をこなして各7万円の収入があったにしても、月に210万円の実入りです。

 つまりは必要経費の半分以下しか稼げていないんです。


 ある意味でこれは大変なことですよね。

 本当ならば、私の就職先がいつ消えるかわからないという財務状況なんです。


 まぁこの辺は、面接時のやり取りからもわかってはいましたけれど、月々の経費はこの口座から払ってほしいと言われて私が預かっている口座があります。

 法人じゃないですから所長の私的な口座なんですよ。


 最初に渡されたときに帳簿に記入されていた金額が1000万円でした。

 払い込みの時期になると自動引き落としでここから家賃や光熱費が引かれます。


 私達の給与の支払日は毎月15日なんですけれど、その前日に計算書を提出して決済を貰い、私が口座から引き出して私の口座と藤田さんの口座に振り込みます。

 この際に社会保険料なんかを差っ引いて、別途に収めるようになっています。


 でもその経費を支出したことで減った額が、翌月の1日(曜日により最大5日まで遅れることもある)になると補填されて残高は1000万円になっているんです。

 仕組みはわかりませんけれど、別の口座から月初めに補填されるようにしているみたいですね。


 面接時、所長さんが言っていたのは10年や20年は全くの無報酬でも資金繰りは大丈夫と言っていたので、単純計算で毎月400万円の出費で20年分と言うと、9億6千万円のお金が必要なんですけれど、その額が捻出できるということなんです。

 所長さん、確か私より三つ上の28歳なんですけれど、探偵業を起業する前に十億円を超える金をどこかで稼いできたということなんです。


 十億円以上と言うのは、先日所長さんの家でパーティーがあるということで藤田さんと一緒に御呼ばれでお邪魔した際に、家賃が月額150万円という外国人世帯向けの豪邸を見ちゃったのでわかったことなんです。

 先ほどの事務所の維持経費以外に、所長さんは自分の住まいに月々150万円をかけているわけです。


 単純計算で年に1800万円、十年でも1億8000万円程度の金を持っているか収入源があるということですよね。

 どうも、所長さんは、面接のときに藤田さんがいみじくも言っていたに近いようです。


 一昔前は、「高身長・高学歴・高収入」が結婚相手として男性の条件だったと言いますが、最近は、「価値観が合う・金銭感覚が合う・雇用形態が安定している」もあるんだそうですよ。

 その辺で所長さんを見てみると、高身長・高学歴は合っていますね。


 所長さん180センチほどもあって細身の体型です。

 学歴の方は、某有名大学の法学部を卒業していて弁護士資格も持っているという話を雑談で聞いておりますから、正しく超高学歴でよね。


 でも所長さん弁護士事務所の看板は下げていないんです。

 まぁ、探偵稼業の依頼をメインにしていれば、弁護士稼業をしている暇もないのでしょうけれど・・・。


 多分、実入りの良い弁護士をやろうと思えばいつでもできるけれどしないというのが所長の矜持のようなものだと思います。

 所長は話してくれませんけれど、きっと失踪者若しくは行方不明者の人探しをメインとしていることそのものに何か理由があるのだと思います。


 ある意味で所長さんが「高収入」に該当するかどうかはちょっと不明なんですが、少なくともお金には困っていない様子です。

 の方はまだよくわかりませんし、の方は正直に言って私とは少し違うかもしれません。


 何せ十億円以上のお金を持っている人のようですから・・・。

 例の豪邸でのパーティーで妹さんにも遭って話をしましたけれど、私はむしろ妹さんと似たような金銭感覚じゃないかと思います。


 豪邸に置かれている調度品の類を見ても金持ちなんだなと言うことがよく分かります。

 妹さんも、こんなに立派な家だとは思っていなかったのよと言っていましたね。


 妹さんは、うまく狙った会社に就職できれば来年の春には所長さんの家に厄介になるそうです。

 所長さんがこぶ付き(妹さんの同居)になるかどうかはまだ不明ですけれど、その妹さん、別れ際に言った言葉が印象的ですね。


「兄貴は独り身ですから、どうぞよろしくお願いしますね。」


 私と藤田さんの二人に向かって確かにそう言ったんです。

 仕事上の話なら、『独り身』という単語は出てきません。


 きっと私と藤田さんをお付き合いの女性候補と見做みなしてそう言ったのだと思います。

 達成できなかった依頼の裏事情について少し知った所為か、私も所長さんをひとりの男性と見做してしっかり観察するようになりました。


 結婚相手としては申し分ない人です。

 むしろ私の方がかなり背伸びしないと合いません。


 でも、元カレのようにポイ捨てされたら嫌ですから、男女の恋愛についてはとても憶病になっている私なんです。

 これからどうしたらよいのでしょうねぇ。


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