第7話 小室孝子

 私は、小室こむろ孝子たかこ24歳だけど、来月には25歳になる。

 ひょっとしてもうアラサーに入る?


 いやいや、アラサーは五捨六入で26以上になってからと、敢えて断定しましょう。

 都内某大学を在学中に就活を行ったけれど、世の中不景気で正規採用組には入れなかった。


 止むを得ず、派遣会社に一時しのぎのつもりで入ったのだけれど、就活しても翌年もその翌年も正規採用にはなれなかった。

 経歴に派遣会社が記載されているだけで見る目が違うようだし、新卒者とは最初から差別があるようだ。


 浪人生だって優秀な者は居るはずなのに、世の中必ずしも公平にはできていないようだったわ。

 話には聞いていたけれど、正規社員と派遣社員の扱いは全然違うんです。


 雇う側は、昇給も昇格も必要の無い便利なアルバイト感覚なので、正規社員よりも余程仕事ができても評価はしてもらえない。

 おまけによほどのことが無い限り、残業は無しである。


 実働8時間未満にすると賃金を抑えられるので、残業なんか有るはずもない。

 おまけに賃金は、派遣会社から支払われるので、派遣会社が中間搾取している。


 週休二日で週に35時間程度働いて、もらえる報酬は手取りで17万円を切ることになる。

 社会保障制度も実質無いに等しい。


 正社員は高卒でも18万円程度はもらえるはずなのに、私はそれ以下でした。

 正社員も派遣社員も仕事の内容はほとんど変わらないし、場合によっては派遣社員の方が良く知っている場合だってあるのに・・・。


 おまけに二年以上継続して同じ会社で働いた場合、正社員として雇用しなければならないらしく、そのために8時間労働はさせないし、同一人物は2年以上雇わないという手法を取っているみたい。

 一旦、一か月でも雇用が切れれば、再度同じ人を雇うことはできるらしい。


 法律の抜け穴をついてくるいやらしい手法ですよね。

 そんなブラックな派遣会社員から一度離れたくって、ネットで見かけた探偵社の事務職員の募集に応募してみた。


 時給1200円以上であれば、月にして少なくとも1万円以上は収入が上がるはず。

 だって、今のままじゃ、安アパートで寝て、食べて、出勤を繰り返すだけ。


 休みはあるけれど、雑事に追われて、遊ぶような金銭的余裕も心の余裕もない。

 そんな生活から抜け出したかったのです。


 面接に行ってびっくりしたのは、事務所が広いことでした。

 探偵事務所なんて何となく某アニメのちょび髭の叔父さんをイメージしていたから、狭い部屋に机が一つに応接セット程度と思っていたのに、派遣で通っていた会社の事務室以上の広さがありそうなんです。


 派遣されていた会社の事務室には正社員10名、派遣社員12名の22名が居たけれど、この部屋の三分の二もなかったように思える。

 机は二つ、収納ロッカーや蓋のある書棚が壁際に並び、区画分けされた二つのブースに立派な応接セットが鎮座しており、隅の方には待合所区画なのか長椅子が並べられていますね。


 そのやたら広い事務室の一角の応接ブースに入っての面接でした。

 面接で応対する人は、探偵事務所の所長さんでした。

 

 若いです。

 私よりも歳上かも知れませんが、アニメに出て来るような変なおじさまではありませんでした。


 うん、イケメンの部類でしょうね。

 でもイケメンにはもうこりごりなんです。

 

 一年前、婚約寸前まで行った男性が居るんです。

 派遣先の正社員のイケメンでしたけれど、誠実そうな人柄に惚れました。


 でもある日、新卒社員が彼と仲良くなっていることに気づきました。

 その三日後、彼が別れ話を切り出しました。


 ぶっちゃけた話、あっちの彼女の方がどこぞの会社の重役の娘なので乗り換えるという話でした。

 そもそもそこには打算だけで愛情の欠片も無いみたいです。


 私も外見だけでに選ばれていたようなんです。

 一緒にいると見映えが良かったからと、彼が言い訳のように言っていました。


 こんな男と結婚しようと本気で考えていた私が悲しくなりました。

 それ以来、会社で会うことはあっても一切口をききませんでした。


 彼は上司ではありませんし、派遣会社の社員は契約上指示を受ける人物が決まっていますから、雑用だって頼まれても受ける必要はないのです。

 私の頭から彼の記憶は全て追い出しており、彼は居ないものと見做していました。


 とは言いながら、いきなり別れ話を切り出されたトラウマは残っており、すっかり男性不信に陥りました。

 まぁ、そのことも派遣会社を辞めようと思った大きな一因ですよね。


 新たな生き方をするには、これまでの生き方を捨てなければならないこともあるのです。

 で、目の前の所長さん、なんとなく聞き上手で話すつもりもなかった失恋の話までしてしまいました。


 採用か非採用かの結果は、別途通知するということで、その日は終わりました。

 面接から二週間ほどしてから再度事務所に来てくれと電話がありました。


 土曜日の早朝9時前に事務所に行くと、もう一人私よりも若そうな女性が待合室代わりの長椅子に座って居ました。

 確か募集人員は一人だけだった筈よね。


 あら、もしかして二人でのコンペ?

 採用できない旨の話なら普通電話かメールですものね。


 わざわざ呼び出して断る必要はないはずです。

 二次面接なのかしらと思いました。


 約束の時間になって、所長さんが奥の仕切りから顔を出しました。

 二人呼ばれて事務所の中へ。


 ん?

 そう言えば、待合室も事務所の一部じゃないかとは思うのですけれど・・・。


 違ったかしら?

 もう一人の女性は、藤田幸子さんという名前のようです。


 応接セットに二人並んで座らされ、すぐに所長さんから話を切り出しました。


「今回の採用については、当初一人だけのつもりでしたけれど、今回はお二人とも採用することにしました。

 それで、お二人のご希望を再度確認させていただきます。

 えーと、まず藤田さん。

 貴方は学業があるのでパートタイムを希望ということで変更はないですね。」


 二人ともに採用ということにまず驚きましたけれど・・・。

 あ、藤田さんと言う子は学生さんなんだと気づきました。


「はい、大学のスケジュールに合わせて仕事をしたいのですけれど、それでもよろしいでしょうか?」


 藤田さんはおずおずと尋ねている。

 まぁね、雇う側からすれば自分の都合だけで勤務する人というのは面倒ですよね。


「ええ、パートタイムでもかまいませんが、一応毎月の予定をあらかじめ知らせてもらえますか?

 好きな時間に来て働けるという訳じゃありませんので。

 因みにウチは、原則として、朝9時に営業開始で、午後6時には終了です。

 ですから藤田さんの勤務形態としては、9時から12時までの3時間若しくは13時から18時までの5時間のいずれかを選択してください。

 一応の予定であって、場合により変更せざるを得ない場合は認めますけれど、あまり頻繁ですと雇用を止めなければなりません。

 それと半年間は仮採用です。

 本採用は半年後の状況を見て決めることになります。」


「はい、それで結構ですが、時給は1200円以上ということでしたが、パートでも同じでしょうか?」


「ハイ、パートでも変わりません。

 一応仮採用としますので報酬もお知らせしておきますけれど、時給は1800円を予定しています。

 仕事は、事務所の電話番と書類作成が主になります。

 念のため申し上げておきますが、依頼人のプライバシーに関する事項を目にしたり、聞いたりすることになるかも知れませんが、決して口外しないようお願いします。

 秘密を漏らしたりすると場合により高額の損害賠償を求められることになりますから注意して下さいね。

 医者や公務員と一緒で職務上知り得た秘密を漏らしてはならないんです。

 よろしいですか?」


「ハイ、わかりました。」


「それと、藤田さんの場合は、パートタイムで完全にアルバイトのようですから、社員としての保証は余りありません。

 その点はおそらくフルタイムになるであろう小室さんとは違いますので了解してください。」


「ハイ、それも了解です。」


「ただ、藤田さんは、パートですけれど通勤手当を支給する予定です。

 今現在、JRや地下鉄の定期は在りますか?」


「はい、東小金井から四谷までJRの定期があります。


「うん、じゃぁ、四谷から新宿経由渋谷までの三か月定期の通勤手当を支給しましょう。

 片道170円で3か月分の定期だと1万5千円ぐらいだと思うけれど、9月1日からの分を支給します。

 一応、購入した定期券の提示をしてもらい、それを確認して相応の金額を支給します。

 回数券でも構わないけれど、往復分を考えると仮に15日のパートタイムでも定期の方が割安だよ。」


「ハイ、では9月1日からの定期を購入して持ってきます。」


 すごいね。

 時給1800円だって。


 フルタイムなら税込みで多分30万円を超えるのじゃないかしら。

 税金やらなにやらを引かれても絶対に手取りで22万円以上は残ると思う。


「じゃぁ、次は小室さんだね。

 小室さんはフルタイムの希望と聞いていたけれど、それで構いませんか?」


「ハイ、フルタイムでお願いします。」


「前にも言ったけれど、ウチは木曜日が休日、連休にするなら水曜か金曜日、若しくは離れた曜日でも構わないけれど週休二日制ね。

 どこを取りますか?」


「では、金曜日でお願いします。」


「わかりました、では小室さんは木曜日と金曜日が休日ということで。

 後、祭日はウチには関係が無いのですけれど、12月28日から1月3日までは公務所と同じく休養日にします。

 従って、飽くまで原則ですけれどそれ以外は年中無休です。

 但し、フルタイム勤務の小室さんには、仮採用中の半年間は10日間の有給休暇の権利を与えます。

 本採用になれば年間20日の有給休暇と15日までの翌年繰り越しが可能です。

 あと、社会保険にも加入してもらいますけれど、有効になるのは9月からになりますのでそれまでは現状のモノを継続させるか、国民健康保険を使ってください。

 手当の方ですが、概ね総務省に勤務する公務員が受けられる手当に準じて支給されます。

 通勤手当、住宅手当、扶養手当、出産手当等々、申請してもらわねば出せませんけれど、申請があれば査定の上で支給します。

 こちらの方は仮採用、本採用に関わりなく9月1日から支給します。

 但し、仮採用中は単純に申し上げて雇う側の権利が大きく、場合によりいつでも首切りができますので注意してね。

 まぁ、小室さんなら大丈夫だと思っています。

 何か質問はございますか?」


「あの、この事務所は所長さんがお一人で?」


「ハイ、今のところ私一人ですね。」


「調査員というか、外回りされる方もいらっしゃらないのですか?」


「はい、誰もいませんので私一人で動いています。」


「では、私達もその調査に当たることがあるのでしょうか?」


「いいえ、基本的には在りません。

 但し、エキストラ的に女性がどうしても必要な場合にはお願いすることもあるかも知れませんね。

 例えば女性だけしか入れないところに入るとかは流石に僕ではできませんから。

 その場合にはお願いする代わりに特別手当を支給します。

 尤も、飽くまで例外的な話であって、強制的なお仕事ではありません。」


「因みに、特別手当と言うと?」


「例えば休日出勤ですと、超過勤務の対象になりますけれど、超過勤務は時給で言えば二割増しです。

 特別手当は勤務時間に関わりなく5割増しで、特に午後10時以降日出時刻までの間の仕事の場合は10割増しになります。

 勤務時間の計上は1時間未満であっても切り上げで1時間と算定します。」


 あらまぁ、金儲けのチャンスなのかしら?


「あ、パートの藤田さんには勤務時間であってもこの仕事は原則としてありません。

 どうしても必要な場合にはギャラはその都度ご相談ですね。

 他に質問はありますか?」


「あの、大変失礼なことを聞くのですが・・・。

 ここの事務所って賃貸ですよね?」


「ハイ、そうですが何か?」


「いえ、ここって、渋谷でも駅近くの一等地でしょう?

 これだけの広さの事務所ならば、お家賃もすごく高いのじゃないのかなって思いまして・・・。」


「うん、まぁ、高いよね。

 月に300万円がかかります。」


 それこそ目の玉が飛び出るぐらいに驚きました。

 月に300万円だなんて、私達派遣社員が10人以上も雇えるほどの金額です。


 それなら、なおのこと不安があります。


「あの、それだけ高いお家賃を払っても探偵事務所って採算が取れるんですか?」


「あぁ、なるほどその話ですか。

 端的に言うと、毎月300万円を依頼で稼ぐのは無理でしょうね。

 探偵でも会社組織にしている大手ならそれぐらいの収入はあるかも知れませんが、ウチでは間違いなく赤字です。」


「そんな、・・・。

 じゃぁ、いつ潰れるかわからない状態なんですか?」


「あ、それは心配しなくても良いですよ。

 そもそも僕が探偵を始めたのは金儲けの為じゃありませんから。

 世の中で人探しで困っている人をできるだけ助けるために始めた商売なんです。

 赤字覚悟ですけれど、10年や20年は全くの無報酬でも資金繰りは大丈夫です。

 きちんとあなた方の給与は支払いますから安心してください。」


 藤田さんが身を乗り出して訊きました。


「もしかして所長さんて大金持ちの大富豪ですか?」


「いや、大金持ちじゃないだろうね。

 精々小金持ちぐらいだと思うよ。」


 あ、本当にこの人お金持ちなんだとその時思いました。

 そういえば学生時代の友人で玉の輿を夢見た悪友が居たよわねぇ。


 大学の同期では一番早く嫁に行ったけれど、学生時代の話とは打って変わって玉の輿じゃない方の男性を選んだ子。

 でも子供も生まれて、今はとっても幸せですと年賀状が来ていたね。


 男女の仲は分からない。

 幸せになれるかもって夢見た途端、奈落の底に落とされたもの。


 だから夢は追わないことにしたんです。

 目の前の物件は、とっても優良物件のように思えるんだけどねぇ・・・・。


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