5-8
だが、すぐに気持ちを立て直さなければならなかった。
帰ると弘子の咲夜を見る目つきは今までとはまるで異なり、汚らしいものでも見るかのようになっていた。察するのは簡単だった。動画がばれたか、出生がばれたかのどちらかだ。
「どうかしたんですか。顔色が悪いですね」
確かめるために敢えて言って「あ、僕手伝います」と袋から野菜を取り出そうとすると、その手をパシンと叩かれた。キャベツが音を立て、床に落ちる。
「あなたは8になにをしているの」
ばれたのは、8のほうか。
「なにってなんのことでしょう」
笑う。すると、手拭いが咲夜めがけて飛んできた。
「とぼけないでよ!」
流石にこれには驚いた。
「あなたはいい子だと思っていた……秩序を守る、優秀な子だと思っていたのに。鹿江先生から連絡が来たわ。個人的に知ったことで、まだ学校には知らせていませんって。見たわよ、動画。10分くらい。なんでこんな犯罪を。いえ、8のことを聞いていた時からおかしいと思ったのよ。なんでこの子はこんなことをたくさん聞いてくるんだろうって。ベースから来たばかりだから知識がないのだと思い込もうとしていたのよ。なのに。なのに、この犯罪者! 恥知らず!」
なにを言われてもひとつも胸に刺さらない。
「なぜ、目の前の困っている人たちを助けてはいけないのですか。僕はそれが知りたい」
「人って、8のこと? 法律で決められているわ。8だから助けてはいけないのよ」
それでは話にならない。
「なにをもって恥とするのですか。あなたの意識のどこかに、8の存在が日本以外の人に知られたくないという思いがあるのではないですか」
弘子は思ってもみなかったという表情で黒目を揺らす。
「違うわ……法を。あなたが法を犯したから、私たちの面子が丸つぶれよ!」
「面子を気にしているのですか。8が暴力を受けているのを見て、殺されているのを見て不愉快になりませんか」
どう反論して言いかわからなけれど忌まわしいことを聞いているといった様子だ。
500年続いてきた歴史の中で、人々が無意識に洗脳されてしまっている部分だ。なにか引っかかるけど具体的に言葉にならない。だからなにも言えない。
咲夜ははっきり言った。
「8は人間ですよ」
「あなたは、なにを言っているの」
「あなたは8が人間に見えないのですか」
湯治がちょうど帰ってきた。室内の様子に驚いたのか、入り口付近で呆然と眺めている。
「あなたには、人の心がありますか」
「私が人でないとでも言うの」
「では、試してみますか」
まともな会話ができそうにないなら、意識を、心を揺さぶる。
なにを言っても届かないのなら揺さぶれ。情を試せ。
「遥君をさずかった時は、お父さんもお母さんもたいへんよろこびました……」
手紙を諳んじる。弘子は悪魔でも見るかのような顔つきで咲夜を眺めていた。咲夜は構わず続ける。
「どんな子に育ってくれるのかな。どんな大人になるのかな。あなたが寝たあとで、お父さんとはそんなことをよく話していました。あなたの成長はお父さんとお母さんの楽しみでもありました」
「なんの話をしている?」
湯治が険しい表情で言った。無視して続ける。
「たった5年と少しの間しか一緒にいられなかったけれど、覚えていてください。あなたが感じる風の中に、目についた草花の中に私たちは存在してきっとあなたを見守っているということを。あなたがどんなことになってもあなたの存在を喜んでいる人はここにいます」
弘子がパニックに陥り湯治に助けを求める。すると湯治は咲夜の目の前にやってきて、胸倉を掴み殴ろうとする。咲夜は更に、暗記した遙の日記を感情を込めて話す。
「その人はやさしく僕を抱きしめてくれました」
「やめろ」
「・・・・・・人の温もりに全身がほぐれて泣きました。そうだ、僕は人間だったんだ。誰かを殴らなないままでよかった。これをやってしまったら、もうあなたたちと同じところへは行けない。危うく尊厳がなくなってしまうところだった」
「やめないか」
湯治は目元の筋肉をひきつらせ、拳を寸手のところで止めた。なにを言っても無駄だ、というように突き離し、弘子に向って言う。
「こんな悪魔の言葉に耳を傾けたらいけない」
湯治は顔色一つ変えない。咲夜は諳んじるのをやめ、言った。
「僕は日本の法律に抵触することをしました。でも8にだって尊厳はあります。そしてあなたがたは、ベースでスラム街に火をつけました。それはチャムの法律に抵触することです」
火をつけて笑っていた湯治。傍観しながら湯治に寄り添い笑っていたであろう弘子。それを想像すると憎しみがおさまらない。
「あれは正当防衛のため仕方なく……」
弘子は湯治の後ろから消え入りそうな声で呟く。
「あなた達は自分たちのしたことや考えが絶対的に正しいと思いこんでいる。間違ったことなんてなにもしていないと思っている。だから言います。今回の件は僕も正しいと思ってやったことです。スラム街の人間にもまた、尊厳はあります」
湯治は首を振った。
「それで、ひと月以上も部屋にこもっていたのか。私たちがチャムで単に法を犯したというだけで憎さが増したとでも。あれは君とは全く関係のないことだろう」
単に法を犯した? 寝言は寝て言え。咲夜は覚悟を決め言った。
「僕は、あなたたちが10年前火を投げ入れたその家で生活をしていたのですよ」
全てを察したのか湯治の顔色が変わっていく。怒りに支配されている。
湯治は咲夜を張り倒した。椅子が音を立てて倒れ、弘子が小さく悲鳴をあげる。
「忌まわしい。薄汚いネズミが! 私たちを騙したのか。騙したまま、よくぬけぬけとこの家で生活していたな!」
「ホストファミリーが変更になったのは、日本側の都合です」
もし早川家に迎え入れられていたら、今頃自分はどうしていたのだろうか。出生がばれたとき、こんな風に張り倒されていたのだろうか。ふとそんなことを思う。
「もういい」
吐き捨てるように言って、携帯用のデジタルネットを起動させる。警察に感情を抑えきれていない声で連絡を入れる。
「君の通信状況は、プライバシー保護のためと思い、あえて見ないようにしていた。全て調べさせてもらおう。そして自分のしたことを反省するといい。この家から出て行け。警察が来る前に全部荷物をまとめておけ!」
湯治の言葉は逐一胸糞悪くなる。だが、南本や吾妻、遥、さくらを犠牲にしてきたのだ。自分の身になにが起きてもいい。そんな気持ちで荷物をまとめることにする。
警察官が2人、速やかにやってきた。まとめた荷物を調べられ、ベースのコンピューターは押収された。遥のノートも、記録チップも取り上げられてしまった。
屋根部分だけ白く、あとは黒い車体の車に押し込まれる。湯治か弘子の視線を感じたが、車の中から振り返ることもしなかった。
車は「日霧市警察署」という立て看板のある土地に入っていった。
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