4-1
「あまり眠れなかったようだね」
早速湯治に見抜かれていた。
「はい。深夜に目覚めてそれから」
「まあ、座るといい」
椅子に腰を掛けると、湯治はカップにコーヒーを淹れ差し出す。
軽くお辞儀をする。
「じゃあ、チャムの話でも聞かせてくれないか」
足を組み、湯治は言った。咲夜がベースの話をすることで、リラックスできると考えたのだろう。
「10年前にご夫婦でベースを旅したと言われていましたね。どこへ行かれたのですか」
チャムのことはもうひととおり話している。これ以上話すこともない。
湯治は国名を2つ挙げた。
「チャムのイッサにも行ったよ。やはりあそこは日本人も多いせいか親しみがわくね。芸術品も素晴らしいものばかりだ。ホウリュウ博物館にも行ったよ」
「有名ですね」
ホウリュウ博物館には、チャムの人々がかつて造った、陶器や漆器が展示されている。地球に劣らずハイレベルなものばかりだと言われている。ただ、その価値は咲夜にはわからない。
「首都中心部は観光客用のカフェが軒並みあって、外で飲むところの屋根部分はどこも唐傘。それがずらりと並んでいる。少し高いところから見ると色鮮やかで圧倒される光景だった。中心部から外れた北のほうにはものすごく大きな寺院と、丘陵もあるし。景色はいいね」
「はい。北へ行けば行くほど空気はよくなります」
「逆にイッサの南のほうは空気がすごく悪いだろう。道に迷ってうっかり入ってしまったときは、どうしようかと思った」
貧民街および咲夜の育ったスラム街。顔には出さず、淡々と相槌を打つことにする。
「あの時は怖かったわよねえ。夜だったし」
弘子も口を挟む。焦るが、なにも言わないことにした。湯治は観光を終えホテルへ行く時に道に迷って足を踏み入れてしまったのだと言った。
「迷った時は、寒い夜だった。まあ、君は富裕層で育ったのだから、あまり近づいたことはないだろう。あのあたり、行ったことはあるかい」
「ええ、まあ」
「臭いがとにかく酷い。またウジ虫みたいな卑しい連中の住処だ。隙あらばなにか盗ろうと考えてばかりいる連中があの手この手で寄ってくる。瞬く間に囲まれてしまったよ……」
夢がフラッシュバックした。
弘子は笑って台所から振り返る。
「あら、でもあの時あなたわりと楽しそうだったわよ。『火をつけてやれ』って」
「そうしなければ逃げられなかったからね。ハンカチを棒にくくりオイルを垂らして火をつけて……重さの感じられるうちにどこかに投げた。みんなが炎に注目した隙に脱出できた」
カップの内側に水滴が浮かんでいた。体に力が入る。
瀬賀湯治だった。
火をつけたのは、本当に、本物の、目の前にいる彼だったのだ。
憎しみと怒りがあふれ出てくる。こらえろ。そう言い聞かせる。
「いくらなんでもやりすぎですよ」
殴りたい気持ちを押し殺し、マイルドな笑顔を作った。咲夜が経験した火事は前にも後にもそれだけだ。
「後悔はしていないよ。こちらの命も危なかったのだし」
警察に一度拘束されたが特に咎められることもなくすぐ解放されたという。
湯治の言うことも一理ある。生命や財産が脅かされれば、その対抗手段をとることはあるだろう。絶対的な規律はスラム街にはあったけれど、貧困層では観光客や富裕層の金品を盗む人も大勢いる。
関係ないところに飛んできた火のせいで、ママナの顔は焼けた。ママナは一度たりとも罪になるようなことはしていない。
あの時、近くに住んでいた人がみんな駆けつけ火を消してくれたけれど、ママナの具合を心配しながら、屋根のないところでひとつところで固まり、眠ることのできない一夜を過ごした。
湯治を睨む。あの日、あの時どんな思いだったかあなたにわかるか。
「懐かしいな。また行きたいものだよ」
目を細め笑っている。気分が悪くなった。
出された料理を残し、早々に家を出た。
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