3-5
寒い空の下で、泣き叫んでいた。
ゆりかごの中を様々な人が迷惑そうに覗いては、罵声を浴びせて通り過ぎて行く。
泣くなうるさい。迷惑だ。どこか施設に引き取ってもらうか。誰かが言う。いやいや、捨て子なんていないほうが、税金がかからなくて助かるだろう。
人が集まり、たくさんの黒い影がこちらを見ている。こんな赤子ひとり死んだって誰も気にしやしない。死ぬのだって運命さ。
川に落としてやろうか。そのほうが幸せってもんじゃないかね。男か。男じゃ金にならねえ。
いくつもの憎悪のこもった瞳がこちらを見ている。人々の影は化物のように揺れている。
咲夜は泣き叫ぶ。寒い。怖い。お腹がすいた。待って。置いていかないで。
気づくと真っ暗な通りを歩いていた。8歳になっている。
臭いの酷いストリートを、夜空の下、食糧をなんとか手に入れて家に帰るところだった。
「あいつらは卑しい。いつでも金銭や食料を得ることしか頭にない。臭いだけのウジ虫だ。一掃しよう。火をつけてやれ」
空から火が飛んできた。ママナの顔に当たり、髪に燃え移りみんなでよるべにしていた小屋が燃えて行く。ママナについた火を消し、炎から逃れるために小屋を出ると、恍惚とした瞳がこちらを見ている。助けようとしてくれる人。野次を飛ばす人々。
「ははは、いい気味だ。ウジ虫は焼いて消毒してやれ」
湯治が叫んでいた。
飛び起きる。
手もとに布団の感触があり夢だったと安心する。汗をかいていた。
まだ深夜だ。窓から見える空に星が瞬いている。星を見るとどうしようもなく悲しくなる。赤ん坊の頃に泣き叫びながら夜空を見ていたのかもしれない。
時々、こうした夢にうなされる。赤ん坊の時の心理、状況が、克明に夢に現れる。夢の中に登場し自分を見ていた人々も、自分に向けられ放たれた言葉も、本当のことかそうでないかわからない。ただ夢の最後はいつも、いつの間にか8歳に成長し、火をつけられて終わる。
火が飛んできた時の台詞は現実のものとして記憶にあった。
ただ火をつけた人の顔は知らない。湯治として夢に現れたのは夕食時の会話が忘れられなくて咲夜の深層心理が反応してしまったせいだろう。
再び眠る気が起きず静かにスタンドの灯りをつけ、貰ったノートを物音ひとつ立てないように慎重に鞄から取り出す。開くと、封筒が挟んであった。裏面は糊づけされ、とれないようになっている。
封筒はボロボロで、下手をするとすぐに切れてしまいそうだ。表面には『これをすぐかくし、あとでなかをよみなさい』と書かれている。封筒の中をそっと見ると、薄い緑色の花模様のある便箋が入っていた。取りだすにも指先の器用さが必要だ。
なんとか取り出し、そっと広げて読むことにする。
遥君へ
学校の入学式が終わって、遥君は8になりました。いっしょに人生を歩むことはできなくなり、お父さんもお母さんも、遥君の成長をみとどけることができません。
だからこうして、お手紙をのこしておきます。これを読んでいつでもお父さんとお母さんのことを思い出してくれたら幸せです。
遥君をさずかった時は、お父さんもお母さんもたいへんよろこびました。はじめての子供だったのでなれなくて日々大変だったけれどあなたが笑うと私たちはいつもいやされました。
遥君の人生を豊かなものにしたいので、思い出をいっぱい作ろうとお父さんとお母さんは決めました。ワールド・ワイドへ一緒にいったことは、覚えていないかな。
あなたは2歳でした。ミスター・キングが大好きで、パーク内を歩いているのを見つけた時は、てけてけ走って追いかけまわしていました。抱きついて離れないの。だからミスター・キングはあなたを抱えあげました。
青空の下に映えるあなたの笑顔はとても眩しく、とても純粋なものでした。子供用のアトラクションに乗ったときは目をキラキラさせていろいろなものを見ていました。あなたにあげるため売店で買ったソフトクリームをうっかり私が地面に落としてしまった時、あなたは泣きそうになりながらもがまんしていました。
そうして私にハンカチをさしだしてくれました。お母さんのあせりを、遥君はきびんに感じ取ったのでしょう。あなたはがまん強くとても優しい子なのです。
3歳のときはお花見に行きました。お父さんがあなたを抱いて、お母さんはお弁当を持って、日霧の有名な桜並木の下を歩きました。
好奇心がおうせいで、いろいろなことがらを聞いたり見たり。色々な物事をどんどん吸収していくのです。ちょっと目をはなすとすぐにどこかへ行ってしまいそうになるの。
どうして桜はピンクなの。遥君のそんな問いに、どう答えようか迷ったものです。このころは言葉もどんどん覚えるようになって、子供の成長は早いものだと思いました。
生まれてからあっという間の3年。どんな子に育ってくれるのかな。どんな大人になるのかな。あなたが寝たあとで、お父さんとはそんなことをよく話していました。あなたの成長はお父さんとお母さんの楽しみでもありました。
4歳のときは紅葉狩りに出かけました。
紅葉を両手いっぱいに集めてお父さんやお母さんにくれましたね。
でもあなたはその後疲れで風邪を引いて寝込んでしまったの。寝込んで体は辛いはずなのに、一生懸命辛くないようなそぶりをしていました。紅葉狩りがすごく楽しかったとずっと話をしていて「もみじ、もみじ」って熱に浮かされても言っていました。
そんな遥君が大好き。あの時、押し花にしてしおりを一緒に作っておけばよかったと後悔しています。
5歳になると、言葉もどんどん覚えて今日あったできごとをよく話してくれるようになりました。将来のゆめも。
遥君は遥君です。そして私たちの子供です。お父さんとお母さんは多分、あなたに会うことはもうできない。あなたの話が大好きだったのに、どうして聞けなくなってしまったのでしょう。どうして。
あなたと代われるなら代わりたいです。でもここではお父さんやお母さんの弱音は書かないことにします。あなたは人間として生まれました。だから誇りを持って下さい。たった5年と少しの間しか一緒にいられなかったけれど、覚えていてください。
あなたが感じる風の中に、目についた草花の中に私たちは存在してきっとあなたを見守っているということを。あなたがどんなことになってもあなたの存在を喜んでいる人はここにいます。私たちのもとに生まれてきてくれてどうもありがとう。
そして、ごめんね。
愛はここにあるじゃないか。
あの遥という男の子は、何度も何度もこの手紙を読んでいたに違いない。その光景を想像すると、視界がかすむ。遥の最後を思い出すと、頬まで濡れる。
そういえば、水穂の知人の日本人から聞いたことがある。日本では旧時代に「愛している」といった発言するのはとても恥ずかしいことだと思われていた、というようなことを。単語さえ消えてしまったのはそのためだろうか。それともやはり愛などというのは曖昧で科学的根拠のないものとして、消されたのだろうか。
便箋をしまい、ノートを読むことにした。
ノートは夫婦に語りかけるように書かれている。
遥が最初に綴っているのは12歳の時からだ。施設ではノートを手に入れることができず、手紙をずっと隠し持っていたのだろう。ノートは配給される僅かばかりの金で買ったのかもしれない。
咲夜は読み更け、そして思った。
ママナならどう行動するだろう。そうして8の存在をなくすような行動をとったとして、ママナの意思を継げるほどの人物になれるのだろうか。別に偉大な人間になりたいわけじゃない。
だが死んでもおかしくなかった子供がここまで生かされて、ここで8の存在を知ったということは、そういう道筋があらかじめ、目に見えないところから用意されていたような気もする。
それともそう思うのは驕りで、自分は自分の人生を保守しながら、8を当たり前のものとして受容し、進みたい道へ淡々と進んでいくべきなのだろうか。
そんなはずはない。
雀の鳴き声が聞こえた。空は白み弘子が階段を降りて行く足音が聞こえる。続いて湯治の足音。咲夜は物音ひとつ立てずノートを鞄にしまう。そうして眠らずに過ごした顔色の悪さを誤魔化すために、30分ほど横になってから着替えてリビングへ行っ
た。
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