応援コメント

ただ独り歩め、『犀《サイ》の角』のごとく」への応援コメント

  • (アラカンになって考えること。
    自ら選んだ孤独を満喫できるような人生?
    誰にも束縛されない生き方は悪くない)

    作者からの返信

    自分と言うものを見つめ直す意味においても、時には孤独と向き合わねばなりません。


  • 編集済

    奥深いですね。
    ヤフーコメントは害毒の固まりですね
    仏教思想はよく読んでみたいのですが、広く深すぎてどこから手を付けたらいいのかわからないところがあります

    そのために法事や葬儀の法話があるのかと思いますが…最近は簡略化で触れる機会が減り残念です

    作者からの返信

    お寺や坊さんと接する機会が減りましたからね。

    たまにじっくり聞くと、ハッとさせられる場面もありました。

    そうした機会に惠まれると良いですね。

  • 読ませていただきありがとうございます。

    他の記事もいくつか、興味深く読ませていただきました。
    とてもためになって面白かったです。
    私も初めて知ったり、覚え違えてないか不安になったところもありました。

    図図しいようですが、少々質問させて下さい。

    子どもの頃に、どこだかの仏教辞典を引いて
    「非業の修羅」という言葉を知り、そのときは意味も理解して
    短編小説を書いた覚えがあるのですが
    その小説が散逸してしまい、「非業の修羅」も正確にはどういう意味だったか
    半分忘れてしまったような感じになっています。
    もしも、「非業の修羅」という単語とその原点をご存じでしたら
    教えていただけないでしょうか。
    普通は「非業の死」なんですが、仏教の言葉にあったようなんですよ。

    他にも、仏門に関する事で知りたい事はたくさんありますので
    今後も楽しみに読ませていただきたいと思います。
    本当に、よい記事と作品をありがとうございます('-'*)

    作者からの返信

    『非業』は何かしらの理由で、前世の因縁(この場合は善の因果)を受け付けない程の酷い有様の事を指します。

    仏教においては『原因』と『結果』は不可分の繋がりを有し、全ての事象は因果応報によって集約されます。

    現世における事象は、すでに前世における善行悪行の結果として現れています。

    より良い来世を望むのであれば、現世において布施の心を忘れず、善行に努めればよい。

    基本的にはこうなのですが、業(カルマ)すら否定されるほどのとんでもない事象が非業であり、『非業の死』は前世の因果すら否定されるほどの現世での不運によって最期を迎えた、というニュアンスで用いられます。

    運命や因果の流れすら及ばない程の不幸不運。

    見送る側からすればこれ以上にない悲しみですね。