逃れられぬ『四苦』と『八苦』

『四苦八苦』


とにかく大変でどうにもならない状態を指す四字熟語。


皆さんも日々苦労を重ねているかもしれませんが、この言葉は仏教的には決して逃れられない根源的な“苦”であるとされます。


まずは『四苦』について。



生苦しょうく


生苦は生きることそのものが“苦”であるという考えです。


そもそも仏教においては功徳を積み、最終的には輪廻の輪より解脱する事を目指しています。


そのため、衆生の世界に生まれ落ちたという事は、前世において解脱を成せるまでに功徳を積めなかった事を意味しています。


欲望渦巻く世界に“生まれ落ちた苦”というわけです。



老苦ろうく


生きていれば当然老いていきますが、その老いる事そのものが“苦”であるという考えです。


老いに美徳などは一切ありません。そうではないと否定する方もいますが、それはあくまで“経験”がそう感じさせているだけです。


バカな経験しかしてこず、傍若無人なる振る舞いをする“老害”を見て、それは老いが美徳であるとは思わないでしょう。


老いも若きも関係なく、“経験”とそこからの“振る舞い”によって評価されてしまいますから。


しかし、老いはどんな賢者や聖人にも訪れます。


若い頃のように体が動かず、頭も働かず、自由にままならない思いを重ねる齢ごとに強く感じてくることでしょう。


老いとは、まさにそれ自体が“苦”なのです。



病苦びょうく


そのまんま、病気を得るという“苦”です。


人間誰しも健康でありたいと思うものですが、ふとした事で病や怪我を負ってしまうのは良くある話です。


最近でもコロナ禍で散々苦労してきた方もおられるでしょう。


病気や怪我は老いも若きも、突然襲い掛かって来ます。


生きている限り、病苦はどこにでも現れ、苦しめてくるものです。



死苦しく


生者の赴くその最終点は、すべからく“死”です。


これは動かす事の出来ない絶対の真理であり、生きている限りは必ず“死”という“苦”が降り注ぎます。



『生老病死』、これが『四苦』というわけです。


そして、これに追加の4つの苦が加わります。



愛別離苦あいべつりく


愛する人、家族や友人、恋人などと離れてしまう際に生じる“苦”です。


気の許せる人との一時は楽しいもので、何事にも代えがたいものでしょう。


しかし、生きている限りには別れがやって来ます。


死によって別たれたか、あるいはNTRで奪われてしまったか、理由は様々ですが、愛がある限り、別れは辛いものとなります。


その想いが強ければ強いほど、別れによる“苦”もまた強くなります。


愛ゆえに人は苦しみ、愛ゆえに人は悲しみ、愛ゆえに人は恨むのです。


ふとした行動からかつての思い出がフラシュバックし、普通なら感じたくもないような苦々しい感情が溢れ、人生は苦しみに覆われます。


愛する何かがある限り、人は決してこの“苦”から、愛別離苦あいべつりくからは逃れられないのです。



怨憎会苦おんぞうえく


人間誰しも、気に入らない人と言うものはいるものです。


とにかくこいつは腹が立つ! こいつは絶対に許せない!


こんな感情を抱く相手に遭遇する事を、怨憎会苦おんぞうえくと言います。


まして、今やインターネットがある時代です。広大なネットの海には情報が溢れ、中にはとんでもない事件を起こした犯人であったり、あるいは度し難い迷惑行為を嬉々として動画に上げる人もいます。


「こいつ、サイテ~!」と思う事もあるでしょうが、そうした人と情報を介して繋がってしまうのが現代社会です。


社会的生物である人間は、決して一人では生きられません。社会という人と人の繋がりのある空間で生き、その出会う人の中には気に入らない相手もいくらでもいます。


それゆえに、怨憎会苦おんぞうえくもまた逃れられない“苦”なのです。



求不得苦ぐふとくく


要するに、求めてもままならないと感じる“苦”です。


欲しい物がある。付き合いたい人がいる。行ってみたい場所がある。


人は願い、欲する生き物でありますが、その願いが全て叶うわけではありません。


努力してもそれが報われるとは限らず、世の中はむしろ思い通りにならない事の方が多いくらいです。


「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある通り、人の手ではどうにもならない神仏の領域があるのです。


求めるものへの気持ちが強ければ強いほど、それを得られなかった時には、耐え難いほどの大きな“苦”が生じます。


意中の人の告白して、盛大にフラれた時がまさにそれ。


ままならぬのが人生であり、求不得苦ぐふとくくもまた生きている限り付きまとう“苦”というわけです。



五蘊盛苦ごうんじょうく


これは自分の心と体の“苦”という意味です。


五蘊ごうんとは、肉体を意味する“色”、心・精神の考えるプロセスを細かく分類した“受”、“想”、“行”、“識”という意味です。


“心”も“体”も当然ながら、“自分”のものです。


しかし、自分のものでありながら、決して自分の思い通りにならないのです。


病や怪我で急に動けなくなったり、何よりいずれ老いて死ぬことが定まっています。


つまり、究極的には“心”と“体”を持つがゆえに“苦”が生じるという考えです。


五蘊盛苦ごうんじょうく、これもまた、肉体と精神を持つ者が避けては通れぬ“苦”なのです。



以上が『四苦八苦』の仏教的な内容です。


生きるという根源的な“苦”に対する『四苦』。


生苦しょうく老苦ろうく病苦びょうく死苦しくです。


これに人間の社会性に起因する追加の4つを追加した『八苦』。


愛別離苦あいべつりく怨憎会苦おんぞうえく求不得苦ぐふとくく五蘊盛苦ごうんじょうくです。


別に12の苦があるわけではありません。


根源的な『四苦』と、追加の4つが入った『八苦』です。


これが『四苦八苦』というわけです。


衆生である限り、“苦”は必ず付きまといます。決して逃れる事の出来ない真理なのです。


空腹と言う“苦”を逃れるために食事をします。されど、ずっと食べ続けると、今度は腹が膨れて“苦”となり、食事を止めてしまう。


座り続けると“苦”となるため、立ち上がります。されど、ずっと立ち続けるとこれもまた“苦”であるため、また座ります。


人の生とは、すなわち“苦”から逃れ続けるとも解釈されます。


では、苦しみより“逃げる”のではなく、“克復する”にはどうすればよいか?


答えは簡単です。


衆生である限り、“苦”より逃れられないのであれば、輪廻の循環より解脱し、超越的存在になればよいのです。


その法を説いたのが仏陀であり、その教えこそ仏教なのです。


功徳を積めば、より良い生を掴み、最終的には誰であろうと解脱して仏に、超越的存在になることができます。


今が苦しいのは前世での行いの因果応報であり、今世において功徳を積んでこそ、来世に繋がっていくのです。


皆さん、今を『四苦八苦』していようとも、不貞腐れずに善行を心がけましょう。


それがいずれ良い意味でも悪い意味でも、自分に報いとして返ってくるのですから。



新居に馴染めぬ>( -ω-)人  (´・ω・` )<それシックハウスや 

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