あなたは今、『退屈』ですか?
『退屈』とはどのような状態であると、あなたは考えていますか?
特にやる事がない。
あるいは、何かしらの事象に対して関心がない。
こんな感じでしょうか。
何かしらの式典でのお偉いさんからの祝辞やら挨拶なんぞ、まさにその典型例で、はよ終われ~とあくびの一つでも解き放っていた事でしょう。
ですが、それは修行が足りていない証拠です。
なぜなら、『退屈』の本来の意味は、「修行の厳しさに“屈”し、修行の場より“退”く事」を指しているからです。
人は何かしらに興味を持つと、精神的高揚を覚え、その刺激を欲するようにできています。
その高揚を持続できればよいのですが、何度も続けている内に“飽き”が来てしまう。
そこでスパッと離れられれば良いのですが、何かしらの事情により続けざるを得ない時、それは快楽や高揚から苦痛へと変じてしまう。
興味を失った事象が苦痛となるのは、『退屈』だからです。
熱意を持って出家し、修行に打ち込もうとも、その熱意を打ち砕く厳しさに精神が蝕まれ、そして、
「苦しいのであれば、投げ出してしまえ」と。
その悪魔の囁きに負けると『退屈』となり、『退屈』はあらゆる作業の効率を低下させます。
単純作業中にBGMを流すのが効果的なのは、定期的な刺激を補充し、
とは言え、『退屈』がすべて悪ではありません。
精神的、肉体的に弱っている時は余暇を得て、休む方が重要になるからです。
休んでいる時にはむしろ、『退屈』であることが何より幸せなのです。
そうです。『退屈』とは決して無価値なものではありません。
何もやる事がない、と言う事は、普段やれない何かをやる機会があるという事なのですから。
かつての人類には今あるような文明の利器はなく、獲物を求めて各地を歩き回り、食べ物を得るだけで一苦労していた時代もありました。
そんな状態では『退屈』などと言ってはいられませんね。
しかし、その日はすんなり獲物にありつけ、腹を満たされてゴロンと横になると、その視線の先には何があるでしょうか?
流れる雲か、あるいは輝く星々か、普段は忙しくて流してしまうそんな自然を、よくよく観察する“機会を得る”ということです。
雲は風によって運ばれ、形を変える事を知る。そして、雨を降らせる事も知る。
これが“気象学”の基礎となりました。
あるいは、輝く星々に一定の法則性を見出し、動かない星を見つけて方角を知り、あるいは季節での空の変化に気付く。
“天文学”はそんなところからスタートしていったのです。
糧を得る以外の事に労力と思考を当てれたからこそ、人類は今の社会を築いて来れたのです。
『退屈』であったからこそと言えるでしょう。
作業のメリハリを付けたり、あるいは新しい事に挑戦をする。『退屈』があればこそ変化を求め、そこに新たな発見が生じるのです。
屈して退くのもまた、人の歩む道です。
覚者となるか、
解脱のために修行に打ち込み、『退屈』と言う
どちらを取るのか、これもまた、人の悩みであろう。
しかし、やり直すことができるのが、仏教なのです。
さあ、あなたもそんな変化を求め、『退屈しのぎ』にでも興じてみませんか?
波乱万丈は疲れる>( -ω-)人 (´・ω・` ) <退屈はむしろ幸せの証
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます