『ついで』における注意点
『ついで』
皆さんもこのフレーズは良く使われる事でしょう。
「○○のついでに××もやっておこう」
ごくごくありふれた表現であり、日常の中にある普通の情景です。
ですが、これは同時に状況によっては極めて失礼に当たることでもあります。
理由は簡単。『ついで』の後ろに来る行為が、明らかに格下に扱われている点です。
「今日は父の霊前に参じよう。ああ、ついでに境内の本堂の方にも顔を出して、本尊に拝礼しよう」
これがよろしくないのです。
父の墓参りが主目的なのはよしとしても、『ついで』で拝殿するのは、祀られている神仏への敬意が欠けています。
神仏への拝礼は、敬意や誠実さがあってこそであり、『ついで』で参拝するべき存在ではありません。
この『ついで』に関して、日蓮上人のエピソードがあります。
***
とある旅の尼僧が、自身の氏神にあたる神社へ参拝し、その『ついで』に近くにあった釈迦牟尼如来を祀るお寺にも参内しました。
その話を尼僧本人から聞いた日蓮上人は酷く嘆きました。
そして、こう言い放った。
「釈迦如来に拝するを『ついで』と言っては、罰が当たる。会えばますます業が深くなるだけだ」
こうして、遠方よりやって来た尼僧を追い返してしまいました。
***
もののついでに神仏に拝しては、心構えとしてどうなのか、と
『ついで』の後に来る言葉、行為を軽んじる事にも繋がり、ましてそれを敬愛する釈迦牟尼に当てはめるとは何事かと、日蓮上人は怒ったのです。
まあ、それでへそを曲げて面会お断りするのは、坊主としてどうなんだろうとは思いますけどね。
むしろ、招き入れて説教垂れるくらいがいいんじゃないかと思ってしまう。
このように、そんなつもりではなくても、『ついで』には時と場合にによっては大いに相手に誤解を与え、心象を悪くしてしまう場合があります。
ゆえに、『ついで』で神仏の前に拝する行為は絶対に避けねばなりません。
神職、住職にしこたま怒られる可能性もあります。
それを回避する意味でも、神事仏事は“午前中に済ませておく”のが良いとされます。
何はさておき、神仏を前に置き、『ついで』ではなく、何事にも先んじて敬意を示すという意味があります。
無論、これは絶対のルールではありません。
むしろ『ついで』であっても構わないのです。
肝心なのは“心”です。
敬う気持ちを常に持ち続けることが重要なのです。
『ついで』であろうと、神仏への敬意を忘れず、心を込めてお参りするのが重要であり、誠実さを以て拝する事が一番というわけです。
皆さんも『ついで』という言葉を出す時は注意しましょう。
意図せずとも、相手の心象を著しく損なう場合があるからです。
かと言って気張らず、それでいて緩まず、今日もまた“中道”を進んで行きましょう。
お酒ついで♪>( -ω-)人 (´・ω・` ) <字が違うぞ、おバカ
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