『布施』とは何か?

『布施』も仏教由来の言葉ですが、これも割とよく使われますね。


投げ銭なんかのときに、「お布施じゃぁ~!」とか叫びながら。


まあ、ありていに言いますと、誰かに何かを施す事です。


現在も使われている意味でおおよそあっています。


ちなみにサンスクリット語で“贈与する”ことを『ダーナ』となり、檀那ダーナと漢字では書きますが、これが『旦那だんな』の語源でもあります。


また、英語のDonor(ドナー、すなわち寄贈者)の語源でもあります。


こうした施す人を『施主』あるいは『檀越だんえつ』などとも呼び、日本ではここからお寺に寄付する家の事を『檀家』と呼んだりしますね。


つまり、衆生は金銭や食べ物などを出家者に施し、出家者はその返礼として説法をして功徳を施す。


こうした持ちつ持たれつの関係があってこその『布施』なのです。


さて、そんなお布施に関するお話をいたしましょう。



              ***


ある日、仏陀はいつものように弟子を引き連れて托鉢に出掛けました。


そして、前方の道が二手に分かれており、仏陀は右手の道を進もうとしましたが、それを弟子の目犍連モッガッラーナが止めます。



目犍連モッガッラーナ

「仏陀様、道をお間違えではありませんか? そちらの道を進むと、大変貧しい村に行きつきます。飢饉のせいで今日明日の食べ物にすら難渋していると聞き及んでいます。しかし、左手の道の先には大きな町がございます。布施をする者もたくさんおりましょう」


仏陀

「道を間違えてはいないよ。この道が、貧しい村に通ずることは知っています。布施は貧しい者ほどしなければならないのだ。彼らが現在、餓死するほどに貧しいのは、

過去世において悪徳を成し、欲に溺れ、布施の功徳を積まなかったからである。布施を励んだ人は、恵まれた家に生まれ、施しをしなかった人は貧しいところに生を受ける。彼らは自らの報いを受けているのだ」



いつもの『因果応報』の理論によって、仏陀は目犍連モッガッラーナを諭し、さらに続けます。



仏陀

「だからこそ、貧しい村に足を運ぶのです。貧しい中から、米一粒でも布施をして、功徳を積むならば、それにより、彼らは今の苦しい状態から抜け出せる。貧しさに苦しんでいる人ほど、布施をしなければならないのだ」



この仏陀の言葉に弟子一同は納得し、その智慧の深さにますます感銘を受けました。



               ***



もし、“物を貰う事”を目的とするのであれば、仏陀は富める町の方へと向かった事でしょう。


ですが、仏陀はそうはしなかった。


『布施』とは“物”を受け取るのではなく、“心”を受け取る修行なのです。


衆生も出家者も、『布施』を挟んで互いに交流し、功徳を積んでいくのです。


善い行いをすれば、善い結果が本人に返ってきます。


『因果応報』の理論において、善行を行い、功徳を積むのは、より良い生を掴むためです。


行為と言う原因が、報いという結果を生むのです。


その事を決して忘れませんように。


『布施』はまさに人としての“心意気”を見せる修行でもあるのです。



何よりも真心大事!>( -ω-)人   (´・ω・` ) <人、それを愛と呼ぶ

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