肉を食べても問題ありません!

仏教の戒律の中に“不殺生戒ふせっしょうかい”があります。


要するに、生き物を故意に殺してはダメです、ということです。


それ故に、出家したお坊さんは肉や魚などを食べてはいけないと思われているかもしれませんが、実は違うのです。


初期仏教においては、肉食は禁じられていませんでした。


それじゃあ戒を破っているじゃないの? と思われるかもしれませんが、それは当時と現代の状況が違うわけです。


皆さん、もしお坊さんが食べ物を貰おうと托鉢にやって来て、乞食行こつじきぎょうを行っていたとしましょう。


さあ、“どこ”から食べ物を取り出しますか?


恐らくは冷蔵庫から食べ物を取り出してくることでしょう。


でも、仏陀がいた頃の初期仏教の時代に、そんな文明の利器は存在しません。


つまり、食べ物の備蓄と言うものは今よりずっと困難であり、飢えや渇きと隣り合わせの生活でした。


そんな苦しい状況下でも出家者のために施すからこそ、在家信者にも功徳を得る機会が巡って来るのです。


すなわち、乞食行とは、出家者が食べ物などの最低限必要な物品を得るのと同時に、在家信者に功徳を積ませる修行の一形態でもあるわけです。


食べ物という形を成していますが、本当に受け取るべきは“第三者の善意”、すなわち“心”なのです。


冷蔵庫がなく、備蓄が大変。そうなってくると、渡す食べ物に限りが出てきます。


もし、在家信者の元に訪れ、食べ物を乞うた時、その在家信者が肉や魚しか持ち合わせがなかった場合、どうなるでしょうか?


“不殺生戒”を理由に乞食しなかったら問題です。なぜなら出家者は、乞食行によって在家信者が功徳を積む機会を奪ったことになります。


他者が功徳を積む機会を妨害する。これは明確に“悪徳”です。


出された食べ物が肉や魚であろうとも、それを断ってはならないのです。


そうなると、今度は別の問題が出てきます。


つまり、出家者が“欲”に負けて肉食したいとなり、肉を食べている家に托鉢に出掛けてしまうということです。


出されたんだから仕方ないよね、とはなりません。肉や魚が出てくることを知っていたわけですから、これは“間接的な殺生”に該当し、これこそ“不殺生戒ふせっしょうかい”に抵触する行為となります。


そんな事があったため、仏陀は新たな決まり事を設けてこの問題を解決しました。


以下の3つを新たな決まり事としました。



1、殺されるところを見ていない

2、自分に供するために殺したと聞いていない

3、自分に供するために殺したと知らない 



これらを守った場合にのみ、肉食しても問題なしとしたのです。


托鉢に出掛けた先が、チキンカレーを食べていたと仮定します。


カレーを作る際に鳥を絞めている段階を、出家者が見てしまうとNG。


托鉢に来ることを予想して、多めに作ったカレーを供するのもNG。


“偶然”カレーを作り過ぎて、“たまたま”通りかかった乞食行実施中の出家者に渡すのはOK。


こんな感じです。


乞食行は“善意の受け渡し”が重要であり、何を渡したかは問題でもありません。


これは“心”の問題であり、出家者、在家信者ともに功徳を積む修行なのです。


選り好みなど当然あってはならないし、受け取った物は何であれ食するのが当然と言うわけです。


中にはハンセン病の患者から食べ物を受け取った際、患者の肉の一部が受け取る鉢の中に入り、構わず食べたという記録まで残っているくらいです。


なお、日本、中国では肉食が禁止され、僧侶が生臭物を食べる事がなくなりました。


理由は寺院が大きくなり、在家信者が出家者に直接食事を提供するのが当たり前になったからです。


これで肉を使った料理を作ってしまうと、「お坊さんのためにチキンカレー作りました」となって、上記の規則の内、2ないし3に違反してしまうからです。


間接的な殺生をしてしまうことになり、これが肉食を忌避する土壌となったのです。


初期仏教においては3枚の法衣と托鉢用の器以外の物品を、所持することを禁じられていました。


第三者の善意のみが命を繋ぐ手段であり、そうした善意によって心が清められると言う意味合いがあったわけです。


そのため、乞食行が当たり前。第三者の善意、すなわち乞食こつじきがあってこそ、出家者は生存を許され、修行に打ち込むことができたのです。


食べ物に対して厳しく制限をかけ過ぎると、更なる制限を設けて自分を苦しめる事になる。


逆に制限がないとあらゆる物をむさぼるようになる。


自分への過度の厳しさ、逆に甘えは、ともすれば極端に走らせ、道より転がり落ちる要因になりかねません。


行き過ぎた肉食禁止、現代でも覚えがありますよね?


はっきり言って、ヴィーガンの人達がこれに該当します。


極端に走り過ぎた結果、どうなったかは時々ニュースで流れてきます。


仏陀の教えは“中道”。偏り過ぎずに真ん中を進む事です。


あらゆる苦行と快楽を経験したからこそ、仏陀は真ん中を行ったのです。


有為転変ういてんぺん、世の中に常なるものは一つとしてなく、絶えず変化していきます。


時代や社会に応じて、仏教も変わったからこそ今の姿があるわけです。


ゆえに、肉食は貪らないのであれば問題ないのです。


重要なのは、人は誰しも“善意”によって生かされている事を自覚し、苦しまず、貪らず、中道を進む事なのですから。



中道を行く>( -ω-)人   (´・ω・` ) <過ぎたるは猶及ばざるが如し

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る