2-3 見えない会話

「……はあ」


 来た道を戻る途中で、少年の口から盛大なめ息が漏れる。多少ましにはなったものの、体のだるさは抜けていなかった。


(リーラ姉と話している間はそんなに気にならなかったんだけどな。やっぱ他人ひとと話をしてた方が気も紛れるのか……ん?)


 うつむき気味に歩いていると、道の脇を流れる水路に自分の影が見えた。といっても、雨で波打つ水面は真実を映し出す鏡にほど遠く、かろうじて己の輪郭が分かる程度の影だが。しかしそれが逆に、今の自分の心理を正しく現しているように感じられる。


「……」


 アリウスは引き寄せられるようにして水路をのぞき込むと、不安定な自分に向けて愚痴をこぼした。


七耀参しちようまいりって、本当に効果あるんだよな? 気休めとかじゃなく」


「――ぁア。まチガイイナク」


「!?」


 背後から不気味な声。


 全く唐突に聞こえたそれに、少年は声も出ないほど驚いた。反射的に振り向く、がそこには誰もいない。


「空耳、か?」


「そチラデハナイ。こチラダ」


「へ!?」


 再び、後ろから陰気でしわがれた声。


 だが瞬時に視線を転じても、やはり道の向かいに建物の壁が見えるだけだった。


「な、なななな」


 何が起こっている?


「そウオドロク、コトハナイ。わタシハ、おマエノ、せナカニイル」


「背中にって……」


 後ろにいる、ではなく。


 その微妙な違いで、アリウスもようやく声の主がどこにいるのか理解した。


 背中にしがみついている、あの骸骨だ。


 無機質な髑髏が今、自分の耳元でささやいたのだ。そう気付いて、少年は心の底から震え上がった。


「あ、あんた。口がきけたのか!?」


「おカゲサマデネ」


「……!」


 怖い。


 そのたった一つの感情が、精神と言わず全身をも支配する。気怠けだるさに取って代わった悪寒に震えつつ、アリウスはどうにか声を絞り出した。


「あー、えー、その、動けるようになったのなら、背中から離れてくれませんかね?」


「そレハデキナイ」


「なぜ!?」


「いマハタダ、こエガモドッタダケ。わタシノジユウハ、うシナワレタママ」


「……どゆこと?」


「アリウス?」


 背中へ投げた問いかけに第三者の呼びかけが重なり、狭い路地に反響した。振り向くと、自分と似たような格好をした女性がいる。ただし、身にまとっているのはマントタイプの雨具で、頭部を雨から守るのはフードではなく帽子だが。


「一体どうしたのさ? 水路の前で震えてると思ったら急にきょろきょろして、しかもなんか一人でブツブツつぶやいてるし」


「あ、いや……」


 彼女はアリウスの同業者であり先輩だ。若年ながら経験豊富で周囲からの信頼も厚く、大がかりな清掃現場ではよく班長役を務めている。


「この間からちょっと元気なさそうだったけど、ひょっとして風邪かぜひいた?」


 普段の勝気な雰囲気が消え去り、純粋に気遣う様子を見せてくる。憂いを帯びたその表情からは、本気で自分を心配していることが伝わってきた。


「あたしのとこも、みんな昨日から急に具合が悪くなってさ。今朝からほとんどの子が寝込んでるんだ。なんか流行はやってるのかな?」 


 きっと彼女にも、自分の背に取りいた骸骨は見えていないだろう。


 そう予想して、アリウスは自身の置かれた状況を説明しようとした。だがそこで、耳から頭の中に低くかすれた声が吹き込む。


「ふム。ほカニモとリツカレタのガいルノカ」


「いや、まだ呪いと決まったわけじゃ……」


「へ? 呪い?」


「あ、いや……」


「わタシノコエハ、おマエニシカきコエナイ。きヲツケロ」


「そういうことは先に言え!」


「ア、アリウス?」


「あ、あ―……」


 誰にどう対応すればいいのか分からなくなってきた。今取るべき行動に困った少年は、焦りと迷いの果てにある行動に出る。


「ごめん! 急用思い出した!」


「あ、ちょっと……!」


 その場を収めることを諦め、勢い任せに突っ走る。通りを抜けていくつかの角を曲がり、人気ひとけのないところで後ろを確認。誰もいないのを見てから深く息を吸い込む。


「ふぅ。つ、疲れた……」


「ひヨワダナ」


(こいつ……!)


 その一言で限界が来た。


「あのな。とっくに死んでるあんたと違って俺は生きてるんだ。日常があるんだよ。ただでさえしんどいのにこの上幽霊の相手なんてできるか」


疲労も恐怖も忘れ、一息に怒鳴る。


「もう背中に張り付いてることには文句言わないけど、せめて人前で話しかけてくるのだけは勘弁してくれ。いちいち誤魔化してたら体が持たない」


「……」


「俺が倒れたら、あんたも困るだろ」


「……わカッタ」


 背中の声はそれっきり、今日という日の終わりまで聞こえなくなった。

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