2-2 初日を終えて

「おお、アリウスじゃねえか」


「親方?」


 小雨になった帰り道、背後から掛けられた声に振り向くと見知った顔があった。古びたレインコートに身を包んだその男は、この地域のはらい屋を束ねるリーダーでいわばアリウスの上司。その責任感の強さと義理堅さから親方と呼ばれ、街の上層部からも信頼されている。先だっての人造湖の大掃除においては、全体の指揮を任されていた。


「こんちは」


「おう。ああ、嬢先生もいたのかい」


 水利施設の清掃を監督する立場上、彼は常日頃から天候に気を配っている。その関係でよくリーラに明日の空模様を占ってもらい、しかもそれがほぼ確実に当たることから、彼女のことを嬢先生と呼んで尊敬していた。


「どうも。ご無沙汰してる」


「ああ、なんて幸運だ。これも耀精王ようせいおうのお導きに違いねえ」


 頼りとする占い師の挨拶を受け、いつも不機嫌にしかめられている男の顔が安堵あんどに輝く。いつになく安らいだその表情に、アリウスは逆に不安を覚えた。


「リーラ姉に会えたのが幸運って、なにかあったんすか?」


「おうよ。こないだ、トレミー湖の大さらいで取り残したつぼがあったろ」


「話には聞いてます」


「それを一昨日おととい、改めてアリエルの班に回収させたんだがな。そしたらみんな体調崩しちまってよう。今日は朝からずっと寝たきりなんだ。赤毛先生に見せても首ひねるばかりでさっぱり原因が分からねえ」


「そんなことが……」


 原因不明の体調不良。


 なんだかものすごく身近に感じる。横目でリーラを見ると、彼女も渋い顔をしていた。


「こうなった責任の全てははらい屋のまとめ役である俺にある。あるんだが、情けないことにどうすることもできなくてな。それでもせめて願掛けを、と思って聖堂に行く途中だったんだが……」


 親方が言葉を区切り、この街でも指折りの占い師に目を向ける。


「……私に診て欲しいと?」


「おう。まじない関係は確か、月耀げつようだったよな」


「……そうね」


 世界の運行を差配する耀精王ようせいおうが七日周期で交代するのに応じて、リーラの占いは耀日ようびごとに専門が決まっている。そして今日という日が呪術関連の相談日となれば、原因不明の病にも対応できると期待したくなるだろう。


(ひょっとして、あいつらも俺と同じような目に遭ってるのか) 


 馴染なじみの顔がまぶたに浮かび、アリウスは黙っていられなくなった。迷う様子を見せる占い師の背中を押すべく、横合いから声を上げる。


「行ってきてあげて、リーラ姉。もう今日の分は終わりなんでしょ」


「そうだけど……」


「頼むよ。俺も仕事仲間のことは心配だし」


「……分かった」


「おう! 来てくれるか」


 これでもう大丈夫だ、とばかりに親方が破顔した。深いしわの刻まれた顔を緩ませ、降り続ける雨をはじき飛ばす勢いで両手を打ち合わせる。


「そいつは助かる。お前さん、店を出すのは夜だから、それまで待たなきゃいけねえかと思ってたんだが」


「そんなことはない。緊急の用件ならいつでも受け付ける――起きていたら、だけど」


「そうかい? ま、なんでもいいけどよ」


 善は急げと、はらい屋のまとめ役は足早に歩き出した。しかし案内される側の占い師はすぐに付いて行こうとせず、最後にいくつかの注意事項を残す。


「ではアル。帰りも気をつけて。あまり体を冷やさないように」


「うん、分かってる」


「それじゃ続きは明日。今日と同じぐらいの時間で……いえ、そうね。もっと早いうちに回ろうか?」


「え?」


 思案気につぶやかれた言葉に、アリウスは自分の耳を疑った。つい本気で聞き返す。


「リーラ姉、朝起きられるの?」


「失敬な。午前中にお参りを済ませれば午後は仕事ができるだろう、という年上の気遣いを無駄にするの。……まあ、あくまでアルの体調次第だけど」


 問いに応じた不機嫌な声は、後半で気遣いに変わっていた。申し訳ない気持ちになりながら、アリウスは素直に謝った。


「あー、変に疑ってごめん。朝起きたらすぐ行くから、よろしくお願いします」


「うん」


 リーラも「わかればよろしい」とうなづき、道の先で待っている依頼主に足を向ける。


「お待たせした。行きましょう」


「おお」


「それじゃアル、また明日」


「うん。また明日」


 簡素な傘の女といかついコートの男が並んで雨の通りを行く。その対照的な組み合わせは人目を引くようで、通行人はもちろん屋内にいる者までもが窓越しに視線を向けていた。


(……って、それは俺もか)


 このままずっと姉の背中を見送っていると、自分も野次馬の一人になってしまう。


 そう悟ったアリウスは、きびすを返して家路に就くことにした。

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