第一章 不吉な拾い物

1-1 始まりは月耀日

 小雨の降る通りを一人、はらい屋の少年――アリウスは重い足取りで歩いていた。


 フード付きのコートをらす滴はそう冷たいものでもない。だが彼は、震える身体を押さえるようにしながら、両手でしっかりと前を合わせていた。そうしてのろのろとした歩みで裏道を進み、とある石造りのアパートの前に立つ。


「まさか、いつもの道がこんなに遠いとは……」


 愚痴交じりのめ息を一つ。それから深呼吸して気を取り直し、アリウスは運河に面する一階通路へ足を踏み入れた。


「ナー」


「や」


 柱の陰で顔を洗っている子猫に挨拶しつつ、最奥にある一室を目指す。そう長い距離ではないはずだが、今のアリウスにとっては歩くだけでも一仕事だった。息苦しさを覚えながら、どうにか目的の部屋に至る。


「リーラ姉。起きてる?」


 ドアをノックしてしばらく返事を待つ。が、まるで開く気配がない。


「仕方ないな」


 鍵が掛かっていないのは知っている。アリウスは慣れた手つきでドアを開けると、なんの気兼ねもせず中へ入った。


「お邪魔します」


 玄関でコートを脱ぎ、簡素というには殺風景すぎる部屋へと進む。そして窓際のベッドに眠る、褐色の肌に銀色の髪の女性に呼びかけた。


「リーラ姉。起きて」


「ん……」


 アリウスが軽く揺すると、女性――リーラは小さく身じろぎしてもそもそと口を開いた。


「……まだ昼前。良い大人は寝る時間」


「いやみんな起きてるから。パン屋のおっちゃんなんか夜明け前から働いてるから」


 呆れながら言うと、彼女はうつ伏せになって枕に顔をうずめた。軽く乱れた銀の髪の向こうから、呪文のような鬱々とした声が聞こえてくる。


「……この時間に寝るのは私の日課。規則正しい生活ができるのは良い大人。だから私は良い大人。この時間に寝るのは私の日課。規則正しい生活ができるのは良い大人。だから私は――」


「あー。リーラ姉の生活にケチつけてるわけじゃなくて」


 一口に占いといっても様々だが、商売としてみても占い師それぞれのやり方がある。店を出す場所や営業時間、あるいは想定する客層によって違いが出るのだ。


 彼女の場合はいわゆる辻占つじうらないで、夕暮れから本当に人が来るのかと首をかしげたくなるような未明まで、路地に椅子と机を構えて相談者が訪ねてくるのを待っている。そのため、こうして朝早くに寝て昼遅くに起き出す毎日を送っている。


(俺も、せっかくの眠りを妨げるのは心苦しいんだけど……)


 できればこのまま寝かせてあげたい。だが全身を襲う気怠けだるさは尋常ではなく、ぜひともその辺の医者よりも頼りになるお告げを聞きたかった。


「頼むから起きてって。なんかここ最近、体の調子がおかしいんだ。少しでいいから診てほしい、いや診てください」


「……健康相談は土耀、今日は月耀。また五日後に出直して。もしくはサギッタ診療所」


「いや、赤毛先生はちょっと……」


 腕はいいのだが小言も多い医者は苦手で遠慮したい。アリウスとしてはまず、自分が最も信頼する相手の見立てが欲しいのだ。


「お願いだから、この通り。こうして立ってるだけでも、なんか疲れを感じるんだ」


「……むぅ。仕方のない……」


 ようやく相談に乗る気になってくれたようだ。占い師がのそのそと布団から身を起こす。この義理の姉に当たる女性が、寝るときはシャツ一枚だというのは知っていた。なので、アリウスは紳士らしく目を逸らそうとした。


 逸らそうとして――。 


「うわっ」


 いきなり、肩をつかまれた。


 今の今まで半分閉じていた彼女の目が大きく見開かれ、こちらの顔をまじまじと見つめてくる。そこに夢の住人の姿はなく、もはや別人と言っていいほど身にまとう雰囲気が一変していた。


「リーラ姉?」


「アル。そんなのどこで拾ってきたの?」


 いつになく真剣な声。


 しかしその態度の急変に、アリウスはまるで付いていくことができない。


「そんなの? 拾った? なんのこと?」


「症状が出てるのに自覚がない……。強い想いは残っているけど意思はない? それとも想いを伝えられないほど弱っている?」


「だからなにが?」


「ちょっと待って。口で説明するより目で見た方が早い」


 そう言いながらリーラはベッドを降り、机の上に立て掛けてある円盤を差し出してきた。見ろ、ということらしい。


「?」


 訳が分からないまま鏡をのぞく。


 映し出されるのは当然、自分の顔。


 そしてその後ろに、骸骨の姿があった。


「うわあああっ」


 驚きのあまり飛び退き、バランスを崩して尻餅をつく。だが痛みを感じる余裕はなく、悲鳴に乗せて疑問の声を上げる。


「な、ななな、なんだこれ!」


「骸骨」


「分かってるよ、そんなこと!」


「……怒られた」


 理不尽、とばかりにリーラが頬を膨らませる。だが、納得できないのはアリウスの方だ。自分の腕を後ろに回したり、身体をひねって背中をのぞこうとしたりするも、そこに何かがあるという実感が全く得られない。だが鏡の中では依然、白いむくろがしっかりとアリウスの背中にしがみついている。


「どうなってるの、これ。……あ、分かった。この鏡、いたずら用なんだ」


 ひらめいた、とばかりに円鏡をリーラに向けて横からのぞき見る。曇り一つない、その滑らかな鏡面には――。


「なにもいないし……」


 占い師の姿と部屋の様子だけが映る鏡像を前に、アリウスは力なくうなだれた。

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