常雨の街の神秘劇

朝倉 畝火

序章 常雨の街の清掃員

0 開幕

 遠くで雷が鳴っていた。


 黒い雲から放たれるその低く重い響きは、これから空が本格的に荒れることを告げている。もっとも、降りしきる雨はすでに勢いを増しており、地上のあちらこちらで水をあふれさせていた。


 それは上下水道が整備されたここ、アズリアの街も例外ではなく、張り巡らされた水路は流量を増し、各所に設けられた貯水池へ滝のように水を流し込んでいる。


 これらのめ池は雨の侵略から街を守る重要な防壁だ。特にもとは湿地帯だった南部には、湖と呼べるほど広大なものが造成されている。だがその巨大水槽をもってしても雨の猛攻を受け切ることはできず、今にも氾濫を起こしそうなほど急な増水に見まわれていた。


「ちっ、金耀きんよう陛下のお出ましかい」


 街の水甕みずがめたる人造湖の縁で作業着姿の男がぼやく。彼は忌々しげに雷鳴のする方角をにらんでから、雨に泡立つ湖に向けて大声で怒鳴った。


「おおい! 水かさが増してきやがる! これ以上は危険だ! 溺れて死にたくなけりゃ、仕事をさっさと終わらせろっ!」


「「「はいっ!」」」


 湖面に浮かぶいくつかの小舟から威勢のいい返事が返る。仕事というのはこの貯水池の掃除のことで、彼らはこの街の生命線である水の道の清掃員――通称、はらい屋――なのだ。


「三番ブロック、終了しました! 撤収作業に入ります!」


「悪い親方! 六番、もう少しかかる。底で泥が巻き上がってて印が見えないんだ!」


「四番、なんか重いの見つけちゃいましたあ! つぼみたいですけど、どうしましょう」


「三番、全部済んだら六番を手伝ってやれ! 四番、中身が漏れ出してないようなら放置! 次に回収する!」


 天候の悪化を前にてんやわんやするはらい屋たち。なぜこんな日に作業をしているのかというと、そもそもこの街では雨の降らない日はないからだ。


 その場にいる者たちにとっては当たり前のことなので、皆文句一つ言わずに仕事を終わらせようと作業に専念している。そしてまた一人、水底で古くなった標識の交換を終えた少年が舟に上がってきた。


「や、やっと回収できた……」


 両腕に抱えた棒に、引っ張られるようにして膝を落とす少年。その重量のある棒は標識で、貯水池の底にある排水口の位置を示すための目印だ。


 耐水処理と彩色を施した、合金製の棒。


 これが人造湖に流れ込む土砂やごみに半ば埋もれる状態になっていて、引き揚げるのに一苦労したのだった。


 もっとも、疲れているからといって休める状況でもなかったが。


「こら、そこでぼさっとしない! まだ片付けがあるんだからな!」


「お、おう」


「早く。雷に打たれでもしたら大変」


「ああ、分かってる」


 舟番を務める相方にかされ顔を上げる。確かに、こんな開けた場所では稲妻の矢のいい的だ。少年は返事もそこそこに、標識に巻き付けた引き揚げロープを解き金具を外しにかかる。


「急げ、急げ……ん?」


 標識の根元に、鎖のつながった何かが絡まっていた。つい気になり、その表面に固まった泥を雨でほぐすように取り除く。 


 すると、精緻な模様の彫られたペンダントが姿を現した。


「うわあ……」


 少年の口から感嘆の声が漏れる。きっと誰かの落し物だろう。だが一見して高価と分かるそれは、こびりついた汚泥の裏からでも感じられるほどの輝きを放っており、庶民がやすやすと手にできる代物ではないのは明らかだった。


「こんな高そうなもの、一体誰が湖に……?」


 思わぬ発見に興奮を覚える少年。好奇心に駆られた彼は、片付けを放棄して拾い物を調べにかかった。まずは手掛かりをと、その表面の泥をこそぎ落とそうとし――。


「ん?」


 押し当てた指先から美麗な模様に細かな傷が無数に走った、と見えたのは一瞬。なにをする暇もなく、澄んだ音をかすかに残してペンダント本体が粉々に砕ける。


「うわっ!」


 突然のことに驚き、つい手が滑る。宝石の残骸らしき破片が小さくきらめきながらこぼれ落ち、銀の鎖が雨に波立つ水面に飛び込んだ。


「アリウス! もうお前らだけだ。早く戻れ! それとも泥の中で寝たいのか!」


「あ、はいすみません親方! 今上がりますっ!」


 監督にどやされ現実に戻る少年。見れば相方の片付けはすでに終わり、しかもにらんできている。その険しい視線から逃れるようにしてかいを手に取り、水の中に突き入れた。あとはいで舟を岸に戻せば、今日の仕事はおしまい。


 ――だが。


「ニャア」


 人造湖を見下ろす鐘楼の屋根で、一匹の黒猫がなにかの始まりを告げるように鳴いた。

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