17 美少年と別れ

 家に帰る足取りは、生きてきた中で、一番重かった。

 足どころか、玄関の扉までも、重く感じる。

「遅かったじゃない」

 夕飯を作っている母が、帰ってきた娘を見向きもせずに言った。

 お肉が焼かれている、美味しそうな匂いがキッチンから漂っている。

 いつもなら多少は元気が出る匂いだったけれど、わたしの心はびくともしなかった。

「別に……」

「宿題はいつやるの? お姉ちゃんはもう終わらせたって」

 宿題……?

 お姉ちゃん……?

 今はそれどころじゃない。何より、宿題の進み具合くらい、自分で管理している。

 十年以上、わたしの何を見てきたの。

「……わたしはお姉ちゃんじゃないよ」

 お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん。

 もう、うんざりだよ。

 中学受験で志望校に受からなかったからって、お姉ちゃんのようにいかなかったからって、わたし自身を見ない理由にはならないでしょ。

「宿題が間に合わなかったことなんてない。わたしはわたしのタイミングで終わらせるから、心配しなくても大丈夫。わたしはわたしだから」

 早口で、一呼吸で言い切った。

 気づいたら、息切れしていた。

 初めて、母に言い返した。

 言われっぱなしだったのは、わたしが何を言っても無駄だと思ってたから。

 更に強い言葉で反論されるのが、怖かったから。

 でも、返ってきたのは、

「……あら、そう」

 だけだった。

 ……呆気ない。

 こんなものか。

 自分の部屋に入って、スクールバッグを床に置いた。身軽になった体で、ベッドに寝転がる。

「わたしはわたし、か……」

 自分の中にずっとあったモヤモヤが、遂に形になった。

 同時に、ジグソーパズルのピースとピースが気持ちよくハマるような音が、頭の中で鳴った気がした。

「わたしが朝陽くんにやったことも、同じじゃない……?」

 母がわたしをわたしとして見なかったこと、わたしが、朝陽くんに魔法をかけて別人格を作り上げてしまったこと──結局、わたしは朝陽くん自身を見ていなかった。

 朝陽くんがサッカーを好きじゃないなんて知らなかった。

 朝陽くんが人に合わせていて辛いなんて知らなかった。

 わたしが持っていないものを持っていて、生まれつきキラキラしていると思っていた朝陽くん──そんな彼に憧れて、好きになった。

 だから、レンくんに頼んで、魔法を使って、朝陽くんにもわたしのことを好きになってもらった。

 無理矢理、わたしの思い通りにしようとして、朝陽くん自身を捻じ曲げた。

「……わたし、何してんだ?」

 わたしがわたしであるように、朝陽くんは、朝陽くんじゃないか。

 朝陽くんに告白されて、返事が出てこないのは、彼を知らないからじゃないか。

 じゃあ、付き合ってから、知っていこうと思う?

 ……朝陽くんと付き合ったら、レンくんが天界に帰ってしまう。

「わたしは朝陽くんと付き合いたいのか、レンくんにいなくなってほしくないのか、どっちなんだ……」

 どっちかしか選べない。

 別れ際の、レンくんの寂しげな目が脳裏をよぎる。

 ──「ボクなんか、最初からいらなかったんだよ」

 そんなことない。

 だって、レンくんがいたから、莉央と友達になれた。

 相手の事情を知ろうとする姿勢も大事だと知った。

 わたしにとって、レンくんは絶対必要な人。

 でも、レンくんは天界に帰らなきゃいけない。

「どうすればいいの……」

 部屋の電気が、やたら眩しかった。

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