第100話 いつの日か あなたと





 ぼくは、暗渠あんきょの流水口に引き込まれそうになる瞬間の出来事を、出来るだけ正確に愛花に語った。

 その端正な横顔をぼくに向けたまま、愛花は黙って聞いていた。

 話し終えた後も、愛花は潮風吹く海に目を向けたままだった。


「おれの幻覚なのか、二人のファントムなのか、おれ自身まだ分からないんだ。彩香とヒロシ君はおれたちのことを祝福し、いい思い出として笑顔で振り返ってくれたらいいと、そう言っていたけど、そもそも、それもおれが作り出した、自分に都合のいい妄想なのかもしれない。そう思えて来るんだ」

 ぼくがそう言うと、

「それは違うよ、大輔さん」

 愛花はぼくを振り返った。

「間違いなくいたのよ。大輔さんの傍に、彩香さんとヒロシが」


 そう言って、愛花はロープで縛られた左手首の画像を、ぼくに向けた。

「大輔さんは知っていた? 須浜結び」

「いいや」

「それじゃ誰かがこれを結んだのかしら?」

「そんなの分からないよ。第一、あんな状況でこんなこと出来るヤツなんていない」

「いるよ、ここに」

 と愛花は再びスマホをぼくに向けた。

「ロープを結んだのはヒロシよ。そしてこれは、ヒロシがわたしに宛てたメッセージだと確信しているわ」

 愛花はその瞳に涙を潤ませていた。

「わたしはね、ヒロシはわたしと美宙の未来をあなたに託したと思っている。――― ううん、思っているじゃない。この画像と大輔さんの話を聞いて、今はもう確信しているわ。大輔さんが見たのは夢でもまぼろしでもない。本物の彩香さんとヒロシなの。二人は確かにそこにいた。あなたの命を救うために、姿をあらわしたのよ。わたしはそう信じている」


 その時、海風が少しばかり強く吹き、愛花の黒髪を乱した。

 愛花はそれ構わず言葉を続けた。

「大輔さんが好き。今は誰よりもあなたのことが一番好きよ」

 マジマジとぼくを見つめる愛花の視線に耐えられなかったぼくは、視線を斜め下に逸らせてしまった。

「そんなわたしの思いを、ヒロシは後押ししてくれているわ。信じるとか信じないとかじゃなく、事実として受け止めているわ」

 愛花は迷いなくそう断言した。

 でもぼくは視線を愛花にもどす事が出来なかった。 


 ぼくはまだ迷っている。

 愛花への思いに対してではない。

 天地天明に誓って、愛花を愛している思いに偽りはなかった。

(だけど……)

 彩香は本当におれと愛花のことを後押ししてくれているのだろうか。

 愛花への思いを、彩香に認められたいと思う気持ちが、ぼくにとって都合のいい幻覚を見せたのではないのか……。

 ヘタレなぼくはその考えから抜け出せないでいた。


「大輔さん」

 と優しく穏やかな口調で愛花が呼んだ。

 ぼくはその声色に、食いつくよう愛花を見た。

 愛花は微笑んでいた。ぼくを包み込むような柔らかな物腰だった。

「今日が、初めてですね。わたしを好きだと言ってくれたの」

「ああ」

「わたし嬉しかった。大輔さんにそう言ってもらえて幸せでしたよ。だからね、わたしは急がない。いつかきっと―――」

 愛花は照りつける夏の日差しに目を向けた。

「あなたと恋人になって、時々でいいから、彩香さんやヒロシの思い出話が出来るようになりたい ――― その日が来るまで待っているわ。いつまでも」

 それだけ言うと、愛花はベンチから立ち上がり、天に向かって大きく伸びをした。


「戻りましょうか。リハビリ初日だし、無理しない方がいいわ」

「そうだな」

 愛花が差し出した手を借り、ぼくもベンチから立ちあがった。




 胸のコルセットを外し、リハビリをするようになってから、ぼくの体調は日ごとに回復していった。

 矢本さんは、ぼくが意識を取り戻してからは、病院には来なくなっていた。メールのやり取りの中で、休日出勤の連続でとても忙しいようだ。

 多くは語らないが、ぼくが抜けた穴を矢本さんが埋めているようだ。


(早く戻らないと……)

 退院すれば豊岡に戻らないといけない。

 体調の回復は退院の間近を示していた。

(でも……)

 矢本さんには申しわけないと思う反面、愛花の匂いのするこの街から離れる日が来ると思うと、胸が苦しくなるくらい寂しかった。


 ぼくの退院が近いせいだろうか。

 最近は特に見舞いが多かった。


 橘が峰山さんと一緒にやって来た。

「春木君は、わたしが訪ねたあの日に女の子を助けて激流に飲み込まれたのよね。なんか、わたしが行かなければ春木君はこんな目に遭わなかったかも知れないと思うと、何だか申しわけなくって―――」

 橘は涙声になった。

「なに言ってるんだよ。それは関係ないよ。朱里ちゃん ――― 女の子の命が助かったんだよ。おれも怪我だけですんだし、誰も辛い涙を流さずにすんだんだ。悪くない結果だと思うよ」

「そう言ってもらえると、気が楽になるわ。ありがとうね」

 肩を震わせる橘の肩を、峰山さんがそっと抱えた。

 二人がいい関係を築けているみたいで、ぼくは安心した。



 いい関係を築けているのは橘たちだけではなかった。

 近江誠也と榊原亜理紗アリサが見舞いに来た。

「二ヶ月近く入院しているから、おれの席はもうなくなっているかもしれないな」

 とぼくが冗談ぽく言うと、近江は真顔になった。

「なに言ってるんだ。おまえは県庁のヒーローなんだよ」

「ヒーロー? なにそれ?」

 何の冗談だろうと軽く笑ったが、アリサも真面目な顔で言った。

「本当です。新聞にも載っていたんですよ。『一人の少女を命がけで助けたヒーローは県職員』って三面記事に掲載されて、県庁の電話が鳴りっぱなしになっていたこともあったんですよ」

「マジかよ」

「そんな春木さんを首にでもしたら、暴動が起こりますよ」

 最後は笑いながらそう言った。

「アハハハ。それは頼もしいな。まあ、冗談はさて置き……アリサちゃん達はどうなんだい?」

「おれたちかい?」

 近江は意味深な笑みを浮かべるアリサの腕を取った。

「こういうことだ。おまえも、そろそろ自分の気持ちに素直になれよ」

 近江の言葉にアリサも頷いて見せた。



 大谷と前田は、東京に勤務する者同士、同じ日に申し合わせてやって来た。

 先に口を開いたのは前田だった。

「おまえ、関西では一時いっときヒーローになっていたんだぞ。命を賭けて女の子を助けた県職員ってことで」

「らしいな」

「らしいなって、関東の方でも、チラっと、ほんの少しだけど、話題になっていたんだぞ」

 と大谷が言った。

「そんなこと言われても、おれ、二週間意識がなかったんだよ。目覚めた時には、すでに過去の出来事になっていたみたいで、その話を知ったのも、つい最近見舞みまいに来た同僚からなんだ」

「ま、でも、回復してよかったな。本当に」

 前田がそう締めくくったタイミングで愛花が病室に入って来た。


「こんにちは。お見舞いにいらしていただきありがとうございます」

 と愛花がお辞儀をすると、大谷と前田は驚いた顔をした後、お辞儀を返した。

「おまえの彼女か? めちゃくちゃ美人じゃないか」

 と大谷が言った時、

「あっ、思い出した!」

 と前田が大きな声を上げ、慌ててトーンを下げた。

「梶山の結婚式の時、春木と一緒にブーケトスを受け取った彼女だよな」

「はい。その通りです」

 と愛花は微笑んで答えた。

「そうか。おまえ、前を歩きだしたんだな。よかった」

 前田が安心したように言うと大谷も頷いた。


 

 界人と琴美は頻繁ひんぱんに来てくれた。

 真一郎が一緒の時もあり、そんな時は愛花か桃子さんが美宙を連れて来ていた。

 院内で騒ぐと迷惑になるので、その日は、桃子さんが二人を外に連れ出してくれた。


「なんかあったの?」

 琴美はぼくと愛花をチラチラ見ながらニヤッとした。

「今までとなんか違う。うまく言えないんだけど、二人の間の空気とでも言えばいいのかな? 親しくなったオーラが出ているよ。もしかして、やっちゃった?」

 その瞬間、界人が琴美の頭に軽くチョップを当てた。

「こら琴美。ストレートすぎ。デリカシーないぞ」

「アハハハ。ごめんなさい」

 と舌を出した。

 だけど悪い気持ちにはならなかった。人徳と言うヤツだろうか。琴美が言う事は、すべてジョークにしか聞こえなかった。

 ぼくと愛花は目を合わせると小さく笑った。



 他にも、ぼくの両親はもとより、アンビシャスの教え子や講師陣、彩香の友達だった井畑と荒木、同僚たちが日替わりで来てくれたが、すべてを取り上げたら、一冊の小説が出来上がるので、割愛カットとしよう。


 明日あした退院すると決まったその日、ほぼ毎日来てくれていた立花夫婦が来なかった。代わりにメッセージをくれた。


 ――― 退院したら、少しの時間でいいから、愛花ちゃんも一緒に家に来てくれませんか? 二人に見せたいものがあります ―――


「わたしは明日一日フリーよ。行きましょう。きっと大切な何かがあるのよ」

 そう言って見つめる愛花に、ぼくも頷いた。

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