第99話 とめられない気持ち






 七月に入って間もなく、胸のコルセットと頸椎けいついカラーを外す時が来た。


「もうだいじょうぶですよ。問題ありません」

 とすべての検査結果に目を通した篠森先生が笑顔でそう言った。

「ただ、しばらく寝たきりだったので、特に下半身の筋力の低下がみられる思います。それを後遺症が残ったと誤解されないようにしてくださいね。しばらくのリハビリが必要となりますので、もうしばらく入院された方がいいですね。とにかく、無理はしないでください。それと、豊岡の方の病院に転院されたいのであれば手続きを行いますが―――」

「いえ、県立病院でお願いいたします」

 ぼくより先に愛花が間髪かんぱつ入れず答えていた。


 診察が終わりると、ぼくは海が見たいと思った。

「外に出てもいいですか?」

 とぼくは如月きさらぎさんに聞いた。

 如月さんはあまりいい顔をしなかったが、愛花が付き添うと聞いて、渋々だが承諾した。

「いいですか? 無理はいけませんよ。身体機能回復ためにも運動は必要ですが、あくまでもリハビリのつもりで、激しい動きはNGですよ」

 と念を押され、松葉杖まつばづえを渡された。



 久しぶりに感じる外の空気だった。

 松葉杖を使って歩行するぼくに、愛花が寄り添っていた。

 愛花の教育実習は昨日で終了していたので、その日は朝からぼくに付きっ切りになってくれた。

 梅雨はまだ明けていなかったが、今日は梅雨の合間の晴天だった。

(日差しがきついな。だけど……)

 海から吹く夏の風が心地よかった。

 隣りにいる愛花が大きく息を吸い込んで吐いた。

「海の生物の腐敗臭、なんて言わないでね」

 と言って笑った。


「小説はいいのか?」

「問題ないわ。順調よく進んでいて、七月中には書き終えるわ」

「本当かい? 個人レッスンと教員実習があるのに ――― 一体、いつから書き始めたんだ?」

 愛花はキッと軽くぼくを睨んだ。

「誰かさんがわたしを置いてきぼりにした日からよ」

「そんな言い方する? まいったなぁ。まだ怒っているのか?」

「ウソですよ。怒ってなんかいません」

 と愛花は笑った。

「キスしたこと……許してくれるのか?」

「許すもなにも、この前、仕返ししたからスッキリしましたし、わたしは最初から怒ってないですよ」

「丁寧語の愛花はなんか怖いなぁ」

 そう言って笑ったものの、寝たきりだったせいか、二・三百メートルしか歩いていないのに、ものすごく疲れたと感じた。


「大輔さん、座ろうよ」

 ぼくの疲労を察してくれたようだ。愛花は突堤にあるベンチにぼくをいざなった。

 ぼくが座ると、愛花は肩が触れるくらいすぐ傍に腰を下ろした。

 海風が愛花の方から吹いていた。

 愛花の匂いがした。

 彩香が好きだった白桃のような甘い香りだった。


 ぼくは海を見据えた。

 この場所は彩香と最後に口づけを交わした悲しくも思い出深い場所だった。

 中学生の時に出会い、恋人になった彩香との思い出が、次々と浮かんで、やがて消えた。

 あんなに愛していたはずなのに、今ぼくの心にいるのは、ベンチをともにする隣りの女性だった。


「おれ ――― 愛花が好きだ」

 思いがけず出た言葉だった。

 愛花が驚いた顔でぼくの横顔に目を向けていた。

 潮風が愛花の香りを運んで来る。

 ぼくの胸の中は愛花で一杯になっていた。

 狂おしいくらい愛花が愛しかった。


 愛花は何も言わなかった。

 台詞を忘れたヒーローのように、ぼくは言葉を捜していた。

 そして愛花は、ぼくの台詞を待つヒロインのように、静寂を保っていた。


「はぁ……」

 台詞の代わりに深い溜息がもれた。

「おれ……彩香のこと…どうしたらいいんだろう」

 愛花の手がぼくの肩にそっと触れた。何も喋らなかった。

「おれはもう……彩香のことを……あの頃のように、いとしい気持ちで思い出すことが出来なくなっているんだよ……。おれは薄情者だ」

 愛花が寄りかかり、頬をぼくの肩に押し付けた。

「愛花のことを好きになればなるほど、おれを愛したまま死んでいった彩香に……申し訳なくって……どうしようもない気持ちになってしまうんだよ。どうしたらいいんだろ……この気持ち」

 

 愛花は何も言わず、優しくぼくを抱きしめてくれた。


「支部に赴任して、愛花と離れて暮らすようになってから、おれはおまえのことばかり考えていてた。以前なら、彩香を思っていた時間までも、今では、愛花を思う気持ちでいっぱいになってしまった……。もう、この気持ちは止められない……。愛しているんだ……誰よりも、愛花を」

「嬉しい」

 言いながら愛花は頬を密着させ、ぼくの耳元でささやいた。

「わたしも大輔さんが好き。ずっとあなたを愛しているわ。今までも、これからも」

「愛花はいいのか? ヒロシ君への思いは……」

「わたしはね」

 と愛花はスマホを取り出し、ぼくに画面を向けた。


 ――― まなかを ―――


 ヒロシのダイイングメッセージだった。

 ぼくに送られたメッセージではない。

 送信側のLINEメッセージだ。

 つまり、海中から拾い上げられたヒロシのスマホに残っていたデーターに違いなかった。


「このメッセージを大輔さんに送ったヒロシの思い……わたしは分かっているつもりよ。大輔さんたちはわたしが妊娠したかもしれないから、その時は頼みます、と解釈した様だけど、ヒロシはね、もっと先のことを見ていたと思うの」

「先のこと?」

「ええ。大輔さんとわたしの未来よ」

 そう言うと愛花は、何かを探すように、スマホをタップした。

「そしてね、この画像を見た時、わたしの想像は確信へと変わったわ」

 愛花はスマホのモニターをぼくに向けた。


「こ、これは……?」

 それはロープで縛られた左手の画像だった。

 おそらくぼくの左手首だ。

 ぼく自身は、自分の両手にロープがくくられているところを見たわけではない。

 しかし、愛花がわざわざぼくに見せようとする以上、濁流から助け出されたあの時の画像なのは間違いないかった。


「大輔さんを最初に川から引き揚げたのは、矢本さんだったそうです」

「ああ」

 矢本さん自身は口にしないが、支部の人とのメッセージの中で、それとなく知らされていた。


「これは矢本さんからもらった画像です」

 ぼくの意識が戻らない間、矢本さんは何度も足を運んだ来てくれていたようだ。その間に愛花とも接触があったのだろう。

 背景から見て、この画像はぼくを川から引き揚げた直後に撮られたもののようだ。


 矢本さんはこう言っていたそうだ。


『おれは流されて行く春木をずっと目で追いながら走っていた。道路下の暗渠あんきょの流水口に到達した時、もうダメだと思いながらも、一時も目は切らなかった。だから不思議なんだよ。春木は、道路の欄干らんかんから垂れ下がったロープを掴む仕草なんてみせなかったし、まして、自らの両手にロープを結び付けるなんて動作は、一切していなかったんだ』


 本来なら流水孔に吸い込まれているはずのぼくの体は、流水口の少し上の道路の側壁に、ヤモリの様にへばりついていたらしい。

 矢本さんは、道路の欄干にたどり着いた時に、初めて、ぼくの両手にロープが巻き付いている事を知り、レスキュー隊が来る前に、ロープをたぐり寄せながら、ぼくを引き上げてくれたと話していたようだ。


「矢本さんはとても興奮していたわ。いつ、どこで、どのようにして、自分の手にロープを結び付けたのか ――― 目の前の光景が、とても信じられなかったと話してくれたわ。この奇跡には絶対に何かの意味がある。だから大輔さんには知って欲しい。そういう思いで矢本さんはこの画像を残したそうよ」

 愛花はもう一度その画像をぼくに見せた。

「これ、何という結び方なのか大輔さんは知ってる?」

「いいや」

「これはね、須浜結びという結び方なの」

「須浜…結び……。それってもしかして」

「そうなの。須浜高校野球で受け継がれている結び方で、誰よりもヒロシが一番上手だったのよ」


 ぼくは左手に目を落とした。

 幻覚の中でぼくの左手首を握っていたのはヒロシだった。


「ねえ、この時、何があったの? 覚えていることがあるなら、話して欲しい」

 海風が少し強く吹いたが、愛花はまばたきもせずぼくを見つめていた。


 あれは幻覚 (?) なんだ。

 誰にも話すつもりはなかった。

 もちろん愛花にもだ。

 だけど、この時ぼくは、愛花には話さなくちゃいけないと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る