あなたが傍にいるから

第98話 ロープの謎と愛花の仕返し





(あれは一体何だったんだろう)

 ぼくには誰も話せていない事があった。

 話せていないあれとは、彩香とヒロシに会った事だ。


(まぼろしなんだろうか)

 それとも、亡霊……。

 どちらにしても、現実味のないそれは、他人に話せるものではなかった。

(それでも……)

 たとえぼくが勝手に作り出した妄想だとしても、ヒロシが絡んでいる以上、愛花には話した方が良いのかどうかという迷いもあった。


(だけど……)

 ぼくにはあの出来事が、単なる幻覚や妄想とは思えなかった。

 だからこそ、愛花に話していいのか、迷っていたのだ。


 頸椎けいついカラーで固定されているので、ぼくの首の動きには制限がある。

 それでも、点滴注射の妨げにならない程度に、少し腕を持ち上げれば、二週間経過した今でも、両手首にはきつく縛ったロープの痕を見る事が出来た。 

 ロープの痕 ――― 暗渠に吸い込まれる直前、彩香とヒロシに握られた両手首に、それが残っていた。



「どうやって自らの手首にロープを縛ったんですか?」

 意識を取り戻した翌日、診察に訪れた篠森先生がぼくに尋ねた。

「春木さんが最初に運ばれた豊岡の病院でも話題になっていたんですよ。濁流にもまれる中で、欄干らんかんの下に偶然れ下がっていたロープをつかみ取れたのでさえ奇跡なんですよ。ましてや、胸椎きょうつい骨折のダメージを受けた状態で、自分の手首にロープを結び付けるなんて芸当、どうやったら出来るのかなって、みな首を傾げていましたよ。本当のところ、どうやったんですか?」

 ぼくは苦笑するしかなかった。

「それが、ロープを結ぶどころか、ぼくにはロープを手にした記憶すらないんです」

 嘘偽うそいつわりない事実だった。


 篠森先生の話だと、あの現場では、道路の欄干らんかんくくりりつける形で、工事現場用のロープが暗渠あんきょの流水口に垂れ下がっていたようだ。

 それをぼくがつかんで、みずから自分の手首に縛り付けた ――― 色々と符合しない事だらけのまま、救助された現場では、そう結論付けられているようだった。


「不思議な事はいくつもあるんだけど、その中で、ちょっと気になる点があるんですよ」

「どんなことですか?」

「右と左とでは根本的に結び方が違っていたらしいんです」


 ぼくが県立病院に運ばれた時には、すでにロープは外されていたから、篠森先生はそれを見ていない。けど、搬送元の病院からは事細かく情報をもらっていた。


「左手首を縛っていた結び目は、見た目もキレイな結び目で、ヒモの先端を軽く引っ張るだけでロープがほどけたのに対して、右手首のロープは、がむしゃらに団子結びを幾重にも重ねた、結び方の知らない者の縛り方で、刃物をもちいて切るしかなかったと、そのような報告を受けています」

「右と左とでは結び方が違う ――― つまり別々べつべつの人間による結び方だった ――― そうおっしゃりたいんですね」

「いゃあ、あくまで客観的な視点による解釈ですよ。春木さんは記憶にないかもしれませんが、緊急時において、時として人間には火事場の馬鹿力的な能力を発揮することがあります。たぶん春木さんもそのような能力を出されたんだと思いますが……それでも謎は残りますね……」

 と篠森先生は言葉を濁した。


(あれは、きっと……)

 ぼくは、あの時見た彩香とヒロシは幻覚でも妄想でもないと思った。

 それがどういった現象なのか ――― オカルト的な物なのか、奇跡と呼ぶべき物なのか、ぼくには判断ない。

 でもそこに、彩香とヒロシがいて、ぼくを励ましてくれた事は間違いないなかった。

 生きたい、という強い気持ちを奮い起こした結果、ぼくは無意識の中でロープをつかみ、手首にくくりつけたのかもしれない。

 だが、それを結論にするには余りにも謎が多すぎた。

 とは言え、証拠となるものがない以上、納得できなくとも、結論に従わざるを得ないというのが現状だった。今のところは……。




 毎日、多くの人がぼくを見舞いに来てくれていた。

 界人と琴美は三日と開けずに来てくれる。

「無理しないでくれよ」

 と言うのだが、

「信一郎が美宙ちゃんに会いたがるんだよ」

 と笑っていた。


 平日は本部の上司や同僚が見舞いに来てくれたが、土・日曜日になると、豊岡支部の人たちも遠方からやって来てくれた。

 部長に課長。矢本さんに限っては、ぼくが意識を取り戻す前から、週末になると毎回てくれていたらしい。

 それに加えて、橘と峰山さん。そして立花夫婦までも、界人たちと同じ頻度て来てくれるから、ぼくの病室は常に誰かいた。

 

 そして、ぼくが意識を取り戻してから迎えた初めての土曜日。

 波多野さんが朱里あかりちゃんを連れてやって来た。

 その時は愛花と美宙が来ていた。

 波多野さんはぼくを見るなり、腰を90°に曲げて頭を下げた。

「朱里の命を救ってくれて、本当にありがとうございました」

 そこには、いつもの気さくな物言いの波多野さんはいなかった。

「波多野さん、やめてくださいよ」

「いいえ、助かったから良かったものの、あの状況は、春木君が命を落としても不思議じゃなかった。そこまでして朱里の命を助けていただいたことに、わたしはどのような恩義で報いればいいのか分からないのよ。あの時わたしが取り乱したばかりに、春木君を危険な目に遭わせてしまった……本当にごめんなさい……それから、朱里を助けてくれてありがとうございます」

「ありがとうございます」

 と波多野さんの隣りに立つ朱里ちゃんもぺこりと頭を下げた。


「波多野さん―――」

 とぼくが何か言おうとすると、美宙が朱里ちゃんの前に立ち、その頭を撫ぜた。朱里ちゃんの方が一つ年上だが、背丈は美宙の方が大きいから、年下と思ったのかもしれない。

「だいじょうぶよ。ダイスケさんは元気になるから。だれもわるくないよ。わたしミソラと言うの。お友だちになりましょうね」

 そう言って爽やかに笑って見せた。


「ミソラちゃん? この子がそうなのね」

 と波多野さんが反応した。でもぼくは波多野さんに美宙の話をした事はなかった。

「うん。わたしがミソラよ」

 美宙は波多野さんにも笑顔を振りまいた。

「そう。可愛い娘ね」

 言いながら波多野さんは膝を曲げ、美宙の目線の高さに合わせ、美宙の頭を撫ぜた。

 そして愛花に視線を向けると、

「春木君はよく朱里の面倒を見てくれていてね、そんな時たまに朱里の事をミソラって言い間違まちがえるのよね」

 そう言って再び美空に視線を戻した。

「この子のことだったのね。春木君がこっちに残して来た、心にとめているものは……」

 ともう一度と視線を愛花に向けた。

「それに、あなたも、ね」

 波多野さんがそう言うと、愛花は言葉では返さず、笑顔でお辞儀じぎをした。


 その時、桃子さんが病室に入って来た。

「あら、可愛いお客様ね」

 桃子さんは美宙と朱里ちゃんの頭に手を置いた後、波多野さんと目を合わせると、互いに会釈を交わした。

「はじめまして、波多野恵子です」

 と波多野さんの挨拶に、

「園宮桃子です」

 桃子さんが挨拶すると、波多野さんは愛花に目を向けた。


「お二人は、よく似ていますね。お姉さんですか?」

「まあ―――!」

 桃子さんは、我が意を得たり、とばかりに満面の笑みを見せた。

「愛花の母なんです」

「ええ―――!」

 期待を裏切らない波多野さんのリアクションに、ベッドの上でぼくは笑い、愛花はあきれ顔を桃子さんに向けた。



 波多野さんが帰った後、ビストロ ペッシュに戻る桃子さんが、アンビに預けるため美宙も一緒に連れて行った。

 県立病院に入院して三週間が経ち、ここにきて、ぼくと愛花は初めて二人きりになってしまった。

 愛花はぼくの身の回りの世話をしてくれているが、目線を合わせようとはしなかったし、ぼくも頸椎けいついカラー装着で、首を動かせないのを言い訳にして、常に天井の蛍光灯に目線を置くようにしていた。


 今更かもしれない。

 これまでも、時間があれば愛花はぼくの傍にいてくれたのに、こうして二人だけのになってしまうと、妙に緊張してしまうのだ。

 第三者がいる時は、その人の話題に乗っかって、愛花とは自然な会話を成立させていたのだが、話題の提供者は、今どこにもいない。


(どうしよう。何を話せばいいのだろう……)

 そんなことを考えていると、ふと目の前に影が出来た。

 愛花の顔が真上にあった。

 ジッとぼくを見下ろしている。

「愛花……?」

 ぼくが声を出したその時、愛花の顔が近づき、唇を重ねて来た。

(えっ?)

 長くはなかった。

 唇を離した愛花は、驚いたぼくの顔を見て悪戯いたずらっぽく笑った。

「この前の仕返しよ」

 それだけ言うと、愛花は逃げるように部屋を出て行った。


 甘く柔らかい感触の残る自分の唇に、指をわせた。

 そして、愛花が飛び出して行った扉に目を向けた。

(愛花……そういうのはお返しって言うんだぞ)

 心の中でそうつぶやいたぼくは、妙に満たされた気分だった。

 つい先ほどまで、胸につかえていた物が、嘘のように消え失せていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る