第97話 愛花との再会





 ベッドの上にいた。

 目覚めた時、ぼんやりした意識の中で、自分の置かれている状況が、すぐには理解出来なかった。

 間もなく、

「お目覚めですか?」

 白衣を着た女の人がぼくの顔を覗き込んで来た。

 看護師さんだった。やはり病院にいるようだ。

 壁掛け時計に目をやると、午後七時を少し回っていた。

 窓の外の暗がりに目を向けていると、唐突に、暗渠あんきょに飲み込まれるシーンが、フラッシュバックした。


(そうだ。おれは死にかけていたんだ)


 その瞬間を思い出し、ボーっとしていると、

「わたしの声、聞こえていますか?」

 と看護師さんが聞いた。

「あ……は、はい。………!」

 自分でも驚くほど、しゃがれた声が出た。

「は、話せるんですね……!」

 看護師さんは何故か上ずった声を上げた。

「お名前、分かりますか?」

 ぼくは頷こうとしたが首を動かなかった。

 首には頚椎けいついカラーがはめられていた。

「はい。……ハルキ…ダイスケ…です」

 

 左腕に点滴注射がほどこされ、胸部のコルセットに気付いた時、ぼくは重傷を負った事を自覚した。

(助かったのか……)

 そう思った次の瞬間、ぼくはある事を思い出しハッとした。


「あの……朱里あかりちゃん…いえ、ぼくが助けようとしていた女の子は、今どうしていますか?」

「えっ?」

 とその看護師さんは首を傾げて見せた。

「ごめんなさい。わたしは春木さんが怪我をした状況について、あまり詳しい話は聞いてないんです」

「そうですか…」

 とあきらめかけた時、

「朱里ちゃんって言うのは、春木さんが助けた女の子の名前ですね」

 と首が動かせないぼくの死角となる足下あしもとから、別の女の人の声がした。

 ゆっくりとぼくに近づいて来たその看護師さんは、如月陽菜きさらぎひなさんだった。


「えっ? なんで如月さんがここに?」

「この春から総合外科に移動したんです」

「いや、そう言うことじゃなくて、どうして豊岡に来ているんですか?」

「豊岡? ここは豊岡じゃないですよ」

 如月さんはクスッと笑った。

「えっ? じゃあ、ここは、もしかして…」

「そうよ。県立病院ですよ。春木さんの怪我は、あちらの病院では手が追えず、ドクターヘリでこちらに搬送されて来たんですよ」

「そうだったんですか。それより―――」

「ええ。あなたが助けた女の子のことも聞いています。念のために一日だけ入院したみたいだけど、どこも異常はなく、翌日退院したと報告を受けています」

「そうなんだぁ ――― よかったぁ……」


 濁流に流される朱里ちゃんを見て、泣き叫んでいた波多野さんを思い出した。

 波多野さんが、それ以上のつらい涙を流さずにすんだ事を、心から良かったと思った。


「今日は何日ですか?」

 あれから二・三日は経っているだろうと思った。

 ところが……。

「今日は六月十日よ」

 なんと二週間も経っているではないか。


 言葉も出ないぼくを見て、如月さんは苦笑した。

「時々目を開けていたんですけど、記憶の混濁こんだくが見られたのでしょうね。わたしたちの言葉や、手振りや身振りにも、一切反応しなくて、ちょっと心配していたんですよ」

「そうだったんですね。全然覚えていない……」

「でも、記憶が戻ってよかったわ」

「正直なところ、ぼくは重篤じゅうとくなんでしょうか?」

「だった ――― と言うべきですね。今はもう安定していますよ。CTやMRIで確認しましたが、脳へのダメージは見られませんでしたし、頸椎けいついにも障害はありません。頚椎けいついカラーを付けているのは胸椎きょうついへの負担を軽減させるためです」

「つまり胸椎にダメージがあるということですか?」

「ええ。胸椎の五番・六番が骨折していました。搬送されたその日に緊急手術をほどこしました」

「後遺症が残る可能性は?」

「100%ないとは言い切れませんが、手術は成功しましたから、おそらく大丈夫だと、担当医の篠森先生はおっしゃっていました。若いけど、とても優秀な方ですよ。ご存じなんでしょ、篠森先生のこと」

「篠森先生? 初めて聞きますが」


 ぼくがそう言うと、如月さんは何かを納得したように頷いて見せた。

「ああ、ごめんなさい。わたしが勝手に思い込んでいたわ。粟飯原先生の婚約者の方なんで、てっきり春木さんとは面識もあるかと思っていました」


(そういえば―――)

 粟飯原さんの相手の方は同じ病院に勤める外科医と聞いていた。

「篠森先生と言うんですね。いい方なんでしょうね」

「ええ。研究熱心で患者さんを思いやる優しい方ですよ」

「そうですか……。粟飯原さん、いい方とめぐり合えたんだぁ。よかった」

「春木さんは、ほんとひとがいいですね。――― いいですか? あなたを心配して毎日通っている人がいるんですよ。その人のことも考えてあげなくちゃ」

「……はい」

 如月さんが名前を告げなかった。

 しかしそれが誰であるか、問う必要もなかった。


「間もなく来ますよ」

 と如月さんは壁掛け時計を見ながらそう言った。

「彼女は今、教員免許を所得するための教育実習中なんです」

「そう……なんですね」


 その数分後、病室の扉が開いた。

 視線を向けると、そこに目を大きく開いた愛花の顔があった。

 小走りにぼくの傍に来ると、

「大輔さん……」

 ささやくようにぼくの名前を呼ぶと、愛花は喉を詰まらせた。

「意識が戻ったのね……。よかった……よかった……」

 ぼくの体に抱きつこうとした。

 が、ぼくの体を気遣って、点滴注射を施していない右手を握り締めるにとどめた。

 ぼくも泣きそうになった。

 久しぶりに見る愛花はとてもきれいだと思った。

 抱きしめたいと思ったが、二人の看護師さんがいるのと、胸部のコルセットと首の頚椎けいついカラーで上体が固定されていたので、それは叶わなかった。


 その後すぐ、篠森先生が来て、ぼくの体の状態を説明してくれた。

 胸椎きょうついに寄り添う神経系統などにダメージを受けない骨折だったので、安静にして接合するのを待てば、後遺症の心配はないとの事だった。

 一ヶ月後に胸部のコルセットが取れるようだ。

「頸椎・胸椎・腰椎などの骨折は、神経系統にまで影響を与えて、一般的には重篤な後遺症が残るものなんです。それに圧迫骨折や粉砕骨折などが加われば、神経系統を傷つけて、予後不良となる可能性が高くなるんです。春木さんの場合は ――― こういう言い方は適切じゃないかもしれませんが、理想的な骨折だったので、却って施術しやすかったんですよ」


 そこへ粟飯原さんが駆け付けて来た。

「春木君。意識が戻ったのね」

 よかったわ、と安堵してように言った。

「ぼくの方こそホッとしたよ」

 と篠森先生が苦笑した。

「春木さんを助けなかったら、婚約破棄、みたいなこと真奈美ちゃんに言われて、すごいプレッシャーだったんだよね」


「わたしそんな風に言ってないですよ。粟飯原記念病院の院長になるんだから、これくらいの怪我なら問題ないでしょって言っただけですよ」

「それって、失敗したら、そういうこともありうるって暗に言ってるようなもんだよ。真奈美ちゃんはサラリとそういうこと言うから怖いよ」

 そう言って笑う篠美里先生を見ていたら、なんだか、峰山さんを見ているようだった。

 粟飯原さんがこの人を選んだ理由が分かった気がした。



 その後、アンビシャスの教え子たちや、界人と信一郎を連れた琴美が駆け付けたが、面会時間ギリギリになって、桃子さんと美宙がやってきた。

「ダイスケさん。だいじょうぶで良かった……パパみたいに死んじゃったら、どうしようかと思った……」

 美宙はぼくの右肩に顔を埋めて嗚咽した。

(パパ?)

 たぶんヒロシ君のことだろうと思い、愛花を見ると、彼女は頷いた。


「大輔さんがいない間に、ヒロシのこと、美宙にちゃんと話したの」

 ぼくがいなくなってからごねるようになった美宙に、父親がいない理由を正直に話したようだ。

「それから美宙は、ヒロシのことをパパと呼ぶようになったの」

「お父さんじゃなくて?」

 愛花は小さく頷いた。

「お父さんの席は、空けているみたいよ」

「………」

 ぼくは愛花から視線を外し、いつの間にかぼくの傍で泣き寝入りした美宙の頭を、そっと撫ぜた。

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