第96話 わたしが愛した人





 道路下の側壁そくへきが見えた。

 濁流が、側壁の下部にある暗渠あんきょに通じる流水口へと流れ込んでいた。


(あそこに入ったらもう終わりだ……!)

 川幅はそんなにない。

 十数メートル横に移動できれば、岸にたどり着ける。

 水を飲み溺れながらも、岸に向かおうともがいてみたが、物凄い水の勢いと水圧に揉みくちゃにされ、背中の激痛にあらがう事も出来ず、ぼくの体は成す術もないまま、暗渠あんきょと言う奈落の底に引きずり込まれようとしていた。


(どうやら……最期のようだ。――― 彩香……これでおれも…)

 彩香の所に行けると思うと少しだけ恐怖がゆるんだ。

 とは言え、

(溺死か……苦しいだろうな)

 せめて楽に死にたいと思った。

 

 濁流が吸い込まれる流入口りゅうにゅうぐちがすぐそこにあった。

 濁流を飲み込む暗渠あんきょの入口が、暗い口を開けて待っていた。

 終わりだ……。

 そう思った瞬間、泣いている愛花の顔が脳裏をよぎった。

(愛花……)

 そんな顔見たくない。

(泣くなよ、ばか)

 続いて美宙みそらの顔が目の前にちらついた。

 美空みそらも顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

(美宙…美宙…)

 

「ちくしょう……!」

(おれが死んだら、愛花と美宙を泣かせてしまう……!)

 あきらめてたまるかと、歯を食いしばって気力を取り戻すも、暗渠あんきょの流入口の側壁のブロックに体を叩きつけられ、激痛が背中に走った瞬間すべての気力が消え失せた。


(愛花…美宙…ゴメン…おれ、もうダメだ)

 力尽きたぼくは、もがくのを止めた。

 濁流とともに暗渠あんきょの流水口に足元から吸い込まれようとしていた。

 その時だった―――。


 ――― あきらめないで ―――


 誰かに右手をつかまれ、女の声が耳元をかすめた。

 聞き覚えのある声に、遠のこうとしていた意識が呼び起こされた。

 聞き間違えるはずなど絶対ない。

 彩香の声だった。

 

 声がした道路橋の欄干らんかんを見上げると、そこに彩香の姿があった。

 彩香は道路の欄干らんかんから身を乗り出し、ぼくの右手首を握りしめていた。

 ぼくは息を飲んだ。

(彩香! これは、夢……幻なのか…)


 彩香の体は、欄干から身を乗り出しているというよりも、宙に浮いている感じだった。

 元気な頃の姿で彩香が中空ちゅうくうからぼくを見下ろしていた。


 ――― 大ちゃん、あきらめちゃダメよ。生きて、愛花ちゃんのところに帰んなきゃいけないわ ―――


 懐かしい彩香の笑顔がそこにあった。

「彩香……逢いたかった……おまえに逢いたかった……ずっと逢いたかったよ」

 ぼくは置かれている現状を忘れて彩香を見つめた。

「おれを連れて行ってくれるんだろ? いいとも。おれもお前のところに行きたい。連れて行ってくれ」

 彩香のところに行けるのであれば、ここで人生を終わらせてもいいと思った。何もかも捨てて彩香のところに……。


 ――― ダメよ ―――


 ぼくの考えが分かるのか彩香は怒った顔でぼくを見つめた。


 ――― 大ちゃん、生きてちょうだい。あなたにはわたしの分まで天寿を全うして欲しいの。それに、あなたには待っている人が……大切な人がいるはずよ ―――


 ――― そうですよ。春木さん ―――


 と、今度は左手を誰かに掴まれた。

 目線をそちらに向けると、そこにヒロシがいた。

 ヒロシも彩香と同じように欄干らんかんから身を乗り出し、ぼくの左手首を掴んでいた。

 

 ――― 愛花を頼みますって、メッセージを送りましたよね。おれが春木さんに託した想い、忘れないで下さいよ ―――


 爽やかな笑みを浮かべるヒロシが、彩香の隣りに並ぶよう中空にいた。

(おれは夢を見ているのだろうか。それとも死に際に見せられた幻覚なのだろうか)

 そう思った。

 でもぼくは、間違いなく彩香とヒロシに両手を掴まれていた。

 そうでなければ、濁流の流れに逆らって、流水口でとどまっていられるはずなどないんだ。

(彩香……ヒロシ君……)

 幽霊でも、幻覚でも、なんだっていい。

 ずっと逢いたかったこの二人に会えたのだ。

 切羽詰まった状態なのに、ぼくは泣きそうな気持で二人を見上げた。


 その時、ヒロシが悲しそうに笑った。


 ――― 春木さん、愛花がおれを振り返る時、アイツはいつも泣いています。今のおれは、愛花を悲しませることしか出来ないんです。それがとても辛い。だから春木さん、愛花のことをよろしくお願いします。愛花を笑顔に出来る相手は、春木さんしかいないんです。おれはもう、愛花の涙を見たくない。おれのことを笑顔で振り返って欲しいんです ―――


 ヒロシは笑顔を作りながら、泣いていた。


 ――― 愛花を一人にしないでやってください。春木さんが近くにいなくなってから愛花はいつも寂しそうにしているんですよ。お願いします、傍にいてやってください。それに美宙のこともお願いします。 ―――


「ヒロシ君……」


 ――― 大ちゃん ―――


 彩香が優しくも悲しい目でぼくを見降ろしていた。


 ――― あなたも愛花ちゃんと同じように、わたしを思い出す時、いつも泣いているわ。涙は見せなくても、心の中はグチャグチャに泣いている。そんな大ちゃんを見るのはわたしも辛いわ ―――


「彩香……」


 ――― 覚えているかしら? わたしが最後に大ちゃんと話した、心の片隅の小さな部屋のこと ―――


「もちろん、覚えているとも」


 ――― わたしはあなたの心の小部屋の中で、あなたと愛花ちゃんが手を取り合い、笑っている姿をずっと見ていたいのよ。そして、わたしとヒロシ君のことを、いい思い出として語り合い、笑顔でわたしたちを振り返る。それがわたしとヒロシ君の願いよ ―――


 ――― そうですよ、春木さん。それに、春木さんの心には、もう愛花への思いがあるでしょ? 自分の気持ちに素直になってください。おれと彩香さんはあなたと愛花の幸せを心から望んでいるんですから ―――


「ヒロシ君。キミはいいのかい? おれが愛花をさらっていっても」


 ――― ええ ―――


 ヒロシはいつもの屈託のない笑顔を見せた。


 ――― おれは愛花に笑っていて欲しいんです。それに美宙の成長も見ていたい。お願いするのはおれの方ですよ。どうか、愛花と美宙を幸せにしてやってください。 ―――


 ――― 大ちゃん。わたしもあなたと愛花ちゃんのこれからを見届けたいわ。それが今のわたしの願いよ。叶えてくれるかしら? ―――


「彩香……。おれ…なんて言っていいのか…分かんないよ」


 ――― 何も言わなくていいよ。大ちゃんのことは誰よりも知っているつもりだから。今まで、ずっと愛してくれてありがとうね。大ちゃん、愛花ちゃんと幸せになってね。 ―――


 ――― 春木さん、愛花にもよろしく言っといてくださいね。おれのことはいい思い出にしてくれたらいい、てね。 ―――


 はっきり見えていた彩香とヒロシの姿が、空気中に溶けるように、薄れていった。


「ま、待ってくれ……。もっと、いっぱい話したい」


 ――― 春木さん。お元気で。 ―――


 ――― 大ちゃん、たくさん愛をくれて、今までありがとうね。……さようなら、わたしが愛した大輔さん。 ―――


「待ってくれ! 行かないでくれ!」

 大声で叫ぶも、彩香とヒロシは、雨にかき消されるように姿を消した。

「行かないでくれよ。……ヒロシ君……彩香ぁ……」


 遠くで救急車のサイレンが聞こえた。

 ぼくは、道路橋下の側壁にへばりついたまま、意識を失ってしまった……。

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