第95話 濁流の中へ





 平日の昼下がりの特急列車は閑散としていた。

 激しい雨のせいで、辺りは日暮れ時の様な薄暗さだった。

「たいしたお構いも出来ずに悪かったな」

 ぼくがそう言うと、列車の入口扉にもたれかかる橘は首を横に振った。

「わたしが勝手に押し掛けて来たのよ。電話で済ませられる話かもしれないけど、直接春木君と会って話がしたかったから」

「ありがとう。会いに来てくれて」


 その時、発車のベルが鳴った。


「おれなりにいろいと考えて行こうと思ってるよ」

「わたしには語らなくていいわよ。春木君が語るべき相手にちゃんと伝えてあげてね」

「そう…だな」


 電車の扉がゆっくり動いた。


「それじゃ、またね」

「ああ。峰山さんにもよろしく言っといてくれ」

「わかったわ」


 扉が完全に閉じると特急列車は動き出した。

 手を振る橘の姿が左に流れた。


 橘は何も言わなかった。

 愛花への気持ちを問い詰めたり、彩香を思い出に変えろとか、そしてぼくがこの地に逃げて来たことに対しても、一切苦言くげんていして来なかった。

 現状をぼくに伝え、それに対してぼくが考え行動するのを促すにとどめていた。

(橘らしいな)

 プラットホームを離れる特急列車は、豪雨と化した大量の雨粒にかき消され、すぐに見えなくなった。

(やばいな、これ)

 そう思いながら駅の改札を出ると、大雨の中でハザードランプを付けた県庁の公用車が路肩に寄せて止まっていた。

 ぼくが駆け寄ると助手席のドアが開いた。

 土砂降りの雨の中、急いでシートに着いたが、全身はずぶ濡れに近い状態だった。


「言いたいことはあるだろうけど、ともかく濡れた体をふけ」

 矢本さんは先手を打ってそう言い、厚手のタオルをぼくの頭に掛けてくれた。

「はい」

 ぼくは何も言うつもりはなかった。

 矢本さんと峰山さんが繋がった事で、立花や愛花、界人たちにまでネットワークが広がり、ぼくの知らない所で情報共有していたようだった。

 豊岡に来てからの界人とのメッセージが、あまりにもスムーズ過ぎて逆に怪しかったのだが、今は、そう言うことかと、至極納得していた。


 それはともかく物凄い雨だった。

 ヘッドライトを付けていないと車の存在に気が付かない程だった。

「線状降水帯がこの上で停滞しているんだ」

 と矢本さんはあごをしゃくって見せた。

「但馬一帯に洪水警報が出ているから、洪水浸水想定区域を視察してから戻るぞ」

 そう言うと矢本さんは車を走らせた。



 いくつかの洪水浸水想定区域を視察して回った。

 河川などの水かさは上がっていたが、危険水位には至っていなかった。

「あとはおまえの住んでいる寮の付近だけだ」

 と矢本さんはハンドルを切りながらそう言った。

「本部では考えられないだろう?」

「何がですか?」

「おまえ本部でも総務部じゃなかったか? 氾濫の見回りなんて土木部かまちづくり部の担当だっただろう?」

「確かにそうでしたね」

「ここでも一応、部や課はあるけど、有事の際には、総務課も経理課も人事課も関係なく、全員で事態に当たるんだよ。いいか悪いかは別として、本部のような縦割れ社会じゃないんだよ、ここは」

「そうですね。でもぼくはそう言うの嫌いじゃないですよ」

「だよな」

 と矢本さんは笑った。

「おまえはそう言うと思ったよ」



 雨は少しましになっていたが、まだまだ本降りと言えるだろう。

 職員寮の近くを通りかかった時、川の土手近くに人が集まっているのが気になり、矢本さんは車を停めた。

「何かあったのかな?」

 土手を駆け上がると、そこにいつもの風景はなかった。

 普段は、靴底の高いスニーカーなら水が入って来ないくらいの浅い小川なのに、今、目の前にあるのは、濁流となったあばがわだった。


「お願い行かせて!」

 見ると、波多野さんが二人の男の人に両肩を掴まれていた。

「待て待て。あんなところに飛び込んだらあんたは助からんだろうが」


朱里あかり! お願い、誰か朱里を助けて!」

 そう叫ぶ波多野さんの視線の先に、中州に取り残された朱里ちゃんがいた。

 中洲のと言っても大きな一枚岩だ。岩の高さはぼくより少し高い。二メートルくらいだろうか。

 その岩が水没しているのだ。大人の身長を超えていた。


「レスキュー隊が来るから待つんだ」

 男の人は止めようとするが、波多野さんは束縛から逃れようと懸命になっていた。

「お願い! 行かせて! あの子がわたしの生きがいなの! あの子が死んだらわたしは生きて行けない! お願い放して!」


 濁流はすでに朱里ちゃんの足元に及び、時々膝上ひざうえまで波打ち、そのたびに朱里ちゃんは体勢を崩しそうになっていた。

「おかあさん! おかあさん!」

 娘の悲痛な叫び声に、波多野さんは更に取り乱した。

「朱里! 早く助けなきゃ! 水に飲み込まれてしまう! 放せ! 今行かないと! 放せ!」


 波多野さんの言う通りだった。

 水が跳ね上がるたびに、朱里ちゃんは体勢を崩し、いつ濁流にのみ込まれてもおかしくない状況だった。

 レスキュー隊を待っていると言うが、果たして、濁流にのみ込まれる前に到着出来るのだろうか。

(こんなの待っていたら間違いなく流されてしまう)

 この濁流の中を泳ぎ切れる自信のある者はいないだろう。

 だからこそ二次災害を出さないためにも、波多野さんを拘束しているのだ。

 だけど……。

 目の前で幼い命に危機が迫っているというのに、このまま見捨てていいのか。


「朱里! 朱里!」

「おかあさん! たすけて!」


 悲痛な声を上げる二人の姿は美宙と愛花の姿に重なって見えた。

 でもぼくは運動音痴だ。水泳の評価なんて下の下だ。

 怖いと思う。

 ぼくには何も出来ないとも思った。

 それでもだ ――― 愛花と美宙のような母と娘が、目の前で、死ぬかもしけない状況に追い込まれているのだ。

 迷っている暇はない。

 ぼくは傍に停めてあった車から、中にあった救命胴衣とロープをつかむと、すぐ現場へもどった。


「春木、何をするつもりだ」

「ぼくが行きます。ロープをお願いします!」

 そう言いながら救命胴衣にロープを引っかけた。

 だが、自然の驚異はその猶予ゆうよすら与えてくれなかった。

 準備もままならないのに、濁流が不規則な高波を形成して、朱里ちゃんに覆いかぶさった。

「おかあさん―――!」

 朱里ちゃんが流された。


「朱里ィィィ!」

 波多野さんの悲鳴がぼくの耳元に響いた時、ぼくは装着できなかった救命胴衣を掴み、躊躇ちゅうちょする前に濁流へ飛び込んでいた。

「春木ィ! おまえ―――」

 背後で矢本さんの声がしたが、濁流の中にその声はかき消されていた。

(冷たい!)

 五月下旬だと言うのに川の水はこおりのようだった。

 後悔しなかったと言えば嘘になる。

 それでも、愛花と美宙のように、事故で父親を亡くした朱里ちゃんの事を助けたいと言う思いも、いつわりではなかった。

 泳げなくとも救命胴衣があるから沈む事はなかった。

 それでも水をかぶり、鼻腔が詰まって苦しかった。

 

 少し先で流されている朱里ちゃんは、苦しそうな顔をしながらも、必死になってもがいていた。

(追い付きそうだ)

 朱里ちゃんが流された中洲よりも、ぼくが飛び込んだ瀬の方が水の流れが早かった。

 濁流に浮き沈みしながらも朱里ちゃんはぼくを見て手を伸ばした。

(よし、だいじょうぶだ)

 ぼくは朱里ちゃんの手を掴む事が出来、そのまま引き寄せた。

 朱里ちゃんは安心したのか、ぼくの腕の中で急に泣き出した。

 だがまだ安心は出来なかった。

 このまま流されたら、その先にあるのは暗渠あんきょへの流水口だ。

 この状態だと暗渠あんきょの中は完全に浸水しているだろう。

 そんな中に引き込まれたら一溜まりもない。

 暗渠あんきょの流水口まで百メートルもなかったはずだ。

 うかうかしてはいられなかった。

 ぼくは流されながらも、救命胴衣を朱里ちゃんに装着し、ぼくが朱里ちゃんにしがみ付く形となった。


「春木! だいじょうぶだ! 今ロープをキープしたぞ! すぐに引き上げるから、がんばれ!」

 岸を見ると、膝辺りまで水に浸かった矢本さんが、握り締めたロープを高々と上げて見せた。

 どうやら、救命胴衣にくくりつけたロープを追いかけ、ここでようやくキープしたようだ。


(よかったぁ…)

 と安心した瞬間だった。

 濁流の中に混じった流木が、ぼくたちの方に突っ込んで来た。

「危ない!」

 ぼくは咄嗟とっさに朱里ちゃんをかばった。

 次の瞬間、背中に重い衝撃を受け、同時に激痛が走った。

 流木を真面まともに喰らってしまったようだ。

 ぼくは朱里ちゃんを掴んでいた手を放してしまった。


「春木ィィィ!」

 矢本さんの叫び声を朦朧もうろうとした意識の中で聞いていた。

 流されているのは分かった。

 だが逆らえない。

 背中に受けた痛みで思うように体を動かせなくなっていた。

 水を飲んだ。

 鼻からも水が入って来る。

(苦しい……)

 ぼくは……死ぬのか……。

 濁流の中で、何度も浮き沈みを繰り返しながら、道路の欄干らんかんが間近に見えた。

 その下にあるのが暗渠あんきょの流水口だ。

 水が滝のように流れ込む、暗渠の流水口がすぐそこ見えた。

 まるでそれは、地獄への入口のようだった。

(飲み込まれたら…終わりだ)

 しかし、背中を走る激痛に体の自由を奪われ、、ぼくはなすすべうしなっていた。

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