第94話 大好きだった人だから





 駅前の食堂に入り、ぼくと橘が注文をし終えたタイミングで、土砂どしゃ降りの雨が降って来た。


「向こうでは晴天だったのに、こちらは荒天ね」

「数日前から、降ったりやんだり ――― 支部の人たちの話だと、例年この時期の気象は安定しているらしいんだけどね」

「異常気象ってこと?」

「十年に一度くらいの割合で、こんな天候が続くことがあるんだって。それも異常気象と呼べるのかな?」

「分からないわ。だってわたし、大学受験で地学は専攻しなかったもの」

 橘の言葉に、先程の矢本さんの話を思い出し、ぼくは思わず笑ってしまった。

「えっ? なに? わたし何か可笑しいこと言った?」

「いや、違う。ゴメン」

 と言ってからぼくは矢本さんが話していたセンター試験の科学の選択科目のくだりを話した。


「なるほどね」

 と橘はぼくが笑った意味を理解してくれた。

「でも、それってアルアルの話よね。知らなかった言い訳として、センター試験の受験科目ではなかった ――― つまり受験勉強して来なかったから、知らないで当たり前、て感じでね」

「確かにそうだな。無意識のうちに、おれは理系だから文系は苦手だと言い訳しているもんな」

 そう言ってぼくが笑うと、橘は微笑んだ。

「なんか懐かしいね。県庁職員時代のランチタイムを思い出したわ」

「そうだったね。あの頃は橘がいたから、おれはボッチ飯にならずにすんだよ」

「今はひとりなの?」

「そうだな。まあ、一人の時が多いかな。少し前は、時々だけど、近江とランチする時もあったけど」

「近江君と?」

 意外だと言わんばかりに橘は目を丸くした。


「でも、今はアリサちゃんが近江の隣りにいるから、ほとんどボッチ飯だな」

「アリサちゃん ――― ああ、ヒロシ君のお姉さんね。……そういうことなのね」

 説明の必要はなかった。どちらも同じ事故で弟を亡くした者同士なのだから。

「つまり、榊原さんに近江君を取られちゃった、て感じなのね。ウフフフ」

「気持ち悪い言い方はよしてくれよ」

「ごめんなさい。ウフフフ」

 そう言って笑った後、橘は真面目な顔をした。

 本題に入るようだ。


「矢本さんが昂輝こうきさんと大学の同期なのは知っているよね」

 ぼくは頷いた。

 昂輝とは峰山さんの名前だ。

 橘と峰山さんの関係が上手く行ってると思うと安心した。


「春木君がこちらの支部に赴任して間もなく、矢本さんから数年ぶりのメッセージが来たそうよ。話の内容は察しがつくでしょ?」

「ああ……おれのことだな」

 橘は頷いた。

「心ここにあらず、と言うのが春木君に対する矢本さんの第一印象だったそうよ。何か理由があるんだろうと気になって、本部での実績とかを調べたけど、とても優秀な人材で、支部に赴任させられる要素も見当たらなかったし、むしろ、春木君が転勤に手を上げたことに本部の方が困惑していたことも分かって、それで昂輝さんなら何か知っているかと思い、連絡してきたとのことよ」

「そうか……」

(あの人は世話焼きなところがあるからな)

 と思いながらも、ぼくは橘の顔を真っ直ぐには見られないで、少しうつむき加減でいた。


「昂輝さんもね、春木君の急な転勤は気になっていたのよ。県庁本部にも昂輝さんの同期の人がいて、春木君自身の希望によるものだと確認したわ。それで園宮さんにも何か心当たりはないかと聞いたの」

 そう言って橘は真っ直ぐにぼくを見つめた。

 その眼差しを見て、ぼくは確信した。


(橘はぼくが愛花にキスしたことを知っている)

 愛花が積極的に話したとは思えない。

 しかし、話の流れの中で、それは避けて通れない部分だった。やむを得ず話した事だろう。

 こうなったら、相手に追及されるより、自分から喋った方が楽だと思った。

「橘はもう知っているんだろ? おれが愛花にキスしたこと」

「ええ」

「おれは、愛花の同意なしに、アイツの唇を奪った……。おれは愛花の信頼を裏切ったんだ。あいつ……おれのこと怒っていただろ?」

「本当にそう思う?」

「だってさあ、愛花はおれを信じていたのに、それに愛花はずっとヒロシ君のことを思っていて、おれだって彩香を忘れちゃいれないのに……それなのにおれは―――」

「ねえ、春木君。いつまでそれを引きずっているの」

 珍しく橘が強い口調でぼくの言葉をさえぎった。

「今の春木君を見て、立花彩香さんは満足してくれると思う?」

「………」

「それとも、春木君はいい加減な気持ちで園宮さんにキスしたの?」

「そんなことはない。おれは愛花を……」

 そこまで言ってぼくは口ごもった。

 橘の眼差しが少し柔らかくなった。

 しばらくの間があった。


「わたし、春木君のことが本当に好きだったわ」

 微笑みながらそう言った。

「あなたのヘタレな性格も、ハッキリしない態度も、すべてが好きだったわ」

「なんだよそれ。一つも良いところないじゃないか」

「ウフフフ。ほんとね」

 と橘は笑った。

「でもね、わたしはあなたを本気で好きだったこと、後悔してないわよ。片思いで終わったけど、あなたに本気になれたから、今のわたしがあると思うの。――― ヘタレなのは相手を気遣ってを通せないから。ハッキリしない態度も、自分だけが正義なんて思い上がらないからなのよ。春木君は常に、相手の立場に立って考え過ぎる人だから、ハッキリした態度がとれずに、ヘタレてしまうのよ。そんなあなただから好きだったのよ」

 だから、と橘は話しを続けた。

「わたしが今日、春木君に会いに来たのは、あなたを審問するためじゃないのよ。ましてや、園宮さんをどう思っているかなんて問い詰めるつもりもない。それは園宮さんと二人だけで話ばいいことよ。わたしが今日ここに来たのは、園宮さんが前を向いて歩こうとしている時に、春木君だけが立ち止まったままなのはどうかと思ったの。それにね、美宙みそらちゃんも頑張っているのよ」

「美宙は元気にしているかい?」

「正直に言うけど、春木君と会えなくなってからの美宙ちゃん大変だったのよ。幼子おさなごながらストレスを感じていたのかもしれないわ。穏やかで聞き分けの良い美宙ちゃんが、時々だだ々をこねるようになっていて、今までなかった夜泣きとかもするみたいなのよ。園宮さんは子育てについて琴美さんに相談していたらしいわ」

 どうやら橘は、琴美からその事を聞いたようだ。


「お待たせしました」

 と話か重くなりかけた時、店員がいいタイミングで注文の品を持って来てくれた。

 出石いずし蕎麦そば御前だ。

「これが春木君のおすすめの出石いずしそばね。美味しそう。いただきます」

 橘は美味しそうに音を立てて蕎麦をすすっていたが、ぼくは箸を置いたままだった。

 そんなぼくを見て橘も箸を置いた。


「彩香さんの命日に、美宙ちゃんに会ったんでしょ?」

「ああ」

「春木君と約束したって、美宙ちゃんが言っていたわ。いい子にしていたら大輔さんが帰って来るから、美宙はいい子にするって、今は頑張っているのよ。夜泣きは時々あるけど、素直で聞き分けの良い美宙ちゃんに戻っているらしいわ」

「それって、無理してるんだろうな」

「そうね。そうかもしれないけど、美宙ちゃんなりに、前を歩こうとしているのよ」

 と橘はぼくを意味有気に見た。

「わたしは春木君にどうしろなんてことは言わない。ただね、春木君の大切なものが彩香さんだけなのか、しっかりと考えて欲しい。――― わたしは春木君に幸せになって欲しいの。大好きだった人が下を向いている姿なんて見たくない。大切なものを失ってからの後悔なんて、して欲しくないのよ。だから、今あるものをちゃんと見て、どうすべきか考えて欲しい」

 それだけ言うと橘は再び蕎麦をすすり始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る