第93話 五月雨(さみだれ)の来訪者





 ゴールデンウィークが明けると但馬地方は雨が続いた。

 そして今日は、昨日までとは違って本降りの雨だった。

 普段なら、建物の窓から見えるはずの少し先の景色が、かすんで見えた。


「但馬って結構雨が降るんだな」

 誰に言うでなく一人つぶやくと、

「本州の年間平均降水量が1500mmに対して豊岡から城崎にかけての降水量は2500mmなんですよ」

 と深見玲奈れいながぼくの隣りに立った。

「但馬の降水量は冬に多く、この時期は他の地域よりも少なめなんですけど、今年は例年になく雨が多いですね」


「今年はヤバい年かもしれんな」

 少し離れた所で窓の外を覗いていた矢本さんが言った。

「ヤバいってどういうことですか?」

 とぼくは聞いた。

「数年に一度 ――― いや、十年に一度くらいの割合で、この地方では、川の氾濫があるんだよ。ちょうどおれが赴任した年もこんな大雨が続いてさ。一部で床下浸水の被害があったんだ。何も起こらないことを祈るよ」

 矢本さんはそう言いながら、苦虫をかんだような顔で、窓の外を睨んでいた。



 翌日は曇天だった。

 天気が回復するわけではない。

 いつ泣き出しても不思議ではないそんな曇り空だった。

 スマホのウェザーニュースアプリでは、午後から雨が降ると予測されていた。

「春木、ちょっとついて来い」

 早朝から矢本さんに外へ連れ出された。


 車に乗せられ連れて行かれたのは、ぼくが住む職員寮に近いところだった。

 県道の路肩に車を停めると、矢本さんが車を下りたので、ぼくもそれに続いた。

「この県道を見てどう思う?」

 と矢本さんは片道一車線の県道を指差して言ったが、ぼくには彼の意図するものが分からなかった。


 県道に添って、住宅やら商店・食堂が立ち並び、この辺りでは少し人通りのある通りだが、取り上げて言うべき物は見当たらなかった。

 要するに、何処にでもある町の一角でしかなかった。


「あのぉ、どう思うとは、どういうことですか?」

「ああ、そうだな。それだけじゃ分かんないよな」

 と矢本さんは笑った。

 そして改めて県道を指差した。

「真っすぐじゃないだろ? この道」

 言われてみれば、県道は緩やかに右にカーブし、その先は再び左に曲がって伸びていた。


「ええ。ヘビのようにクネクネしてますね」

「気が付いたか? 実はこの下は暗渠あんきょになっているんだよ」

暗渠あんきょ?」

 初めて聞く言葉にぼくはオウム返しした。

暗渠あんきょを知らないのか? ――― 春木は、センター試験の科学の選択科目の二教科、何を選択した?」

「えっ?」

 突然の話題の方向転換に、たじろぎながらも、

「えっと、化学ばけがくと物理です」

 とぼくは答えた。

「なるほどね。数学とかが得意の理数系タイプだな。――― おれは文系肌で、生物と地学で受験したよ。ああ、話がそれたけど、暗渠あんきょと言うのは地学を選択したものなら知っている言葉なんだよ」

 言いながら矢本さんは、クネクネ曲がっている県道を指差した。

「この道の下に水が流れているんだよ」

「下水道ということですか?」

「いいや。下水ではないよ。平たく言えば地表からは見えない水路のことだよ。つまりここは、川の上を塞いで作った道路なんだよ」

「なるほど。これを暗渠あんきょと言うんですね。勉強になりました」

 

 ぼくは県道に目を落とした。

 説明されなければ知る事もなかった。

 しかし、暗渠あんきょの説明をするがために、わざわざこの場所に連れて来た訳ではないだろう。

 そう思って矢本さんを見ると、彼はしたり顔でほくそえんだ。

「さっき事務所で深見が言ったように、この辺りの降水量は冬季の方が多いんだけど ――― 冬は降雪量も含んだ降水量なんだよ。だから雨だけがザッと降るわけじゃないから、河川の氾濫には至らないんだけど、この時期の雨は、文字通りの降水量だ」

 言いながら矢本さんは目線を落とした。

「山からの流水が一気にこの暗渠あんきょに流れ込んだらどうなると思う?」

「それは……この暗渠あんきょの中が水で一杯になったら……その後から暗渠あんきょに流れ込む流水は、暗渠あんきょの流水口であふれてしまう……」

「その通りだ」

 と矢本さんは言った。

暗渠あんきょにすることで、道路なんかに有効利用できるけど、フタをしてしまうから、河川としての容量が減ってしまうんだよ。――― 危険水位を保ちながら何とか洪水を免れるところが、暗渠あんきょだと、流入してくる水を受け止められず、暗渠の流水口が渋滞して、一気に氾濫してしまうのさ。それから、おまえの住んでいる寮から少し下ったところには、暗渠あんきょの流入口があって、過去に氾濫したことがあるんだ。国土交通大臣による洪水予報指定河川の指定区域にも入っているから、集中豪雨時には警戒しろよ」

「わかりました」

「降水量が多い時は、河川の見回りも、おれたちの勤めだ。特に暗渠の流入口に土石や流木が詰まってないか確認し、撤去しておかないと、想定外の氾濫にみまわれるからな」


 矢本さんは時計をチラッと見た後、

「氾濫予想区域は他にもあるから、今日一日はその地域の視察だ」

 と車に乗って移動した。


 その後、数ヵ所、氾濫予想区域を視察したが、矢本さんは時々時間を気にしたように時計を見ていた。

 そして十二時を過ぎた頃、豊橋駅前で車を停めた。

 駅前で昼食を取るのかと、ハンドルを握る矢本さんを見たが、彼は下りる気配を見せなかった。

「おまえだけ降りろ」

 いきなりそう言われた。

「えっ?」

 何を言っているのか分からなかった。

 ぼくはもう一度矢本さんを見た。

 矢本さんは駅の方を指差した。

「あれじゃないのか?」

 矢本さんが指し示す方に目をやると、駅のコンビニの前に橘美幸の姿があった。


「えっ?」

(なぜ橘がここにいる?)

「これは、どういうことですか?」

「写真よりもずっと美人じゃないか。峰山のヤツがうらやましいなあ。どう思う? 春木」

 矢本さんの感想に付き合うつもりはなかった。

「なんで橘がここにいるんですか?」

「落ち着けよ、春木」

 矢本さんはぼくの肩をポンポンと叩いた。

「とにかく」

 と矢本さんは言った。

「早く行ってやれよ。三時頃に迎えのメッセージを送るから、じっくり話し合え」


 とにかくぼくは車から下りなければいけないようだ。

 ぼくが車を降りると、矢本さんは、ぼくと少し離れた場所にたたずむ橘に手を振ってから車を発進させた。


 橘がぼくの傍に寄った。

「久しぶりね」

「どういうことかな、これ」

「びっくりしちゃった?」

 橘はクスクスっと笑った。

「矢本さんとは知り会い?」

「ううん」

 と橘は首を横に振った。

「お会いしたのは今が初めてよ」

「ツッコミどころがあり過ぎて、何から聞いていいか分からないよ」

 ぼくがそう言うと、橘は可笑しそうに笑った。

「キツネに化かされたみたいな顔ね。――― お昼だし、どこかで昼食でも取りながらお話しましょ。すべて話してあげるから」

 と言った後で橘は少し顔を引き締めた。

「わたしもあなたに言いたいことがたくさんあるから」

 そう言う橘の表情には珍しく怒気が含んでいた。

(愛花絡みでおれに文句が言いたいんだろうな)

 それだけは理解できた。

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