第92話 愛しきもの





 後ろ髪を引かれる思いだった。

 特急列車に乗り込んだ後も胸のつかえが下りなかった。

 車窓越しに夕焼けの海を眺めながら、ぼくは今し方の出来事を振り返っていた。


「どこにも行かないで」

 泣きじゃくる美宙みそらの顔が忘れられなかった。

 突然ぼくがいなくなった事で、その小さな胸を痛めていたのかと思うと、心が痛んだ。

「ミソラいい子にするから……わがままいわないから……ずっとそばにいて……おねがいダイスケさん…」

「美宙……!」

 目頭が熱くなり、ぼくは美宙を抱き上げて頭を撫ぜた。


 桃子さんと目を合わせると、困ったような顔で、それでいて問い詰める眼差しでもあった。

 愛花はおそらくぼくとの間にあった事を桃子さんには告げていないと思う。

 しかし、突然の転勤と愛花の様子から、何かを感じ取った事だろう。

 ともあれ今は桃子さんの事はいい。


「美宙、聞いてくれるかい?」

 静かにそう言うと美宙は涙に濡れた瞳をぼくに向けて頷いた。

「おれは今ね、仕事の都合で遠い街にいるんだよ。いつまでいるかは分からないけど、時々だけど美宙にも会いに来るよ」

「それはいつ?」

「う~ん」

 突っ込まれると少し苦しい。

「いつとは決められないけど……そうだな、一つだけ約束するよ」

「やくそく? どんなこと?」

「いつかきっと、この街に戻ってくるよ。そしてお仕事がお休みの日は、ずっと美宙と遊ぼう」

「ほんとう?」

 泣いていた美宙が瞳に喜色をみなぎらせた。

「ああ。だからしばらくおれがいなくても、悲しまないで待っていてくれないか」

「わかったわ」

 美宙はそう言うと涙を拭い、人差指を差し出した。

「ダイスケさん、ゆびきりして」

「ああ。指切りしよう」

 指を差し出すと、美宙の小さな小指がぼくの小指に絡んで来た。


 指きりをした後、美宙の笑顔を見送るのが辛かった。

 その場しのぎの約束だった。

 確かに、任期満了していつかはこの街に帰ってくる。それは間違いではない。

 だからと言って、その先に美空が望むべき未来があるかと言えば、それは限りなく厳しかった。

 ぼくは苦しまぎれの嘘を吐いてしまったのだ。


 豊岡に着いて改札口を出る頃には二十一時を回っていた。

 とても疲れていた。

 肉体ではない。

 心が疲弊ひへいしていたのだ。


 今日は彩香の命日のための帰省だったはずだ。

 それなのに彩香との思い出を振り返るどころか、ぼくはずっと愛花の影を追っていた。

 立花家や市営墓地に寄ったのは、もちろん彩香とヒロシに手を合わせるためだったが、心の奥底では愛花の姿を捜していた。

 愛花が近くにいる時は、より多く彩香の事を考えていたはずなのに、豊岡に来て一ヶ月。ぼくは離れてしまった愛花の事で心が一杯になっていた。

 思い出したように彩香へ想いを寄せても、知らぬ間にぼくの思考は愛花へと引き戻されるのだ。

 皮肉なものだ。

 離れてしまった事で、より一層愛花を思う気持ちが強くなってしまったんだ。

 ぼくの心はもう誤魔化せなかった。

(おれは愛花を愛している!)

 否定する余地など何処にもない。

 ぼくの心の叫びだった。



 寮には真っ直ぐ戻った。

 門限の九時半ギリギリだった。

「ごめんなさい、遅くなりました」

「おかえりなさい」

 と波多野さんが一人で居間にいた。他の入居者はそれぞれの部屋にこもっているのだろう。

「ご飯は食べたの?」

「はい。電車の中で駅弁を食べました」

「そんなので大丈夫なの? 良かったら作るよ」

「お腹は空いてないんで、だいじょうぶですよ。お気遣いありがとうございます」

 本当は少し空腹感はあった。

 だがぼくは、波多野さんが毎朝六時に起きて朝食を準備しているのを知っている。

 自己都合で他人の睡眠時間を奪いたくはなかった。


 波多野さんはニコリとするとキッチンに入った。

「遠慮しなくていいのよ。わたしが朝早いの気にしてくれているんでしょ? それなら問題ないわ。忙しいのは朝と夕方だけ。日中は朱里あかりも幼稚園だから、昼間はわりとヒマなんで、毎日二時間は爆睡しているのよ。アハハハハ」

 そう言って笑った後、口に手を当てた。

「ゴメンゴメン。寝ている人がいるかもしれないのに、大声出しちゃいけないわね」

 そう言いながら、波多野さんは冷蔵庫を開け、ラップがかけられたサンドイッチを取り出し、テーブルの上に置いた。

「食パンがあったので、余っていたレタスと卵とハムを使って作っておいたのよ。夜食用にね」

 そして温かいコーヒーも用意してくれた。

 ぼくのために用意していてくれたのかもしれない。

「ありがとうございます」

 ぼくは遠慮なくいただく事にした。


「あっ。ママたちだけズルイ」

 と声のした方を向くと、パジャマ姿の朱里ちゃんがいた。

「朱里、明日は幼稚園よ。早く寝ないと」

「いやだ。朱里もサンドイッチ食べる」

 そう言うと朱里ちゃんは、ぼくの隣りのイスによじ登り、すわった。

「ハルキさん。このサンドイッチ、アカリも手伝ったの。おいしい?」

「ああ、おいしいよ。朱里ちゃんが作ったから美味しいんだね」

 ぼくがそう言うと朱里ちゃんは嬉しそうに笑った。


(この子の父親って、どうしたんだろう?)

 ふとそう思ったが、他人のプライバシーに介入するつもりはなかった。

 波多野さんたちと知り合ってまだ一ヶ月。ポータブルスペースに入れるほど親しくはなかったが、ご主人は二年前に交通事故で亡くしたという話を、寮の仲間から耳にしていた。

 環境が愛花と美宙に似ていると思った。


 ともあれ、こうしてこの二人といると、どうしても愛花と美宙を思い出してしまう。

 波多野さんはともかく、ぼくに懐いている朱里ちゃんの事は、どうしても美宙とかぶってしまうのだ。

 無邪気な笑顔を向けてくれる朱里ちゃんを見ていてぼくは思った。

(おれはきっと、美宙や愛花と家族になりたいんだ)

 波多野さんや朱里ちゃんには申し訳ないが、隣りにいるのが愛花や美宙でない事に、最近みょうに焦りを感じていた。


「あら、もうすぐ十時よ。朱里早く寝なきゃ」

 波多野さんはそう言って立ち上がると朱里ちゃんの手を引いた。

「食器はそのままにしておいてね。そんなに汚れていないから洗うのはあしたでいいから」

 それから、と波多野さんは言った。

「お風呂はなるべく早く入ってね。十時を回ると近所からクレームが来るのよね」

「はい。分かりました」

「あとは、上がったらお風呂の栓は抜いておいてね」

 それだけ告げると、波多野さんは朱里ちゃんを抱き上げて一階にある自室へと向かった。

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