第91話 ひと月ぶりの帰省
ぼくが定期的に連絡を取っている相手は界人だけだった。
界人を通して、愛花の近況を聞けないか、色々と探りを入れてみたが、ぼくの心の中を知ってか知らないのか、愛花や美宙が話題に上がる事はなかった。
(愛花の現在を知りたい)
そう思いながらも、ぼくの方からは核心に触れられず、どうでもいい世間話だけで終わってしまう。そんなヤキモキした音声通話を繰り返していた。
(おそらく愛花は、界人や琴美にも話していないんだ)
あの夜のいきなりのキスが頭を
(だけど……)
愛花の唇の感触とか、どんなキスをしたのか、あの瞬間の出来事について、ぼくの記憶は
高まる気持ちのまま、ただ衝動的に愛花の唇に吸いついたあれは、もしかしたら現実に起こった事ではなかったのかもしれない……。
そう思いたかった。
でもそれは現実逃避でしかなかった。
(なかったことにしたい)
願わくば、もう一度あの夜に戻りたいと、何百回・何千回
彩香にも愛花にもう合わせる顔がなかった。
それでも、四月二十九日の彩香の命日だけは手を合わせたいと思い、ぼくはその日の朝早く、特急電車で生まれ育った町を目指していた。
(美宙はおれのこと覚えているかな)
そんな事を思った。
それには理由がある。
ちょうどぼくが美宙と同じ二歳の頃に、当時居酒屋チェーンに努めていた父が、他県の応援のため、一ヶ月だけ家を離れていた時期があった。
最初の数日は父がいない事をごねていたぼくだったが、一週間もすると何も言わなくなったらしい。
一か月後に帰宅した父が、
「ダイスケ。お父さん帰ったぞ」
そう言ってぼくの傍に寄ろうとしたところ、なんとぼくは、母の後ろに隠れたというのだ。
つまり、ぼくは父の事をすっかり忘れていたようだ。
「
父は時々、酒が入った時なんかにそのネタを持ち出し、一人爆笑するのだが、そんな記憶がないぼくは黙って苦笑いするしかなかった。
立花家のインターフォンを押したのは、十二時を少し回した頃だった。
彩香の母・京子さんが出迎えてくれた。
「遠いのにわざわざ豊岡から来てくれたのね。ありがとうね、大輔さん」
「豊岡はそんなに遠方ではありませんよ。ご無沙汰しておりました」
ぼくはそう言うと、彩香の遺影に、駅の花屋で買った彩香が好きだった白い花を飾った。
「愛花ちゃんも十一時ぐらいまでいたんだけどね」
合掌が終わり仏壇を離れると、彩香の父・茂さんが仏間に入って来た。
「昼から家庭教師のバイトがあるといっていたよ」
「家庭教師ですか?」
愛花は進学校を目指す塾講師が担当だったはずだ。
「そう言えば、愛花ちゃんからは聞いてないのよね」
と京子さんが言った。
「赴任した地での仕事が忙しくてあまり連絡とっていないから、大輔さんには詳しい話はしていないと言っていたから」
「え…ええ」
そういう話になっているようだから、話を合わせて頷いた。
「愛花ちゃんも四月から四年生でしょ? 英語と国語で教員免許を取るための教員実習が、ゴールデンウィーク明けから始まるのよ。―――この春は学生を受け持つ講師から外れて、時間制の個人レッスンに専念すると言っていたわ」
「そうなんですね」
「それにね」
と京子さんは続けた。
「愛花ちゃんは今『君の未来』の後編の執筆に入っているのよ」
「………!」
「いつまでもヒロシ君のことを後ろ向きに捉えたくないから、けじめをつける意味でも書き上げたいって、張り切っていたわ」
「そうだよ」
と茂さんが言った。
「それは、大輔君にも言えることだよ」
「わたしもそう思うわ」
と京子さんも言った。
「あなたの彩香に対する思いは本物で、彩香の親として、とてもとてもありがたく受け止めているわ。でもね、わたしたちは今、彩香への想いに固執しているあなたのことが何よりも心配なの。彩香のことは忘れないでいて欲しいけど、それは思い出の中に収めて、これから先は別の女性との新たな人生を歩んで欲しいと、心から思うのよ」
二人の言葉に、ぼくはどう答えていいのか分からなかった。
下を向いてしまったぼくに気を使ったのか、
「お昼ご飯はまだでしょ? 良かったら一緒にどうかしら?」
と京子さんは急に明るい声でそう言ったが、ぼくは努めて明るく丁寧に辞退した。
もう一度彩香に手を合わせた後、立花家を後にした。
立花夫婦は玄関前まで見送りに出てくれた。
何か色々と話したい様子だったが、敢えて黙っている、そんな風だった。
何となくだが、ぼくと愛花の間にあった
ぼくはその後、両親の住む団地を訪ね、二時間ばかり過ごした後、市営墓地を訪ねた。
ヒロシ君と彩香のお墓に手を合わせた後、時間があったので、なんとなく国立大学の方に足を向けた。
そして住んでいたアパートを通りかかった時、タイミングよくぼくが住んでいた部屋のドアが開いた。
(どんな人が住んでいるんだろう)
少し気になって足を止めた。
部屋から出て来たのは、意外にも愛花の弟・隆二だった。
「あっ」
隆二がぼくに気付いた。
「春木先生、帰っていたんですか?」
と階段を下りて来た。
「今日は彩香の命日なんだよ。ゴールデンウィークは
「ええ。春木先生には申しわけないけど、タイムリーでしたよ。それに今ぼくは、アンビシャスでバイトしてるんですよ。姉ちゃんみたいに学費までは払えないけど、一人暮らしの費用くらいは自分で出さなきゃと思っています」
「へぇ~そうなんだね。それで、受け持ちは大学受験かい?」
「ムリムリ」
と隆二は苦笑した。
「ぼくはギリギリ国立大学に受かった身ですよ。大学受験は荷が重いので高校受験ですよ」
それじゃ失礼します、と隆二は時計をチラ見して、大学の方に駆け出した。誰かと待ち合わせをしているようだ。
(さてと)
明るいうちにぼくも帰ろうと、遠ざかる隆二に背中を向けて駅の方に向かった。
ちょうど来た電車に乗り、豊岡に向かう特急列車が止まる主要ターミナル駅で降りた。
予定の特急列車だと豊岡に着くのは二十一時を過ぎる。
(駅に着いてからだと夕ご飯は取れないな)
そう思い、お弁当を買うため、一度駅を出ることにした。
五時過ぎだが、まだまだ明るかった。
圧倒的に賑やかな街の中に放り出されて、ぼくは今、つくづく静かな所に住んでいるんだと実感した。
お弁当とお茶を買って構内に戻ろうとした時、
「春木さん」
と背後から声を掛けられ振り返ると桃子さんがいた。
その足元には美宙がいて、ぼくをじっと見ていた。
いつものように笑顔で飛び付いて来なかった。
(やっぱり、忘れているんだな)
そう思うとちょっぴり寂しかった。
「ご無沙汰しております」
と
「確か今日は、立花彩香さんの命日でしたね」
桃子さんは事情を察してくれた。
「はい」
と言ってぼくはスマホで時刻を確認した。
「電車の時間が近いので、後日改めて伺います。美宙も、元気でな」
手を振ったが、美宙の反応は鈍かった。
忘れているものは仕方ない。
いや、むしろ忘れ去られている方が気が楽だった。
そう思い背中を向けようとすると、美宙がトボトボとぼくの足元に近付いた。
そしてぼくの太腿にしがみ付くとしずしずと泣き出した。
「美宙……!」
「いかないで……そばにいて……ダイスケさん……」
(忘れていなかったんだ)
「美宙……!」
ぼくが膝を落とすと、美宙はぼくの首に手を回し抱き付いて来た。
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