第90話 気づく思い
職員寮は築五十年の二階建て木造建築だった。
二階に六部屋。一階に二部屋。
男性が二階、女性が一階で、風呂とトイレは共同で、部屋はすべて埋まっていた。
当初の話通り、家賃はいらなかった。
平日の朝食はついているが、夕食は出勤までに申請するシステムで、一食七百円という安値なので、夕食は寮で取るようにしていた。
寮には、波多野恵子さんという住み込みの寮母さんが一人いて、共同設備の保全管理は、彼女が一人でやっていた。
多分三十歳くらいだろう。失礼なので歳は聞いていないが、シングルマザーなのはなんとなく分かった。
幼い娘を持つシングルマザー………。
愛花と美宙を思い出さずにはいられなかった。
最初は遠慮気味だった娘の朱里だったが、三日も経つとぼくに甘えるようになっていた。
「春木君って、子供との接し方とか距離の取り方がとても上手ね。年の離れた兄弟とかいるの?」
ある時、波多野さんがそう言った。
見た目は、元ヤンといった感じで少し怖い印象だったけど、中身は気さくで親切な人だ。
「いいえ。ぼくは一人っ子ですよ。女友達に二歳の女の子がいて、その子がとても可愛くて、時間があれば会いに行っていたんですよ」
「遊んであげる ――― じゃなくて、会いに行くか……いい表現ね」
「どういうことですか?」
「遊んであげるというのは、大人からの目線でね、こういう人はだいたいが子供に慕われないものよ。自分では気が付いてないけど」
「そうなんですね。そういう風に考えたこと今までなかったですよ」
ぼくは傍に寄って来た朱里ちゃんの頭を撫ぜた。
「その子がいると、ぼく自身が癒されているんですよ。遊んでもらっているのは、むしろぼくの方かもしれませんね」
「なんか、寂しそうね」
「そう見えます?」
「訳アリって感じだね」
「………」
「話さなくていいよ。誰にだって触れられたくないことはあるんだから」
そう言って軽く笑うと、波多野さんはキッチンに入った。
シングルマザーになった彼女も、きっと、口には出せずに背負い込んでいる物があるのだろう。愛花のように……。
赴任してから初めての休日に界人に通話を入れた。
しかし、驚いた風ではなかった。
『どうだ。そっちはまだ寒いんじゃないのか?』
転勤の話もしていなかったのに、あまりにも会話がスムーズだった。
電話番号が変わった事すら指摘して来なかった。
全てを周知している、そんな感じがした。
(前田か大谷あたりから聞いたのか?)
あるいは……愛花からか。
誰から情報を仕入れたのか聞く勇気はなかった。
界人の会話は終始いつも通りのもので、違和感すら覚えさせなかった。
だが、その感じさせない違和感こそが違和感だった。
会話の途中で、何度も愛花の今を訪ねたいと思ったが、愛花の近況に触れる事は出来なかった。
界人との通話は不自然なくらい普通に終了した。
――― ダイスケさ~ん ―――
ぼくに飛びついてくる美宙の笑顔がチラついた。
(寂しがっていないだろうか)
いつもほくに甘え慕ってくれる美宙の事が気掛かりだった。
(泣いていないだろうか)
そう思うと胸が張り裂けそうだった。
(愛花はおれのこと……怒っているだろうな)
もっと強烈に恨んでいるかもしれない。
行動は衝動的だったかもしれないが、ぼくはいい加減な気持ちでキスしたのではなかった。
(愛花が好きだ)
いや、そんな軽いものじゃない。もっと強烈で胸の奥から突き上げて来るものに、ぼくは突き動かされてしまったのだ。
(愛花を愛している)
それが真実だった。
愛花を愛している気持ちに偽りはない。
でも、彩香を愛していた気持ちも偽りではなかった。
そして愛花は今も忘れられないでいるヒロシへの思い……。
シングルマザーの道を
(それなのに……)
ぼくは自分の想いに負けて、愛花にキスしてしまった。
愛花はぼくを信じていたはずだ。
ぼくの前ではいつも無防備だった。
なのにぼくは、そんな愛花の気持ちを踏みにじってしまったのだ。
許されるはずもなかった。
(美宙に逢いたい)
そして、
(愛花に逢いたい)
愛花に会えなくなって
(なんだよ……)
寂しいのは、ぼくの方じゃないか……。
ぼくは、寂しさを
遊びもせず、職員寮と支部を往復する毎日だった。
この街の夜は早く、駅前通りに居酒屋やスナックがいくつかあるだけで、眠らない都会の町とは違って、大人の遊びには乏しかった。
もっとも、大人の遊びに疎いぼくが気付かないだけで、裏路地に入り込めば、そういった店があるのかもしれないのだが……。
(あったとしても、遊ばないけどな)
良くも悪くも、ぼくはそう言った遊びとは無縁だったので、簡素なこの街の雰囲気は、嫌いではなかった。
何よりも波多野さんが作る料理は美味しかった。
(この量と質で七百円は安すぎる)
波多野さんが作る夕食は平均で一日四人分。寮の住人の半数は、外で割高な夕食を取っているわけだ。
二日に一度食べるものもいれば、一週間に一度のペースでしか頼まない者もいるが、夕食の予約を毎日入れる者はぼくしかいなかった。
朱里ちゃんがぼくに懐いている理由は、たぶん毎日夕食を共にしているからだろう。
いつの間にか、ぼくの隣りが朱里ちゃんの指定席になっていた。
朱里ちゃんは美宙よりも一つ年上だが、美宙に比べるとちょっとばかりあどけなかったし、美宙よりも少し小さく見えた。
でも年が近い朱里ちゃんの事をぼくは時々、
「美宙、おはよう」
急いでいる朝に顔を合わせたりすると、似ているわけでもないのに、ついそう呼んでしまう。
「ごめん、朱里ちゃん。間違えちゃったよ」
と言って朱里ちゃんの頭を撫ぜて
産まれた時から、ぼくはずっと美宙を傍で見ていた。
まるで父親のように、その成長が楽しみだったし、これからもずっと見ていたかった。
(しあわせな時間だったんだな)
愛花や美宙と過ごしていた何気ない時間が、とても大切なものだったと、今更のように痛感した。
そして、四月の下旬に入ると、ぼくの胸の中はいつもになくザワザワしていた。
今年も彩香の命日がやって来る。
気まずく別れた愛花と顔を合わせる事に、ぼくは怯えていた。
(どんな顔で会えばいいのかな……)
彩香の命日を迎える気持ちが去年までとはまったく違っていた。
そんな、彩香の命日が一週間後に迫ったある日、立花さんからLINEが入った。
――― 年忌法要から外れる今年の彩香の命日は、わたしたち夫婦二人だけで行いたく存じます。大輔さんのお気遣いには常々感謝しております。いつもありがとうございます。こちらに戻る予定がある時にお立ち寄り、お参り頂ければ、これ幸いと存じます。お体にお気をつけてお過ごしください。 ―――
年忌法要とは三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌……と三と七が付く年度に行われる法事である。
今年は彩香が亡くなって五年目だが、仏事的には五回忌とは言わず、法要を必要としない年度に当たるのだ。
複雑な思いが込み上げて来た。
(愛花に会わなくて済む……)
最初はホッとした。
だが、次に別の感情が沸き起こって来た。
(愛花に会えないのだ……)
新しく買い替えたスマホに目を落とした。
愛花のアドレスは入っていない。
愛花から電話がかかって来る事はないのだ。
そしてもう一つ肝心な事を忘れていた。
ぼくは愛花の電話番号を記憶していなかった。
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