離郷

第88話 別れ





 翌朝の目覚めは悪いものだった。

 起き上がり、ベランダ越しに朝の風景を眺めた。

 アパートの西側に見下ろす大家さんの平屋敷には大きな庭があり、梅・桜・金木犀などが植えられている。

 今は、梅の花は落ち、桜の木の枝に赤いつぼみが芽を出していた。


(おれは……酔っていたのだろうか)

 昨日の事を思い出していた。

(いや違う)

 ぼくの思考は正常に働いていた。

 物事の是非もちゃんと理解出来ていた。

 そうなんだ。

 ぼくは愛花に対してよこしまな考えのもとで、それを行動に移してしまったのだ。

(彩香を裏切ってしまった……)

 それだけではない。

 ヒロシから託された願いさえ裏切ってしまったのだ。

 そして愛花の信頼も失ってしまった。


(何で……キスなんかしてしまったんだろ。バカヤロウ)

 あの時、心の底から沸き起こる一瞬の衝動を、抑える事が出来なかった。

 ぼくは今まで、愛花との関係を、きれい事の中で、ずっと誤魔化ごまかしていたのかもしれない。

 彩香がいなくなったぼくを支えてくれた愛花への恩返しとか、ヒロシの想いに応えるために愛花を守りたいとか、色々と言い訳を並べて来たが、そんなのはすべて嘘っぱちだった。

 ぼくは今ようやくその事に気付いてしまった。

 いや、今気づいたなんてそれも嘘だ。

 いつからかは分からない。

 だけど、ずっと前からぼくの心の中にはその思いが宿っていたのだ。

(おれは愛花が好きだ)

 ぼくの本当の気持ちだった。それがすべてだった。


 なのにぼくはそれを認める事が出来なかった。

 ぼくを愛しながら亡くなってしまった彩香への想いがあった。

 愛花への想いを認めてしまったら、ぼくが愛し、ぼくを愛してくれた彩香とのすべてが消えてしまう ――― すべてが嘘になってしまう ――― それが怖かったのだ。

 彩香を愛した事を、なかったなんて事にはしたくない。

 ぼくと彩香の間には真実の愛があったんだ。

(それなのに……)

 彩香が死んで五年しか過ぎてないのに、ぼくは他の女を愛そうとしている。

(それでは彩香が可哀そうだ)

 

 彩香はぼくの心の片隅に居続けたいと言い、ぼくもそれを願い、時々心の中の彩香と語り合っている……。

 でもそれは、妄想の域を出ない、ぼくの一人芝居でしかないのだ。

 勝手に作り上げた彩香の言葉に自問自答しているに過ぎなかった。

(彩香の本当の声が聞きたい)

 机の上の彩香の写真は明るく笑っているだけで、何も応えてはくれなかった。

 



 重い足取りで庁舎に入ると、職場の様子がそれとなくおかしかった。

「何かあったのか?」

 近くにいた榊原亜理紗アリサに尋ねた。

「ええ。たった今なんですけど、米原さんが退職届を提出したんです」

 米原というのは同じ総務部総務課の仲間で、今年で二年目になる後輩だ。

「えッ? 米原が?」

「はい。それで課長が何とか説得しようと試みているんですが、本人の意志は固くて、引き止められそうにないんです」


「辞める原因はあれだな」

 と近江誠也が話しに入って来た。

「ああ、あれだろうな」

 ぼくも相槌あいづちを打った。

 先週の辞令で、米原はこの春から豊岡支部に転勤が決まっていた。


「毎年間際になってからの転勤の辞令だからな。三月が来ると、今年はおれかもしれないと毎年ビクビクしているよ。それって何とかならないのかね」

 と近江がぼやくのも無理はなかった。

 すべてがそうだとは言わないが、一般的な民間企業なら数ヶ月前に転勤の辞令が下るのだが、なぜかここでは、四月の転勤要請に対して、辞令が下るのは三月中旬に入ってからだった。


「県庁に入って一年が過ぎたばっかりで、いきなりの転勤なんて、まさかそれはないと思っていたんだろうな。分かるよその気持ち。米原のヤツこれからどうするんだろう?」

 ぼくが言うと、

「米原さんには結婚を約束している彼女がいるみたいなんです。はなばなれになるのを嫌っての決断だと聞きました」

 アリサがそう言った。

「一人娘の彼女の父親が会社経営者らしく、今までその気はなかったんですが、転勤辞令を機に、県庁を退職して後を継ぐ決心をしたようなんです」

「いいよなぁ、仕事の当てがあるヤツは。……ハァ……」

 と近江は溜息ためいきを吐いたが、それは総務課に在籍するすべての者の意見を代弁していた。

 つまり、米原が退職した事で、別の者を同じ総務課から選出しなくてはならなくなったという事だ。しかも早急にだ。


 案の定、朝のミーティングで課長がそれを切り出した。

「誰か、名乗りを上げる者はいないか?」

 皆を集めた前で、課長はすがるような目で部下を見渡していた。

 今日は、三月二十日だ。

 最早もはや一から誰かを選考する時間などなかった。

「バス・トイレ完備の寮を用意してある。家賃も公費で持つ。誰か転勤に応じてくれる者はいないか」

 課長は泣きそうな顔をしていたが、今言われて即答できるものなどいる筈もなかった……。

 ただ一人、ぼくを除いては……。


(いい機会かもしれない)

 ぼくはスっと手を上げた。

 皆の視線がぼくに集中し、同時にどよめきが起こった。

「お、おい、いいのか?」

 隣りにいる近江が驚いた顔でぼくを見た。

 ぼくは苦笑いを浮かべて頷いた。


「春木君……」

 と課長がかたわらに寄った。

「キミが行くというのか……。誰か…他に誰かいないのか?」

 しかし、手を上げる者はいなかった。

「どうやらぼくで決まりのようですね」

「ああ、いや、よりによって春木とは……。キミにはいてもらいたかったんだが……日にちがないからねぇ……やむを得ないか」

 課長は苦虫をかんだような顔でぼくを見た。

「仕方ない。断腸の思いだが、キミに依頼するよ。本当にいいんだね?」

「ええ。大勢の前で手を上げて置いて、今更なかったことには出来ませんからね」

「そうだな。わかった。上にはそう報告しておくよ。悪いけど、四月一日付で豊岡支部勤務となるけど、よろしく頼むよ」

「わかりました」


 迷う気持ちはもちろんあった。

 しかしぼくはもう、愛花には会えなかった。

 会ってはいけないと思った。


「おい、どういうつもりだ」

 朝礼の後、珍しく近江が怒気をあらわにして詰め寄って来た。

「おまえ、この町を離れるつもりなのか? おまえには守るべきものがあったんじゃないのか」

 近江の後ろにいたアリサが、

「愛花ちゃんと何かあったんですか?」

 と核心をついた。

 だけどぼくはもう後戻りは出来なかった。

 二人に答えを出さないで背中を向けた時、始業の合図のビバルディの四季が流れた。


 その後、ぼくが本来するべき仕事とは別に、最低限必要な仕事の引継ぎと、転勤に向けての概要の説明などがあり、慌ただしい一日が過ぎて行った。

 ともあれ、近江やアリサと接触する時間がなかった事はあり難かった。




 家に帰ってスマホを確認するも、愛花からのメッセージはなかった。

 ぼくもメールを送る勇気はなかった。

(転勤を告げずに行こうか)

 愛花の悲しそうな顔がチラついた。

 ヒロシ以外の男に唇を奪われた事で、ヒロシに対して申し訳ない気持ちで胸を一杯にしているかもしれない。

(おれは、愛花を苦しめてしまったのか……)

 それでも心の奥底では愛花に会いたい気持ちがあった。

(美宙にも会いたい)

 転勤を希望した瞬間はそれほど感じなかったものが、一人の部屋に戻った時、言いようのない後悔が、腹の底から突き上げて来た。

「愛花……」

 涙があふれた。

(おれ……こんなにアイツのことが好きになっていたんだ……)

 だけど、もう以前の関係には戻れないと思った。

(愛花には黙って行こう)

 愛花だけではなく、界人にも連絡しなかった。

 そしてぼくは、生まれて二十六年暮らしたこの街から離れる決意をした。

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