第87話 この胸の思い
受験シーズンが終わる三月下旬。
アンビシャスでは一年で一番
今年のアンビシャスは、高校受験・大学受験で更なる成果を出していた。
第一志望校で90%・滑り止めの第二志望を入れると、創設以来初めて100%の合格率を達成したのだ。浪人生を一人も出さなかった初めての年度だった。
アンビシャスのメンバーは全員で、昼下がりのビストロ ペッシュを貸し切りにして集まっていた。
慰労会といったところだろう。
正社員だけでなく、愛花たちアルバイターも含めたので、総勢五十人近くいた。
(アンビシャスも大きくなったものだな)
そう感心して店内を眺めていると、
「春木君、来てくれて嬉しいよ」
と部外者なのに何故か呼ばれたぼくに峰山さんが握手してきた。
「呼んでいただいて嬉しいんですけど、なんか場違いな気がするんですけど」
ぼくが言うと、もう一人の部外者・
「そういうのは気にしないの。春木君は創立メンバーの七人なんだから」
と笑った。
「本当は粟飯原さんを入れた八人なんだけどね」
ぼくの向かいにすわる、創立メンバーの一人・久保川さんが言った。
現在久保川さんは尼崎支部長をしている。
ちなみに創設メンバーの七人のうち、ぼく以外の六人は、現在アンビシャスの幹部職員となっていた。
「大輔さん、どうぞ」
オン・ザ・ロックを両手に持って来た愛花がぼくの隣にすわった。
「飲めるのか?」
「なによ。わたし、もう二十一よ」
「ああ、そうだったな」
「でも、ウイスキーは初めて。ワインなら家で飲んだことあるけどね」
「一気に飲むなよ。きついお酒はチビチビ何かを食べながら飲むものだからな」
舐めるように飲んでいると、誰かに背中を叩かれた。
片手にオードブルを持った琴美だった。
「せこい飲み方しないの。ウイスキーはグイっていくものよ」
「おいおい、愛花にウソ教えちゃダメだぞ。琴美のような酒豪のマネはするんじゃないぞ」
「アハハハハ。春木君、お酒弱いものね。アハハハハ」
と笑っていたが、久保川さんと目が合うと、琴美は少しシュンとした。
そして改まった顔で会釈した。
「相変わらず元気そうだね。安心したよ」
久保川さんは笑顔でそう言った。
その目に屈託はなかった。
「琴美とはいい思い出だったよ。それまで遊んでばかりのおれだったけど、あれから誰かと真面目に付き合いをしたいと考えるになって、今は真剣に付き合っている相手がいるんだ。ありがとな、琴美。おまえとの付き合いがあったから、今のおれがあるんだよ。――― 琴美は幸せか?」
久保川さんにそう聞かれた時、琴美はこれまで見せた事のないくらい幸せそうな笑顔を見せた。
「うん。しあわせよ」
「そうか。それなら良かった」
久保川さんは
「琴美のしあわせにカンパイ」
そう言ってカクテルをクィッと飲んだ。
一方、隣りのテーブルでは粟飯原さんの向かいに橘が座っていた。
意外な組み合わせだと思って目を向けていると、愛花が言った。
「橘さんはね、今、峰山さんにゾッコンなのよ」
「エッ。そうなのか?」
「ウフフフ。知らないと思っていたわ。大輔さんって、その方面はうといからね」
「で、その橘がなんで粟飯原さんと?」
「粟飯原先生、もうすぐ結婚するのよ」
「えっ? そうなのか」
とぼくは同じ言葉を返しをした。
「相手は二つ年上の外科の先生よ。相手の方のお父さんは町の開業医なんだけど、お兄さんが後を継ぐから、粟飯原家の養子に入るのは問題ないとのことよ」
「それで……粟飯原さんは、納得の上での結婚ということなのかな?」
「ええ」
と愛花は明るい顔で頷いた。
「その人ね、県立病院に勤めているのよ。つまり、職場結婚 ――― 恋愛結婚というカテゴリーに入るのかな。わたしも病院で何度か会ったことあるけど、看護師さんからも患者さんからも、とても好かれてる人よ。粟飯原先生も大好きな人だって言っていたわ」
「そうか……それなら良かった」
あの日 ――― 抱き合い、涙しながら別れを告げている峰山さんと粟飯原さんの姿が、
「粟飯原さんは新たなステップを踏み出したんだな。でも……」
と言い掛けて言葉を切った。
斜め向かいの席で、創設メンバーと談笑している峰山さんに目を向けた。
(峰山さんは吹っ切れたのだろうか……)
彼はぼくとは違って、どんな時でも楽天的に明るく振舞う。
あの日、粟飯原さんと別れた直後でさえ、何事も感じさせないくらい、みんなの前ではいつも通りの陽気で明るい峰山さんだった。
二人が別れてから七年の月日が流れていた。
普通だったら「元カノだよ」と笑って話せる間柄だ。
でも峰山さんは、あの日以来、特別な女性の存在を見せない。
もっともぼくは、愛花が言ったように恋愛事情鈍感だから、峰山さんにそういった相手がいたとしても、気付かなかったかも知れないけど、心のどこかに粟飯原さんを忘れられない気持ちがあるのかもしれないと思うと、少しだけ悲しかった。
「峰山さんのこと、気がかり?」
愛花がぼくの顔を覗き込んだ。
ほんのり頬を染めた愛花は妙に
「まあ…少しだけ」
ぼくは曖昧に答え、視線を逸らせた。
「峰山さんはそういったこと一切話さないけど、粟飯原さんはクールな反面、色んなことオープンに話してくれるのよ」
愛花はそう言った後、再び粟飯原さんと橘が向かい合うテーブルに目を向けた。
「粟飯原を今日ここに呼んだのは、橘さんが峰山さんに提案したことなの。先日、県立病院に美宙の検診に伺った時に、粟飯原先生がそう話してくれたわ」
「橘が粟飯原さんを?」
「ええ。話しておきたいことがあったみたいよ」
「話って、なに?」
「確認したかったと言うべきかもしれないわね。たぶん、二つあると思う。一つは粟飯原さんが今のお相手の方と結婚に踏み切ったことよ。橘さんは誰かから、峰山さんとの恋の
「もう一つは?」
「これはわたしの憶測だけど、いや、多分当たっていると思うわ。――― 橘さんは本格的にアプローチしようとしているみたいよ、峰山さんに。だから、その許可を取りたかったんじゃないのかな」
「別れて七年だよ。普通元カノにそんな許可なんて求めるかな?」
「橘さんなりのケジメの付け方じゃないかと思うの」
「そう…かもな」
周囲を気遣い調和を求める橘らしいと思った。
「峰山さんと橘さんって、結構あっていると思うのよ。それに、峰山さんは橘さんの好みにバッチリだからね。大輔さんと似ているもの」
「ど、どこがだよ」
とぼくは吹き出しそうになった。
「おれと峰山さんって陰と陽。真逆の存在じゃないか」
「そこじゃないわ」
と愛花は少し酔った顔をぼくに向けた。
「一人の女性に一途なところよ」
ぼくはそれには答えず、残っていたオン・ザ・ロックを飲み干した。
慰労会が終わると、
「あと少しでディナータイムの仕込みが終わるから、ミーちゃんはわたしが連れて帰るわ。大輔さん、愛花をよろしくね」
桃子さんがそう言ったので、ぼくは愛花と二人でビストロ ペッシュを後にした。
お酒に慣れていない愛花は、あまり飲んでいないのに、少し酔っているようだった。
春先の夕暮れの風はまだまだ肌寒かった。
「寒くないか?」
「だいじょうぶよ」
「家まで歩けるかい? タクシーを呼ぼうか?」
「おおげさね。歩けるわよ」
愛花はコロコロと笑った。
ほんのりと頬を染めた愛花は、ぼくの左肩に
桜にはまだ早い春だが、街中はすっかり春の景色を匂わせていた。
ちょうどその時、明るめのコートを着た、愛花と歳の近い感じの若い女性たちが、颯爽とぼくたちの前を歩いて行く。
彼女達の歩みの先には、同年代らしい青年たちが笑顔で手を振っていた。
それを
愛花の自宅に到着したが、ぼくは玄関に入った所で立ち止まり、床には上がらなかった。
酔っていたのはぼくの方かもしれない。
女性と対面でお酒を飲むなんて事は初めてだったからか、今日は妙に、愛花に女を感じてしまっていた。
「明日も学校とバイトがあるんだから、早めに休むんだぞ」
「家に上がってよ。コーヒーでも入れるわ」
「いや、今日はいいよ。おれも少し酔っているから」
そう言って背中を向け、玄関の扉に手を掛けようとすると、
「少しだけ、傍にいて」
と愛花がぼくの腕を掴んだ。
そのタイミングが悪かったのか、ぼくは体勢を崩してしまった。
「あっ、ごめんなさい」
こけそうになるぼくを支えようと、愛花が身を乗り出して来たので、ぼくたちは抱き合うような形になった。
そして、驚いたように見上げる愛花と目が合った瞬間、ぼくは何を考えていたのだろう……。
愛花の肌の匂いに酔いしれていたのかもしれない。
右肩に愛花の胸のふくらみを感じた時、ぼくは顔を近づけ、愛花の唇を奪っていた……。
抱きしめるその腕に力が入ると、愛花が軽くぼくを押し返してきた。
我に返ったぼくは愛花から距離を取った。
「どういう…つもりですか?」
愛花の目がぼくを
「どうして………したんですか?」
丁寧語で話すのは、愛花の気が高ぶっている証拠だ。
ぼくは何も言い返せなかった。
「ちゃんと話してください。大輔さん」
ぼくを見据える愛花の顔が、一瞬だけ彩香に見えた。
(おれ……なんてことしたんだ……)
これまで積み上げてきた何もかもが、音を立てて崩れ去るのを感じた。
(もう、ここにはいられない)
ぼくは荒っぽく玄関の扉を開けると、愛花に背中を向けて駆けだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます